庶民王子と神話学の夕べ

 この大陸を作ったのはひとつの「石」であるという。
 石とは意志であり、意志とは神の想念である。
 そして、伝説はかく語りき。神の石による創成の神話から始まり、人間の栄華、神への反逆、滅び行く世界に現れた英雄リゼルト・エインロードによる復興、新たなる人の歴史が始める黎明の時――

 興味のない者にしてみれば、それらは全て優美なる子守歌であった。
「……人の話を聞け」
 散る葉の月が始まって早十日。きっちり十回目の補習――本日の科目は神学である――を盛大な居眠りで過ごしてくれた朋友の頭上に、セラトは神話全集の中でも最も重量級の第三巻を容赦なく振り上げた。
 渾身の力を込めてたたき落としたそれは、のんきにいびきをかいていた彼の前髪を少々かすめて机に消えない傷跡を残す。
 彼――諸悪の根元たるカーライルは、本の角が机にかすかにめり込んだ瞬間の目撃者となった。
  色合い良く丈夫で家具に最適とされるヤチガシ材で作られた高級机を、片腕で振り下ろした本の一撃で陥没させる。間違いなく本気の一撃であった。
 壊れた仕掛け人形のような動きで顔を上げた彼は、無表情に打ち下ろした本を手に掛けているセラトを見る。
「おま……え、は……殺す気か」
「譲歩した」
 即座、無表情に答えるセラト。
「……わざと外すという最大限の譲歩をした僕に、これ以上何を要求するんだ?」
 抑揚のない声が、静かな怒りをまとっていた。椅子に座ったまま、カーライルはずるずると後退する。本を振り回せる射程距離を意識しての事だが、それが比較的無駄な努力である事実にはすでに気づいていた。
 殴打がだめなら投げつける。それくらいの行為を、セラトは迷うことなくやってのける。それがたとえ、立場的には自分が仕える立場の者であったとしても。
 今、セラトは口元に酷薄な笑みを浮かべ、くすんだ金色の瞳を剣呑な光で満たしている。
「おはようございますカーライル殿下、ご機嫌うるわしゅう存じます。この度ジェダイト卿より賜りました神学史の論文ですが、お眠りあそばれているくらいですから完璧にできていやがりますよね」
「と、途中から何だか口調がぞんざいになっているのは気のせいか?」
「空耳でございましょう」
「っていうかお前普段そんな言葉遣いじゃないだろ」
 口元だけの笑顔でつらつらと続けるセラトに、カーライルは更に距離を取ろうと椅子から離れる。セラトはそれに気づいて静かに歩み寄る。
 前進、後退、前進、後退。
 ついに脱出口である扉の前にたどり着き、歓喜と勝利への予感にカーライルの口元が緩む。その一瞬見せた隙を、セラトは見逃さなかった。
 唸りを上げる神話全集第三巻がカーライルの頬をかすめる。怯んだ彼の足下には既にセラトの回し蹴りが迫っていた。
 膝の裏を救われた彼は気づけば近くの本棚へと転がり込んでいた。
 金具でしっかりと固定した本棚は人間一人が体当たりをしたところで安定を失うことはない。しかしそれはあくまで棚だけの話であり、中身の本は雨の如くカーライルの身体に降り注ぐ。
 本の山からゆっくりと這い出した彼の前で、セラトはまだ笑みを貼り付けたまま立っていた。右手に神話全集全六巻、左手にストーニア伝承録全五巻を、まるで飲み物を運ぶ召使のような手つきで掲げている。  彼は大きく息を吸うと、蒼白な面持ちでうろたえているカーライルに向って思いの丈を吐き出した。
「少しは真面目に勉強しろよ、このバカ王子がっ!!」

 書庫を揺るがすその怒声は、廊下で巡回中の衛兵はもちろん、執務室に控えていた文官や中庭にいた庭師の元までも届いていたが、誰一人として気に留めるものはいなかった。
 いつもの通りの事態に陥ったのだ。何ら驚くべきことではない。
 この城中の人間が、既に知っていた。
 サファイアリートの第三王子カーライルの従者、サンドローズの魔法家出身の魔術師見習いセラトは「主人を張り倒す事を容認」されている唯一の人間である。また、その事が彼を宮廷に留める最大の理由でもある。
 何せ彼以外の誰一人として、勉強嫌いのカーライルを本に向わせる事ができなかったのだから。

◆ □◆ □◆ □◆

 ストーニア大陸。
  「石の大地」との呼び名にふさわしく「神の石」によって創造されたとの伝説が残るこの大地には「魔法家」と呼ばれる一族が点在している。
 かつてこの地が滅びへと向った時、人々を救った英雄リゼルトは神より力を賜った。リゼルトはその力を信頼する七人の使徒へと分け与え、以後数百年の時を世界の復興に費やした。その神の力を継いだ七使徒の末裔が、現在で言うところの「魔法家」なのだ。
 魔術は神の秘法の一部であり、使徒の血を引く者以外には決して扱うことができない。ゆえに魔法家の人間は古来より重用され、多大なる権力を持つ事が許されていた。
 神の石から力を継いだ者達。彼ら魔法家の人間を、人々は畏怖を込めて「石の魔術師」と呼ぶ。
 とはいえ、石の魔術師とて人間である。魔法を使う他に人と違う事といえば、生まれた時に何かしらの結晶を手に握っている事と、瞳の色が必ずその石と同じ色をしている事だ。逆に言えば、その二つの条件がなければ魔法家の人間とは言えないのである。
 この二つの事象について、今まで「使途の力」と「神の奇跡」の言葉を使わずして説明できた者はいない。歴史を重ねるごとに、魔法家の子供が持って生まれ出る石の種類は多彩となり、あるいは時代とともに消えてなくなった。分家と統合を繰り返しながら、現在大では二十ほどの魔法家が存在していた。

