春には湖岸に咲く花を

 サファイアリート王国第三王子付き、魔術師見習い階級セラト・サンドローズは朝に弱かった。
 起きられないわけではない。朝を知らせる鳥が啼き、遠く使用人宿舎で起床の合図である鐘の音が聞こえる頃から、一応は目を覚ましている。
  ただし、目を覚ましてから毛布から這い出るまでを他人の数倍時間をかけなければならない。寒い季節はことのほかその傾向が強かった。
 しかし従者を務める立場上、主人よりは先に起きて身支度を整える必要があったし、肝心の主人が彼とは違い快眠快起床の御仁であるがために、まどろみの幸せから引きずり落とされる事もしばしばだ。
 たとえば、本日の朝のように。

「セラト――ッッ!」

 朝っぱらから迷惑を顧みない大音量。乱暴に開け放たれる扉。
 宙を舞う「実用・魔術大全完全版第五巻」。
 セラトの主人にして心地よい朝を綺麗にぶち壊してくれた諸悪の根元、カーライルは、寸での所でその攻撃から身をかわす。
「危ないだろうが!」
「……避けるな。本が傷むじゃないか」
「俺より本の方が大事かよ!」
「うん大事」
 主人に向かってあんまりな言葉を投げつけ、セラトはようやくベッドから這いだした。さすがに主人が起きているのに二度寝を決め込むわけにはいくまい。
「で、何がどうしたんだ?」
「お見合いだ!」
 セラトは首を傾げる。
「誰の」
「俺のじゃなかったらこんなに慌てるかよ」
 それもそうだ、と慌てふためく主人をよそ目に、正装への着替えを始める。
「あ、着替えるならローブじゃなくて平服で。剣の練習に付き合って欲しいから」
 カーライルの言葉を受けて、セラトは畳んであったローブへと伸ばしていた手を引っ込め、動きやすい形の服を探し始める。
「お見合いなんて、王族なんだから今まで何度もやったろう?」
「いや、初めて。何回かそういう話はあったらしいけど」
 本人の元へたどり着く前に立ち消えた、という事か。
 噂に聞く限り、カーライルの王族らしからぬ悪ガキぶりは幼少のみぎりからのものであるらしい。慎ましやかな淑女たるよう教育された貴族の娘には、なかなか勇気のいる相手なのは確かな事だ。
「いずれにしろ慌てる事じゃないよね。魔法家じゃ生まれてすぐに婚約者を決めるなんて当たり前だけど?」
「え、じゃぁセラトにもいんの!? 婚約者!」
「いるわけがない。僕が引き取られたのは十歳の時だぞ」
 血筋へのこだわりは王家以上と言われる魔法家で、娼婦から生まれた私生児であるセラトに縁談が持ち上がるわけがない。
 あえて口には出さなかったが、さすがにカーライルも気づいたらしい。ばつが悪そうに顔をそらす。
「まぁいいけど。十六歳で婚約なんて王族じゃ遅すぎるくらいだ。十五で社交界に入って即結婚なんてよくある話なのにさ」
「えぇ? まだ早いだろ。結婚なんて冗談じゃねーよ」
 結婚ではなく婚約だ。それ以前に見合いの本番さえまだこれからだ。
 くどくどと説明をしてやろうかとも思ったが、それを実行に移す程の意欲は湧かない。セラトの頭は、まだ睡眠をほしがっているのだ。
 とりあえず、現状で確認すべきことをぼんやりとした意識の中から引っ張り出した。
「……見合いというからには相手の肖像画とか、書状と一緒に届いたんだろ。見たのか?」
 カーライルは首を振る。彼にとっては見合いをしなければならないという事実だけが重要で、相手の事などすっかり亜空間の中にでも葬り去ってしまっていたのだろう。
 全く、彼らしいというか、呆れる。
 まずはどこの誰が相手なのか、それが解らなければ良縁かの判断もできないだろうに。
 セラトはあくび混じりにチュニックに袖を通す。
「まずはちゃんと絵と書状を見なよ。話が見えないじゃないか」