 その魔法家の出自であるセラト――正式な名前をセラト・エルイス・エインロード・サンドローズは、北方のサファイアリートでは珍しい漆黒の髪と、その名が示す石と同じ砂色の瞳を持った十五歳の少年であった。
  サンドローズ家当主の嫡男であり、本来ならば次期当主として魔法家にて日夜英才教育を受けて過ごすべき立場である。
 しかし彼には大きな問題があった。主にその出生に関する事である。
 彼は当主が一時的に滞在していた南国で、気に入って寵愛した娼婦が生んだ子供であった。要するに外国まで来てせっせと浮気にいそしんでいたわけだ。認知をせずに金でも渡して黙らせておけばいい。周りはそのように勧めたのだが、当の本人達はそれを良しとはしなかった。
 父親は母子ともに認知して引き取る事を望み、母親は金も見受けも子供の引渡しも全て徹底的に拒否をした。泥沼の暗礁に乗り上げた認知問題は、母親の死去によってあっけなく幕を閉じる。十歳の誕生日を迎えたばかりの初夏、当主は家族親族総勢の反対を押し切って、セラトを引き取ったのだ。
 平民以下、浮浪児同然の生活から一変、権力で言うならば大貴族級の家柄の当主嫡男に納まってしまった彼は普通に生きていればまず経験しないであろう気苦労を背負う事となった。無学な悪ガキを即座に聡明なる優等生に仕立てあげるという事が土台無理な相談なのである。それでも セラトは半年で文字を覚え、歴史も作法も魔法の事もこの五年で人の数倍もの勉強をして身につけた。
 今では学力ではそれほど劣っているとも思えないし、表面上は優等生の仮面を使い分ける事に不自由しなくなった。それでも生まれが生まれだけに、周囲の白い目が変わるわけではない。それはセラトがいくら努力をしたところで、減ることはあれども消えてなくなりはしないだろう。
 そもそも、そんな生まれのセラトに王宮への奉公に出る話が湧いて出た事が不思議でならない事だったのだ。初めはセラトだけではなく、親族の誰もが何の冗談かと耳を疑った。
 サンドローズ家が領土を有するサファイアリート王国は平和で豊かな国であり、魔法家との縁を非常に大切にする風潮があった。領内に魔法家は四つ存在するが、そのどれもが王室と交流を持っている。王子や姫の相手役として同年代の側近を魔法家の者から選んで徴用するのも、この国では慣例なのである。
  第三王子、カーライルと同年代の子供はもちろんセラト以外にもたくさんいた。しかしカーライルの奔放な性格が災いして、彼の相手役が務まる者は居なかったのだ。
  勉強はさぼる、城は抜け出す、いたずらもする。多くは一月もかからず根を上げた。
 魔法家との繋がりは、国の繁栄を諸外国に知らしめる手段である。慣例を守るために王宮は、出自の問題には眼をつぶってセラトを王宮に呼び寄せたのであった。
 そんな裏事情を知らないままに王宮に来たセラトは「多少強引な手を使ってもいいからカーライル殿下に勉強させる事ができたなら、彼が成人するまでの間は王室での立場を保障する」という約束を受ける。不安定な立場にいた彼にとってこれは願ってもない事だった。

 彼は約束の条件を満たす事ができた。勉学に勤しんで幼少を過ごした魔法家の少年少女には、決して成しえないであろう「腕に物を言わせる」という荒業によって――

 そして、今に至るわけだが。
「全く、十歳で字を覚えた僕だって読める本を、何でカーライルが読めないんだ。アホか、その頭の中には空気が詰まっているのか」
「こんな分厚い本を読んだら眠くなるだろ!」
「そりゃ確かに厚いけど、一番文字が大きくて単語が簡単な書物をわざわざ選んできたんだぞ。僕が君だったら、優しさに涙で文字が見えなくなるね!」
「お前の優しさは本で殴打する事か。それとも蹴り倒すことかよ」
 口論が続く。
 体当たりで散乱した書物の数々を、カーライルとセラトは必死に本棚へと戻していた。何せ二人が縦に並べそうなほど高い天井まで棚は続いているのである。その量たるや半端なものではない。三脚や梯子を駆使して上段が収まり、ようやく彼らは自分の手が届く段へとたどり着いていた。
 思えばこれだけの本の雨に降られて、よく擦り傷程度ですんだものだ。
 セラトは分厚い辞典を棚に収めながら、第三王子の丈夫さに心から感心した。同時に不敬を働いた従者に罰を与えるどころか、まるで友人にでも話すように悪態を漏らす王族として間違った方向性の度量の深さにも。
 十三の時に出会ってから二年、彼からやんごとなき身分の者が持つ高貴な印象を、ただのひとかけらも感じたことがない。しかし不愉快な人間だとは思わないのは、彼が高貴さの代わりに明朗な素直さを持っているからである。これはなかなか貴族ではお眼にかかれない逸材だ。
 やっている行動を取ってみればろくでなしの馬鹿王子なのだが、彼は不思議と民草にも慕われていた。権力を傘に着ない、興味も持たない、身分を問わず親しげに接する。野心というものを遥か空の彼方に忘れ去っているらしい彼は、ある意味一般市民に一番近しい存在となったのである。
 サファイアリートの第三王子は、権力知らずの「庶民王子」。
 人々は、彼の事をそんな風に呼ぶ。
「好きな食べ物が川イワシの煮付けじゃなぁ……」
 庶民嗜好にも程がある。
 城下へこっそり抜け出した時に、大衆食堂に入って大好物なのだと注文したのがそれだった。川で季節を問わずたくさん捕れ、民草の定番夕食メニューの川イワシ。
  始めは新手の冗談かと思った。宮廷ではまず口にする機会がないものだ。
「何か言ったか?」
 怒っていたことなど忘れ去ってしまった様子で、カーライルは本を戻す手を止めた。
  残りはあと数冊。論文はセラトの助けで何とか書きあがり、これが終われば束の間の自由時間を満喫できる。嬉しいのだろう、口元には笑みが浮かんでいた。
「何でもない。久し振りに街へ抜け出してみようか。イワシでも食べに」
「お、いいね。城の飯も美味いんだけどさ。こう、堅苦しくてなぁ」
 恍惚の表情を浮かべる彼を横目に、セラトは最後の数冊を手早く棚に収めた。
「でもその前に直していかなくちゃいけないな」
 カーライルは首をかしげた。何の事を言っているのか、さっぱり推測がつかないらしい。
 セラトは論文の羊皮紙が散らばった机の上、三角に陥没した穴を指差した。神話全集第三巻の爪あと、そこには犠牲となった、カーライルの赤茶色の髪の毛が数本植え付けられている。
「まぁ、こういう時は魔法って便利だと思うんだけどさ」
 光属性、聖獣サミアドの法典第二項「破壊された物質の復元」。
 苦笑混じりに、セラトは宮廷に上がって以来、真っ先に覚えた呪文を唱えるのだった。

◆ □◆ □◆ □◆

 サファイアリートの首都、レインダストは商業都市である。 城下は常に様々な品を扱った商人と、それを求める客でごったがえしている。 もう午後になるというのに、市場はまだまだ活気に溢れていた。
 その人混みの中を、平服に身を包んだ二人は、露天を冷やかしながら進んでゆく。
 セラトは髪の色も金に変えていた。ただでさえ金目は珍しいものだが、黒髪となればそうそういない。いるとするなら、髪や肌の色に関係なく瞳の色は統一されて生まれてくる魔法家の人間くらいのものだ。
 要するに、セラトがそのままの髪と瞳の色で街を歩き回るのは、自分は魔法家の人間です、と触れ回っているに等しい事なのだ。全員が気づくわけではないだろうが、用心にこしたことはない。城下では騎士なども出歩いている。顔見知りに会う可能性もある。
 そんな訳で、いつも金髪に金目の目に眩しい変装なのである。ちなみにカーライルは何もしていない。長い赤褐色の茶髪を紐でしばってくくり上げただけで、あとは着替えをしただけだ。
  言っては悪いが、世間一般の人々が空想するような「王侯貴族のイメージ」にはちっとも当てはまらない彼は、余計なことをしなくても楽に民草に溶け込むことができる。
 顔立ちが冴えないわけではない。容姿は割と恵まれている方だとは思う。ただその印象が「高貴」ではなく「精悍」といった具合なのである。王の椅子よりも、剣を持たせて馬に乗せたほうが映えそうだ。実際彼は、剣技はなかなかの腕前である。
 昼下がりの秋空は高く、上着の隙間から冷たい空気が入り込んでは二人を震え上がらせた。城内での厚着に慣れていると、平服が随分と肌寒く感じる。
「あのさー、僕南国育ちなんだ、うん」
 歯をカチカチと鳴らしながら、セラトは首を横に振った。
「さっさと行こう。目移りせずに!」
 寒い寒いと言いつつも悠長に露店をひやかしては立ち止まるカーライルの首根っこをつかみ取ると、半ば引きずるようにして人混みをかき分け始めた。このまま彼に付き合うと凍え死にそうだ。
 彼は強行に不平を漏らしたが、やがて本来の目的地が近づくにつれ、逆にセラトを引きずりかねない早さで揚々と歩き始める。
 赤く塗られた屋根に「白雪の峰亭」と書かれた木製の看板が目に入る。二人はその下に顔見知りの姿を見て止めた。胡桃色の髪を一つに纏めて結い上げた、白の前掛けがよく似合う彼女はこの店の看板娘として知られている。
「久しぶりだね、アリス」
「あらセラト君、久しぶり。いつもディエル君と一緒よね」
 彼女は二人の姿に気づき、顔を上げた。馴染みの客でも見送りに出していたのだろう。手には店の名前が焼き印された木製のトレイを携えている。
 ディエル、とはカーライルの偽名である。正確には彼の名前の一部だ。カーライル・サン・ディエル・サファイアリート。それが彼のフルネームだった。人の事は言えないのだが、どうしてお偉い様の家系はこう無駄に名前が長いのかと、セラトは常々思っている。偽名を考える手間は省けたのだが。
「ちょっと待ってね。今ちょうど二人分の席が空いたの。ハイゼンさん、イワシ君が来たから用意お願いします!」
 厨房に向かって叫ぶアリス。その後ろで、カーライルは物言いたげな顔で自分の顔を指さしてセラトに目配せをした。イワシ君とはまさか自分の事ではあるまいな。そう言いたいのだろうが、セラトは肩をすくめて返す。
 イワシ君。実際その通りではないか。来るたびにイワシばかり食べていれば、そう呼びたくもなる。
 やがてアリスは長いテーブルの端、向かい合わせの二席へと二人を案内した。
「イワシ君って、こいつの事?」
 釈然としないらしいカーライルを親指で示し、葡萄果汁を満たしたゴブレットを運んできたアリスに目配せをする。彼女は朗らかに笑った。
「だってイワシばかり食べたがるでしょう。ほら、ウチって職人さんや商売帰りの人がお客さんの中心だから、私と同じくらいの歳の人ってあんまり来ないの。徒弟さんがたまに来るくらいで。だから貴方達、ウチの店で働いている全員に覚えられているわよ」
 それはもちろん、イワシ大好きイワシ君としてなのであろう。  カーライルは隣で少々うなだれて果汁をちびちびとやっているが、セラトには慰めてやる器量は持ち合わせていなかった。本日の彼に対する思いやりは、論文補修にたっぷり付き合ってやった時点で既に使用済みである。
「彼はいつものイワシで。僕はヤシイモとニンジンを蒸したヤツがいいな」
 簡潔にオーダーを済ませる。元よりカーライルはお忍びでここまで来ているわけで、要するに王城での晩餐の頃には戻って出席する必要がある。セラトにしても、カーライルの側近という立場で扱われている以上、王城に帰れば使用人に夕食を運ばれるご身分だ。成長期の男子といえども立て続けに二食はなかなか辛い。控えめが大切だ。
 注文を確認してスカートの裾を翻したアリスは、数歩行ってからくるりとこちらを振り返った。
「ちなみにセラト君は、ヤサイ君って言われているわよ。野菜ばっかり食べるから」
 思わぬカウンターパンチだ。
 セラトは飲んでいた果汁を盛大に吹き出した。その先にいるのはもちろんカーライルだ。
「や、カー……じゃなくてディエル、悪気はなかった。決して。君がイワシ好きなのと一緒で、僕の嗜好が野菜に限定されていても何ら問題はないだろ?」
 イワシとヤサイの口論は、アリスが料理を運んでくるその時まで、低レベルな次元をさ迷い続けたのであった。