 ここまで来ると王族の自覚云々というよりも、相手のご婦人に失礼だ。顔も器量も家柄も、何一つ見ないままに断ろうなどと言うのは筋が通らない。
 一応、カーライルにも自分勝手な事を言っている自覚はあるらしい。彼は何やらぶつぶつと悪態をつきながらも、一度部屋に戻って書状の確認をする事に同意した。
 ローブにわざわざ着替え直すのも面倒で、セラトは兵士用の練習着の上に術士用の上着というアンバランスな出で立ちで彼の部屋に向かう。
 カーライルの私室に入る機会は度々あったが、彼の印象から想像するよりはずっと綺麗に整頓されている。それは彼の性分が意外に几帳面だからではなく、部屋付きの使用人達の功績である。
 しかし、本日ばかりは部屋の主の性格を的確に表した惨憺たる有様であった。毛布は跳ね飛ばされ、机の引き出しはどれも半端に飛び出し、カーテンに至っては半開きである。
  慌てて飛び出した時に、朝のたしなみとして用意された紅茶と飾られた花瓶ごとテーブルを倒したらしい。現在部屋付きの使用人達が一斉にその掃除にかかっている。紅茶の染みが絨毯については彼女らとしても主人に申し訳が立たないのだ。
 こんな粗雑な王子の部屋を担当したばかりに、とんだ災難である。セラトは密かに彼女らへと同情の眼差しを向ける。
「で、件のお見合い絵は」
 カーライルはぶちまけた紅茶の被害から逃れるように、部屋の隅へたてかけられている包みを差す。開いてすらいない内からよくこれだけ大騒ぎができるものだ、とセラトは別の意味で感心してしまった。
「……どこのご令嬢か解らないけど、可哀想に」
 こんな荒れ放題の部屋で包みも開けてもらえず放置とは、大変な失礼だ。
 少なからず冷静になってきたのか、カーライルは文句を言いながらも包みを破り始めた。開け方の行儀が悪いことこの上ないが、いずれ捨てる物なのだからとその辺は妥協しする事にした。この主人の行動について一から十までツッコミを入れる事は、はっきりいって時間の無駄だ。
 やがて、裂けた包みの内側から、絵の全貌が姿をあらわした。
 金色の華やかな細工をあしらった額の内には、精緻なタッチで描かれた少女の肖像が描かれている。緩やかな金の巻き毛に、宝石のような翠色の瞳、笑みを象ったバラ色の唇。
  二人は実に素直な感想に行き着いた。
「美人だな、普通に」
 セラトの呟きに、カーライルが同意を示したように頷く。
「兄貴達の罠じゃないかって疑っている」
「悪いけど同意しかねる。君の兄上はそこまで暇じゃないだろう。でもよく聞くよね。お貴族様の見合い肖像画は報酬により美形度増量って」
 文句を言いつつも、相手の顔を見て多少の期待は持っていたのだろう。この言葉によって容赦なく現実を叩きつけられたカーライルは、隣でがっくりとうなだれる。
 あいにくセラトは、心にもない慰めで彼を勝手な憂鬱から救ってやる優しさを持ち合わせていなかった。
 悩める主人は軽く無視して、寝台の上で広げて放られている書状へと手を伸ばしす。絵の送り主のからのものだ。
 黒いインクで、繊細な文字がお見合い相手について語っている。その内容を読み進めるにつれて、セラトの眉間には深いしわが刻まれていった。
 書状の終りには、ペリドット皇国クラセスカ王家の紋章が型押しされている。
「カーライル、一大事だな、これは」
「だからそうだって言っているじゃないか」
 酷く心外そうに怒るカーライルの眉間に、セラトは人差し指を突きつけた。
「君の思っている一大事じゃないよ。お相手は隣国の姫君だ。いいのか君で。王族相手にこの庶民王子で!」
「庶民って言うな!」
「気品のキの字も作法のサの字も、小指の爪のアカほどすら持っていないクセに何を言ってんだ」
 主人に対する暴言、また暴言。