 ところで、二人の町でのご身分は「ある行商人の息子」という事になっている。親同士が同じ隊商で商売をしている設定だ。職人の徒弟でも良かったのだが、定期的に町へ来られるわけでもなく、まかり間違って技術を披露しろなんぞと言われても困るからである。
 時折つるんでやってきては適当に食べ物をつまんで帰る二人組み。そんな扱いで不自然でもなく、ボロが出たときに言いつくろいやすい設定に落ち着いた。
 もちろん「白雪の峰亭」看板娘、アリスにとってもその設定は有効だ。
「もうすぐで私、休憩なんだけど。ちょっといいかな?」
 そんな言葉で切り出されたのは、セラトが蒸しイモの皮を皿代わりのオニガシワの葉に放り捨て、カーライルがイワシの煮付けの器に骨を押し込んだ時である。どうやら仕事をしつつも、二人の食事が終わる瞬間を待ちわびていたらしかった。
 外に出て待つ事、セラトが読んでいる「携帯版・簡易術式百貨」十五ページ分。前掛けを外したアリスが店の裏側から走ってきた。そのままの勢いで、二人を裏通りまで引きずっていく。
「二人にお願いがあるの」
 まず彼女はそう切り出した。
「歳が近くて気軽に相談できそうな人が他にいなくって。あのね、教会近辺で人さらいが出たって話知っている?」
 二人は頷く。カーライルが剣の稽古をするために騎士団寮を訪れた際、顔なじみの見習い騎士から聞かされた話だ。その件で、騎士からも警備の巡回兵を出す方針が決められたのだという。
 聖獣神殿教義信仰会議堂、略して教会。主に「神の石」とその忠実なる従僕にして大陸を守護する七匹の「聖獣」の伝説と、神話のもたらす教義、信仰の重要性を説くために作られた、判りやすく言うと街に造られた「出張簡易神殿」である。多くの神殿は人里離れた場所にあるために、大きな町にはいくつかこうした教会が置かれている。そこに神官達が集って、広く人民に教義を説くのだ。
「教会の夜説会の帰りに、主に女性を中心に数人で襲って――ってやつだよな」
「そう。それでなんだけど、私の姉が教会で働いているのよ。一応騎士さんは警備してくれているけど、この間は変な足音につけられたって、泣きながら家に駆け込んできてね」
 この展開はもしかしてもしかするのではなかろうか。
 セラトはこの先の展開を予想した。犯人を捕まえる、又はこらしめる等の、この年頃(自分もだが)にありがちなちょっと無鉄砲な依頼が来るに違いない。
「護衛に騎士が配備されているんじゃなかったっけ」
「うん、それが騎士の姿をした人につけられたんだって。もちろん、警備として付き添ってくれた人とは全く別で。それが三日続いたって」
 そういう事はすべて騎士様に任せて善良な一般市民はおねんねしましょうね、という意味を含んで投げかけたセラトの言葉は、予想外の展開を引きずり出してしまった。
 カーライルなんぞ、どうしてくれようか。正義と好奇心に燃え上がった表情で聞き入っているではないか。暴走開始はすぐそこだ。
「騎士の中に犯人がいる、犯人が騎士に変装、別の新手がいる。どれかな」
「解らない。けど、正体を確かめて姉さんの不安を少しでも軽くしてあげたくて。騎士さんが二重に護衛つけてくれたのかと思ったんだけど、それも違うみたいだったから」
 それはそうだろう。犯人直々にご指名を受けているわけでもなかろうに、教会で働いているだけの庶民の娘にごてごてと護衛をつけるのもおかしい。騎士が従来警備すべき相手は王侯貴族や城門であって、街の事には専門の自警団がちゃんとあるのだ。
 今回は極めて悪質な事件という事で、騎士からも人材を出しているだけである。
「うん、まぁ、ディエルは言ってもきかないだろうし?」
「当たり前だろ。友人の危機には果敢に立ち向かうのが英雄のあり方だ!」
 正確には知り合いの姉の危機であり、お前は英雄でも何でもないバカ王子だ。
 セラトは鋭いツッコミの言葉を飲み込んで、アリスに笑顔を向けた。彼女だって何も犯人を成敗してくれと言っているわけではない。店の常連程度の浅い付き合いしかない知り合いにこんな事を頼むのだ。余程思い悩んでいたのだろう。
 件の尾行してくる騎士が、姉の味方なのか敵なのか。それさえ解ればあとは自警団と騎士に任せればいいのだ。
「解ったよ。僕とディエルでできる事があるなら協力する」
「お、珍しく話がわかるじゃないかセラト」
 残念ながらセラトが理解を示しているのは、姉思いのアリスの心情にであって、にわか英雄を気取りたいバカ王子にではない。
 とりあえずセラトがまず考えなくてはならないのは、夜に城を抜け出すタイミングと、カーライルの暴走をどうにか止める理由のこじつけであった。