 作法講師を務めるトリスタン卿が聞けば卒倒しかねない光景だが、実際セラトの言う事は的はずれなわけではなかった。むしろ真実であるから難儀なのだ。
 これまでも浮いた話が幾度となくあったのであろうに、何一つカーライルの元に届かなかった。それが何よりもの証拠である。
「とりあえず、その肖像画は美化されているわけではないから安心しろ。私は本人に会っているからな」
 突然、会話に割って入った第三者。
 もちろん後始末を黙々と続ける使用人ではなかった。開け放たれた入り口に青年が二人、呆れた顔でこちらを観察している。
 口を出してきた人物はエルセイル・ラトス・クレイン・サファイアリート。この国の第一王子であり、皇太子である。
 隣に控えるのはアトリアス・ルサ・イオニス・サファイアリート。第二王子であり、騎士団を始めとした国の戦力情勢に関わる事を好み、本人もまた稀なる剣の才能を持った人物である。
 要は、カーライルの兄が二人、そこで今までのやりとりを立ち聞きしていたと言うことだ。
 さすがのセラトもこれには閉口した。
 彼らの主従逆転しつつある日常は、割と城内で知られている事である。しかしその実態を、一番見られてはいけないであろう人物にじっくり観察されてしまうとは。私室だからといって油断しすぎたのだ。
 冷や汗をだらだらと流しながらセラトは硬直していたが、当の本人達はまるで問題にしていない様子である。
 セラトとは全く別の理由で硬直しているらしいカーライルの元へ、次兄アトリアスはつかつかと歩み寄った。
「いい歳になって駄々をこねている馬鹿者はお前の事か」
 ごすごすごすと、彼はカーライルの頭に拳の三連撃をお見舞いする。
「痛ぇ!痛ぇって、アトリ兄!」
 手加減なしのの攻撃に、カーライルの情けない悲鳴がこぼれ出た。
 セラトはそれを助けるでもなく、この状況をどうしてくれようかと思案した。主人たっての要望とはいえ、平服に上着を着ただけの姿である。これだけでも十分に失礼に当たる。更に先ほどの侮辱三昧だ。
 主人の兄君達を前にこれ以上礼を欠くわけにはいくまい。カーライルに助け舟を出そうにも、フォローのしようもなく彼の自業自得である。
 苦悩のままに、アトリアスから制裁の絞め技を行使されているカーライルを見やる。 兄弟仲良く楽しそうで何よりだ、と場違いな呟きを漏らしそうになった。まだ頭の中が眠りたがっているのかもしれない。
「そんなに気にする事はないぞ、セラト。こいつを張り倒すのは王家公認だからな。難ならお前もどうだ? この愚弟に頭突きの一発でも」
「そうそう、ちょっと厳しめの方がいいんだよ。甘やかされいるからね、こいつは」
 二人の兄王子は口々に言う。かといって、額面通り受け取ってカーライルを張り倒す側に回るのもどうかと思い、セラトはとりあえず手紙を封に戻す作業に没頭した。
 ようやく解放されたらしい主人の泣き言が聞こえるが、心頭滅却にて黙殺する。
「とにかくカーライル、先ほどセラトも言ったように、この件は隣国との外交にも関わる事だ。くれぐれも勝手な考えを起こさぬように。半月後に国境沿いのヒルベルトの街で行う。――あ、それとセラト」
 カーライルを諭していたかと思えば、エルセイルは唐突に弟の従者へと話を振った。
 戸惑ったセラトは、わずかにたじろぐ。
「な、何でしょう、殿下」
「お前も同行者の中に含まれる。この愚弟をよろしく頼むぞ」
 にやり、と。
 頼りにしている、というよりはむしろ面白がっているような、意地の悪い笑みを見せたエルセイルは、そのまま踵を返し部屋を後にする。アトリアスも同様の笑みを浮かべ、硬直しているセラトの肩をばしばしと痛々しい音を立てて叩くと、長兄の後を追った。
 セラトが宮廷に身を置いているのは、カーライルを勉強させる目付役のためである。
  本来だったらその出自だけで、大方の貴族からは無下にに扱われて当然の立場だ。王宮に上がった事自体が異例にして特例なのだ。
 そんな彼を、あの皇太子は大切な外交の席に付き添わせると言う。こう言っては悪いが、正直考えを疑う。
「なぁ、ところでセラト」
 兄王子達の去った扉を見つめ、呆然とするセラトの背後、頭のこぶを気にしながらカーライルは問いかけてきた。
「俺、そんなに“ぐてーっ”としてるか? そりゃ兄貴達はいつもきちんとしているけどさぁ」
 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
 しばしの間考え、彼の兄王子達がカーライルをどう呼んでいたかという事実に考えが至り、同時に力の抜ける思いをした。
 セラトは手紙を静かにテーブルへ置く。危うく大事な書状を、握りしめてくしゃくしゃにしてしまうところだったのだ。
 振り返る。息を整える。
「よーくお聞き下さいませ、カーライル殿下」
 大きく息を吸い込む。
「愚かな弟と書いて“ぐ・て・い”って言うんだよ! この馬鹿王子が――っ!」
 第三王子とその従者。使用人達の間では、ひそかに王宮きっての武闘派漫才コンビと囁かれる二人の朝は、今日もボケとツッコミから始まる。
 しかし、事態はボケている場合でもツッコミを入れている場合でもない方向へと、少しずつ進み始めたのだった。

◆ □◆ □◆ □◆

 闘技場は、王宮の敷地内、騎士団直轄の所領にある。
 その区画は主に近衛騎士の詰め所、寮、兵士の鍛錬場を兼ねた闘技場で構成される。
 有事の際には式典場、年に一度行われる騎士の御前試合、騎士登用試験場としても使われるため、闘技場は外観内観共に壮健な造りになっている。
 無為な喧嘩に飽きたセラトとカーライルは、当初の目的を思い出し、この場所を訪れていた。
 知り合いの騎士に取り次いで貰い、練習用の木剣を借りる。
 木製とはいえ造りはきちんと剣の体裁を整えてあり、鉛で主さも似せてある。殴打に使えば立派な凶器となる代物だ。
 もっとも、二人とも怪我をするほど素人ではなかった。
 カーライルは幼少より剣技が好きだった事もあり、今では次兄には敵わずともそれなりの腕前を有している。
 彼の練習に付き合っていたセラトも、どうやら素質があったらしい。今では魔法使いを目指さずとも騎士としてやっていけそうである。
 もちろん、普通の魔術師見習いは剣など扱わない。セラトが異色過ぎるのだ。おかげで、騎士達の間で彼は、なかなかの有名人であった。宮廷内にいるよりは風当たりが強くない分、過ごしやすい場所でもある。
 二人は木剣を構え、向き直った。
 地を蹴り、鈍い音がぶつかり合う。数度の攻防、不意に止む音、また数秒の攻防。延々と続く打ち合いは、じりじりとセラトの側が押され、勝敗を分けようとしていた。
 いつもの事だ。いくらセラトに素質があろうとも、稽古を重ねた年月が違う。ましてやセラトの本業は見習いとはいえ魔術師である。
 防戦一方、背後に壁が迫りつつあるのを感じていた。壁際に追いつめれば、カーライルは打ち込むのを止める。そうなれば一旦休憩だ。
 考え事は隙を作る。一瞬の逡巡に、カーライルの木剣が唸りを上げた。身を屈め、両手で剣の腹を押さえ、セラトは辛うじて攻撃を受け止める。
 鮮やかな勝利に頬を緩めたカーライルの表情を視認する――と共に受け流した返しの手で彼の持つ木剣の切っ先を逸らす。
 思わぬ行動に驚いたカーライルであったが、次の瞬間には視界が宙を舞っていた。太刀筋を変えられて出来た隙に、セラトが足払いをかけたからである。
 地面に転がった彼はしばし呆然とし、そして恨めしげな表情で従者を見上げた。