◆ □◆ □◆ □◆

 晩餐が終わった後、本を読むセラトの私室にカーライルが訪ねてきた。よくある事だ。この城に滞在する王侯貴族の大半は、寝るまでの暇な時間を読書や親しき仲の者との歓談で過ごす。
 カーライルにとってセラトは従者なのだから、本来は出向くのではなく呼び寄せるべきである。しかし彼はもっぱら自分からセラトの部屋にやってくる。王族としての自覚が足りない行為だが、それが日常となっていたのが事を易く運んだ。
 セラトの部屋は二階の屋根に面していた。少々足場は悪いが上手く飛び移っていけば外壁近くまで行ける。外壁と城を囲む外堀に関しては、セラトの魔法が大活躍、だ。
「精霊の火」
 セラトはランプを消して、その代わりに魔法の灯りを灯す。これでしばらくは部屋にいなくてもやり過ごせるだろう。
「便利だなぁ、魔法って。俺も使えりゃいいのに」
「僕はまだ魔術師としては半人前だから使える魔法は限られているよ」
 正式に魔術師として認められるのは、魔法家における成人の儀が行われる十八歳以降だ。それも、それぞれの家が定めた規定の魔法学を修める事ができた者にのみ称号が与えられる。
 未熟な魔力は暴走が多いため、見習いは基礎魔法初級から中級までしか使ってはならないのが掟である。
 最も、セラトはそれほど厳密に掟を守ってはいなかった。基礎魔法上級の魔法はいくつか使ってみた事がある。城の脱出に使う魔法もその一つだ。さすがに方式組み替えが難しい応用魔術には手を出してはいないのだが。
「カーライルじゃ魔法家の血筋でも無理だと思う。基礎の基礎で根を上げるね。難なら魔法学の方程式全部復唱してやろうか」
「遠慮します、結構です、勘弁して下さい。想像しただけで頭が煮えたぎりそうだ」
 さすがにそれはちょっと大げさすぎではなかろうか。貧しい幼少期を過ごしていたせいか、セラトには食事に寝床付きで四六時中勉強ができるなど夢のような待遇だと思えるのだが、王族の彼にそんな事は解らないのだろう。
 つらつらと考えを巡らせながら、彼は窓を開け放った。涼しい、と形容するにはいささか冷たすぎる空気が流れ込む。急速に気力が萎えると共に、何も考えずに安請け合いをしたカーライルの事を心底憎たらしく思った。しかし、妥協してしまったのは自分だから仕方がない。
 セラトは首もとを毛織りのマントでしっかりと覆い、外へと乗り出した。カーライルもそれに続く。外回りの衛兵の死角に立っていることを確認してから、彼は窓に封印の呪文で鍵をかけた。  そのまま屋根を伝って降りていき、外壁にほど近い屋根先へとたどり着く。
 使う魔法は二つ。光の聖獣サミアドの法典より「姿を景観に溶かす法」。セラトが普段変装に使っている魔法の上級版だ。変装時に使う魔法は、光の屈折率を操って瞳に映る色を実際とは違う色に擬装するのだが、こちらは全身を常に周囲の色に合わせて擬装する。早い話が魔法の効力が続く間は、姿が見えなくなるのだ。
 もう一つの魔法は、実の所セラトはあまりこれが得意ではない。元々、魔術師には血筋によって得意とする属性が決まっており、その属性以外の魔法は不得手なものなのだ。反対の属性となれば使えないか、良くても暴走するのが落ちだ。
 目の前に立ちはだかる障害物、二人を縦に五組は並べられそうな高い城壁と、深く広い堀を越えるための魔法は、風の聖獣ルクの法典より「短距離における高空浮遊の法」。
 セラトの血筋、サンドローズが恩恵を受ける属性は光と火。反属性ではないが専門外である。ついでに術のランクも基礎魔法上級ときている。
「今度は堀に突っ込んだり木の枝に引っかかったり、うっかり飛びすぎて民家の屋根に追突したりしないだろうな」
「……補償はしかねるよ」
 お堀に沈没だけは回避したい。夜の水浴びが気持ち良い季節は、とうの昔に過ぎている。
 まず姿を見えなくする魔法。次に、ゆっくりと呼吸を整え、カーライルの肩を掴んで、一節ずつ丁寧に呪文を読み上げる。頭の中は術の方程式で埋め尽くされていた。
 風が、ゆっくりと二人の身体を持ち上げていく。
「成功か!?」
「話しかけるな! 制御が乱れ――」
 る、と発音する前に、二人は地面に輝く月を見ていた。
 そして地面には民家の屋根。寒中水泳は免れたが、一番痛い目に遭うコースらしい。
「風誘いの乙女、緩やかなる輪舞――」
 魔法の効果が持続している間に、次の呪文を紡ぐ。なけなしの風魔法が大活躍だ。
「――しなやかなる腕を求める」
 呪文の詠唱が終わると共に、二人の身体は魔力の支えを失って落ちる速度を速める。カーライルの声にならない悲鳴が、セラトの耳朶に響いた。
 しかし彼はそのまま落ちるに任せる。こんな事態に陥るのはこれが初めてではない。どうすればいいのかの勝手も、最近ようやく解ってきた。城を抜け出す事への是非はともかくとして。
 上目遣いに迫り来る屋根を睨む。
「我が命に応えよ」
 この魔法を使うたびにセラトは思うのだ。
 自分の専門外の魔力を扱っているせいもあるとはいえ「乙女のしなやかなる腕」にしては、いささか乱暴すぎやしないものかと。
 激突直前、二人の身体を強い風がさらった。空中を三回転半ほど転げ回って、街路樹の枝に抱き留められる。後は魔法の効力も続かず、自然界の法則に則って落ちるのみ。
 突然枝を折りながら落ちてきた少年達に驚いて、猫が慌てて駆けていった。
 不運にも従者の下敷きにされてしまった第三王子は、ひくひくと痙攣しながらうめき声を上げる。
「へ……へたくそ」
「言っておくけど、君が余計な口を挟まなければもっとマシな降り方できたから。それと、そもそも何も考えず君が安請け合いしなければこんな事をする必要もなかったし」
「……セラトだって、やるって、言ったじゃないかっ」
「止めても君が説得に応じるとは思えないからね」
 そこまで言い返して、彼はようやく主人をクッションの役目から解放した。

 月が冴え渡る美しい夜だ。城中に在って温めた葡萄酒を飲みながら眺めるのだったらどれほど心癒されることか解らない。
 それでも路地裏は光も届かず、確かに人さらいが潜んでいても容易には気づかなさそうに思える。
 二人は夜説会の行われている教会へと急いだ。東通りの奥、ランプの柔らかな灯りの漏れる聖堂からは、神楽の音色が満ちている。
 夜説会の構成は賛美歌と朗説を交互に行うことで進行する。それぞれ神話の登場人物に扮した歌い手が曲に合わせて台詞を歌い上げ、シーンが切り替わる事に神官が演じられた内容について神話伝承の講釈を語る。どちらかといえば歌劇に近いしろもので、サファイアリート王国独自の説法だと聞く。
 神学嫌いのカーライルでさえ夜説会は好きだと言うし、女子供を初めとして、学のない者にも解りやすいと好評だ。
 大きな教会のものでは、わざわざ国外から見に訪れる者もいるらしい。上手い歌い手にはファンも付くらしいとか。宗教活動とは思えない華やかな儀式である。
 アリスの姉、ミランダは歌い手だった。しかもなかなかの人気で、夜説会の後にはたくさんの花束を受け取るそうだ。
 これでは伝承の浸透よりも世俗の享楽の方が発展してしまいそうだが、聖堂の中では誰もが静かに耳を傾けている。聖域内ではあくまで貞淑であれ。神殿の説く教義のひとつである。
 約束していた場所でアリスと落ち合った後、彼らはゆっくりと夜説会の見物に耽った。ミランダはリゼルトの七使徒の中でも唯一の女性であったとされるロージア・クリソベリルと、神の忠実なる僕、聖獣ルクの二役を見事に演じきっている。
 神話学が苦手なカーライルが夜説会を好きだと言ったことをセラトは不思議に思っていたのだが、謎はすぐに解けた。彼は歌劇の時だけ起きていて、面白みの少ない語りの部分はほとんど居眠りで過ごしているのだ。いわば英雄譚の見せ場だけを拾い聴いているのだから、全体の内容は結局の所ちんぷんかんぷんなのだろう。これでは授業についていけないのも頷ける。
 呆れたが、同時に彼らしいとも思い、セラトはかすかにいびきを立てるカーライルを横目に苦笑いを浮かべる。
 最後の歌が始まり、ミランダ演じるロージアの賛歌が聖堂を満たす。その頃にはカーライルも都合良く目を覚ましていた。閉会直前、舞台から歌い手が去る前に三人は聖堂を抜け出す。歌い手達は裏手の教会関係者用の出入り口から帰路につくという。彼らは裏手の茂みに隠れるによい場所を確保していた。
 使わないに越した事はないがセラトもカーライルも護身用の剣を携帯していた。魔術師としてどうかはともかく、セラトはカーライルの剣の練習に付き合っていることもあり、それなりの腕前だ。カーライルも剣術は得意分野である。
 しかし、アリスは善良なる一般市民であり、食堂の看板娘である。武術の心得などあるはずもない。そんな彼女が武器として持参したものを見て、二人は息を呑んだ。
 平たい円形のフォルム、握るにちょうどいい木製のグリップ。彼女が巾着袋から取り出したそれは、誰がどう見てもフライパンであった。
「えーと、それ武器?」
 思わず尋ねたセラトに、アリスは満面の笑みで頷いた。
「さすがに菜切り包丁は危なすぎると思って」
 確かにその通りだが、何故次の候補がフライパンだったのだろうか。攻撃方法は殴打か投擲しかあるまい。
「こ、攻撃力はありそうだよな!」
 引きつった笑みを浮かべて言うカーライルに、アリスは何故か照れ笑いを浮かべた。こんな物騒な話題でなければ、大変魅力的な笑顔である。
「とにかく、これからが本番だ。抜かるなよ」
 まだ何もしていないにもかかわらずリーダー気取りのカーライルを尻目に、セラトは密かなため息をついた。

◆ □◆ □◆ □◆

 三人はしばらくの間、茂みの中で息を潜めていた。
 表通りでは参拝客と巡回の衛兵、騎士達が道を埋めているだろう。 やがてにわかに騒がしさが増し、普段着に着替えた歌い手達が、貰ったらしい花束を片手に出てくる。既に護衛の騎士とは相談してあるらしく、それぞれ二人ほどの騎士を引き連れて散っていく。歌い手はほとんどが街の住人か、公演が夜であるために近くの宿に部屋を取っているはずだった。
 家が少し遠い者は馬車で帰るという。こちらも騎士が同乗するとの事であるから、心配はないだろう。
 件のミランダであるが、彼女は家が近いために歩いて帰るのが常らしい。短距離とはいえ、夜に若い娘が歩くのは不用心としか言えないが、歌い手仲間の男性や神父が近くまで送ってくれる事も多く、それほど危機感を持っていなかったらしい。
 危機感が薄い要因は彼女の外見にもあった。歌い手として舞台に立っている時は、目鼻立ちのすっきりとした美女なのだが、裏口から現れミランダを、セラトとカーライルはアリスに教えられるまで本人と解らなかった。
 整った顔立ちを台無しにする、分厚いレンズに野暮った黒縁の眼鏡をかけ、美しい髪はぞんざいに後ろで束ねてある。服装は地味の一言で、飾り気もない。歌い手というよりは家の中で機織りでもしていそうな風情である。
「みんなびっくりするの。お姉ちゃん、舞台以外ではこう、気弱で地味で……しかもひどい近眼で、あの眼鏡じゃなければ人の顔もろくに解らないのよ」
 それにしても、目を疑う変わりようだ。セラトとカーライルは顔を見合わせた。しかし気の利いたコメントが出せるわけでもなく、二人はただ相槌を打つに留める。
 三人は騎士と共に歩き始めたミランダを追って、松明を灯し少し距離を離れた所を歩き始める。 人通りが多い内は下手に隠れる方がかえって悪目立ちする。万が一ミランダに気づかれたところで、アリスが一緒なのだから身の潔白はすぐに証明されるのだ。
 住宅地が奥まって行くにつれて人は減っていく。そろそろ隠れるに良い物陰はないかと、セラトが密かに視線を巡らせたその時、「彼」と偶然目があってしまった。
 月明かりの届かぬ暗がりで、騎士の制服らしき装いでミランダを目で追っていた。場所を変えようとしたのか、不意に振り返った瞬間にセラトと視線がぶつかったのだ。
 慌ててまた暗がりへと消えたその男に、セラトは違和感を覚えた。騎士ならば堂々としていても誰も疑いの目など向けないだろうに、何故逃げる必要があるのか。
「カー……いや、ディエル、僕は次の十字路で分かれて回り込む。君は忘れ物をした振りをして戻ってくれ。あの脇道の出口を塞いで欲しい」
 真っ直ぐ前方を見据えたまま、セラトは二人だけに聞こえるように落とした声で呟く。
「あの路地か」
 カーライルの問いかけに。セラトは黙って頷いた。男の影が見えた路地をやり過ごし、彼らは次の大通りで立ち止まる。
「あ、いけね。俺、教会に忘れ物したみたいだ」
「もう、仕方ないな、ディエル君は」
「僕は急ぐから先に帰るよ」
 白々しい演技を大げさな身振り付きでこなした三人は、二手に分かれることとなった。セラトは一人男の消えた路地と同じ方角へと曲がる。
 周りに人目がない事を確認してから、彼は苦手な風魔法を再び行使した。今度は魔法の対象が一人だけな分、難易度も低い。着地に手間取りはしたものの、難なくすぐそこにある民家の屋根へとたどり着けた。
 事前にこの辺りの地理は調べ尽くしてある。
 男が居た路地は袋小路になっている。と言っても、道をふさいでいる塀の高さは長身の大人なら、何か手頃な台を見つければ簡単に乗り越えられる高さだ。
 両隣は高い集合住宅の民家が建ち並んでおり、逃走するならその塀を越えるのが無難である。
 セラトは深い闇が溶け出している路地の隙間に目をこらした。案の定というべきか、塀のあたりで何やら動いているものが見える。何のつもりで騎士の変装をしているのか解らないが、白い服を着ていた事が彼の最大の不注意である。屋根の上から雨どいを伝って塀のすぐ近くへと降りる。伊達に王宮脱走歴が長くない。物音を立てないで事を成す自信はあった。褒められたものではないが。
 今まさに男が乗り越えようと足をかけたその塀に着地する。さすがに相手も気づいたらしく、びくりと身体を硬直させ息を呑む気配が伝わってきた。
 そこで逃がす暇を与えるほどセラトも愚かではない。一瞬の逡巡を見抜いて、彼は男の肩とおぼしき辺りを蹴り飛ばした。情けない悲鳴を上げながら、転げ落ちる音が聞こえる。 特別怪我はなかった様子で、彼は辺りの物に散々ぶつかりながら逃げ出した。向こうにはカーライル達がいる。腕を信じないわけではないが、アリスもいる事を考えればあまり血気の多い事はできまい。
 セラトは呪文を紡いだ。多少目立つが、そんなものは後でどうとでも誤魔化しが効く。
 男の眼前にぼんやりとした灯りが現れたのを見ると、セラトは近くの物陰に隠れて目を閉じた。一瞬の後、瞼を通して暗闇が白色の世界へと転じる。暗闇を照らす「精霊の火」の強化版。目くらまし効果をもたらす魔法である。得意分野だけに、細かい調節は簡単だった。
 光が収まった事に気づくと、セラトは悲鳴を上げてうずくまっている男に駆け寄った。遠く、松明の火が見える。カーライル達だろう。
 足音に気づいたのか、男は視力を奪われても尚逃げようと走り出す。しかし、つまずいては転びそうになりながらの、見るからに危なげな足取りであった。これならばカーライルがいるのだから、セラトが手を出す必要もない。そのまま男を出口へと追い立てて行く。
 一方、出口で犯人が出てくるのを今か今かと待ちかまえていたカーライルは、灯りの届く範囲に人影が近づいた事に気づいた。様子を見るに、暴れられても取り押さえるのに苦労するほどでもなさそうだと判断し、彼は剣の柄に伸ばしていた手を離す。
 しかし、武術の心得など全くないアリスにはそこまでの判断力がなかった。
「お姉ちゃんのカタキ――っ!!」
 ちょっと待て、カタキって君の姉さんはまだ死んではいないぞ、と。
 カーライルがつっこむ隙も、もちろん止めに入る暇もなかった。
 渾身のフルスイングで放ったアリスの一撃が、駆けだしてきた男の顔面に直撃する。もちろん凶器は例のフライパン。
 蛙を馬車で轢いてもこんな声は出すまい。そんな悲鳴を上げて、男は崩れ落ちた。 数秒後にセラトが顔を出し、やれやれと言った様子でため息を吐く。
 鼻血を出して泡を吹いている二十代半ばほどの青年が、松明に照らされている。少々哀れにさえ思えてきた。
「やりすぎだ……アリス」
「……マクウェルさん!?」
 セラトの呟きなどまるで聞こえていない様子で、アリスは驚いた声を上げる。どうやらこの男は知り合いらしい。 顔見知りの犯行だったとは、とセラトとカーライルは顔を見合わせた。
「何かあったのか!?」
「アリス? どうしてここに……」
 セラトの放った目くらましの光に気づいたのか、騒ぎを聞きつけたのか少し先を行っていたはずの騎士とミランダが駆け寄ってくる。アリスは困惑しながら、姉と眼下で気絶している男とを見比べる。
「私、お姉ちゃんに付きまとっていた犯人を捕まえたくて、友達に協力してもらって追いかけたんだけど……」
「えぇ、マクウェルさん!?」
 ミランダも知っている顔だったらしい。倒れている男の顔を見て愕然とする。
「とりあえず、待機所まで連行しましょう。医療班もいますし、意識が戻ったら尋問をします」
 騎士は手慣れた様子で気絶している男の手を縄で拘束し、肩へと担ぎ上げた。
「アリスったら、危ない事しちゃダメじゃない。ところで……」
 ミランダはきょろきょろと辺りを見回す。
「そのお友達はどこへ?」
「あれ? ディエル君、セラト君?」
 アリスも異変に気づき、辺りを見回す。少年二人の姿は忽然と消えていた。

 その頃、セラトは姿を消す魔法を行使して、カーライルの口を押さえて引きずりながら、現場から逃げている最中だった。
 不自然な退場の仕方だと解っている。
 仕方ないのだ。ミランダに付いていた騎士が、顔見知りだったのだから。
 あとはアリスが、自分達の事を細かく説明しないでいて置いてくれることを、騎士の察しが悪いことを祈るばかりである。

 ところで、哀れな男マクウェルは、実の所人さらいの犯人ではなかった。
 数日後、再び城下を訪れた二人に、アリスは苦笑混じりに後日談を語ってくれた。
 世間を騒がせた事件の真犯人は同日、違う現場で取り押さえられたとの事だ。ならばマクウェル氏が何故あんな場所で騎士の変装までしてこそこそ動き回っていたかと言えば、彼がミランダの信奉者であったからだった。
 この度の騒ぎのおかげで、夜に仕事があるミランダの身が心配でならなかったのだが、内気な彼は自分が護衛にと名乗り出る事もできず、その内騎士や自警団の配備によって機会を失ってしまった。
 しかし、勇気はないが素直に諦める事もできなかった彼は、騎士に変装して密かに犯人を警戒していたのだ。変装していれば、目撃されても巡回中の騎士だと言えば誤魔化せる、という寸法だったらしい。
「……それなら隠れたりしないで、もっと堂々としてりゃ疑われなかっただろうに」
 愚かな浅知恵の末路であり大いに自業自得なのだが、彼自身はそれなりに真剣だったのであろう。凶悪犯に間違えられて顔面殴打は、さすがに哀れすぎる。
「マクウェルさんは仕立屋さんなの。その、私の殴っちゃったのは二代目のエインさんって言うんだけど、お姉ちゃんの舞台衣装を造ってくれている人でね」
 つい先日、鼻を骨折したらしく痛々しくも情けない顔面包帯姿で、件のエイン・マクウェルはミランダの元を訪れた。
 妹の凶悪な攻撃について責める事もなく、自分の行動を心から反省したらしい彼は、王宮に献上しても構わない程の上質の織物を携えてきたのだ。いつか勇気を出してプロポーズをするためにと悶々と貯め続けていたというお金を全てはたいて、自分の店から買い取ったらしい。
「それでね、お姉ちゃんのために無料で衣装を作ってくれるんだって。お詫びを考えたけど、自分にはそれしか取り柄がないし、騎士の真似事なんかよりこうする方が自分らしい方法だったと気づいた、って」
 彼の行動には呆れたものの、ミランダは彼を許したという。舞台以外では地味で内気で口下手だという彼女には、マクウェル氏の気持ちも少なからず理解できたのかもしれない。
「実はちょっと衣装ができるのが楽しみなの。マクウェルさん、仕立ての腕前は素晴らしいのよ。騎士の服だって見様見真似で作っちゃったしね」
 舞台に立って唄う彼女は美しかった。彼にとってミランダは自分の鏡であったのかもしれない。地味で内気な彼女が、舞台で華やかに変身する。その功績が自分の作った衣装にも有ることを彼は知っていた。
 彼女が舞台で輝けば、それを我が事のように喜ぶ。そうしている内に、ミランダへの羨望と思慕が生まれたのかもしれない。
「次の夜説会が楽しみだなぁ」
 のんきにイワシ料理に舌鼓を打ちながら、カーライルは笑った。
「そういえば、何で二人とも突然帰っちゃったの? 大変だったのよ、あの後」
 突然、最も恐れていた点に話題が飛び、二人はほぼ同時に食べていた物を噴出した。
「あの時の騎士さんがセラト君に会ってみたいって、言っていたわ。宮廷に同じ名前の見習い魔術師がいるんだってね! 第三王子、カーライル様付の」
 セラトとカーライルは顔を見合わせ、引きつった顔でフォークを置く。
「会ってみたいなぁ。そちらのセラト君は黒髪なんだって!」
 うふふふ、と笑うアリスの真意を汲みかねて、セラトは曖昧な笑みを返した。
 彼女が本気でそう信じているのか、暗に解っているけれども言わないでおいてくれているのか。それはセラトにもカーライルにも解らない。
 むしろ解らないままでいたい。
 昼下がり、白雪の峰亭の片隅で、それぞれ腹の下に本音を隠した子供が三人。
「そうだね、会ったら面白そうだよな」
 ようやく気を取り直して朗らかに笑い飛ばしたカーライルの言葉に、セラトは肩をすくめながら、アリスはお盆を口元に当てて、つられたように笑い出す。

 

 庶民王子と従者の日常は、ひとまず今日も安泰である。

 

 

2005.11.3更新

mixiにてこっそり公開しておりました、同人誌「石の魔術師」シリーズ番外編その1です。
セラトが宮廷でカーライルと一緒にお勉強するのがお仕事だった頃のお話。
何故か見習い魔術師時代の方が、正式に魔術師になっている本編よりもたくさん魔法を使います。本編は長編の間に2回か3回、見習い編は短編で5回くらい?
見習い編では、本編ではあまり出ないキャラにもスポットを当てられたらなー、と思います。

 

戻る