「おーまーえーはー! また卑怯技を!」
「ごめんごめん、つい昔のクセが。自分より強い相手を倒すのはさ、相手が勝利を確信した瞬間の油断に漬け込むのが一番なんだよ?」
 主人をひっくり返した張本人たるセラトは、苦笑を浮かべつつあらぬ方向へと視線を泳がせた。いまだに喧嘩の癖が抜けない。
  隙を見せられれば付け込みたくなるのは人の性――とは思っていないのであろうカーライルは、不満顔のまま起きあがった。
「いやしかし、実際戦場に出るとするなら、生き残るのはサンドローズ殿の方でしょうな」
 手合わせを見ていた中年の騎士が、さもおかしそうに笑う。
「基本の型を守る事は上達の近道ではありますが、実実戦では臨機応変に戦う能力を要求されます。今は力業に偏っていますが、きちんとした体術を学習して組み合わせれば、サンドローズ殿は優秀な戦士になれるでしょう」
 あくまで「騎士」ではなく「戦士」だ。
 セラトは曖昧な微笑をもって返す。結果的に気の緩みを露呈する事となったカーライルは、不満そうに木剣を投げ出した。
「この国ではそうそう戦いの機会なんてないだろうけどなぁ」
「そんな事はありませんよ」
 半ば負け惜しみとして吐かれたカーライルの言葉に、反論する第三者の声が重なる。
 凛と透き通るその声は、闘技場には不似合いな女性の物だった。
 騎士の正装を纏い、胸元には聖者の印章が飾られている。中央には正方形を斜めに立てたオパールの菱形、それを中心に銀の十字が据えられている。
 神の石とその輝きを示す印章を掲げるのは、騎士団の中でもいわゆる「神官戦士」という扱いとなる、聖女騎士の慣習である。
 彼女は肩口まである黒い艶やかな髪を揺らし、王子へと頭を垂れた。
「カーライル殿下にあらせられましては、ご機嫌麗しく存じ上げます。僭越ながら、この度のご縁席へ同行させて頂くことになりましたので、改めてお伝えするために参りました」
 セラトは、隣でカーライルの表情が蒼く転じていく様を横目で見やった。
 無理もない。彼女は言うなれば彼の天敵に等しい存在だ。
「――どうして、この国でも戦が起こると? アズライト卿」
 別に、彼女を苦手とするカーライルに助け船を出すつもりではない。
 セラトの知る限り彼女――セレネ・アズライトは、無為な争いを好まない騎士道を重んじる人格者であったからだ。
「この度殿下がご縁をいただく事となりましたペリドット皇国は、我が国と長く盟友の関係にある事はご存じですね?」
 まず彼女は、そう切り出した。
「幸い我が国は、内乱の気配もなく、南部に隣り合うクリソベリルとも友好を築いておりますが、ペリドットはそうではありません。西には軍事国ルビーヴァレイがあります。国境間の山脈のおかげで大規模な侵略を受けておりませんが、過去に幾度も戦火の上がった歴史があります」
 なるほど、とセラトは納得した。
 古くからの同盟国の危機とあれば、サファイアリートからも少なからず援軍を送る事になる。ペリドットはそれほど大きな国ではなく、ルビーヴァレイから積極的な侵攻を受ければ敗北は目に見えている。
 今までの侵攻が阻まれてきたのは、山脈を挟む地理上の都合の他に、背後に国力の強いサファイアリートが控えている事が大きい。
 他の理由として、ペリドットは鉱物資源が豊富だが農地は少ない事、ルビーヴァレイは南の大国エメラルディアとも小競り合いをくり返しているため、ペリドット侵攻のために大量の兵を割けないなどの事情もある。
 ルビーヴァレイとサファイアリート間に国交はない。むしろペリドット侵攻の前例があるだけに敵国といっても差し支えなかった。今はまだ平穏を保っていても、戦いはいつ始まってもおかしくない。
「今回の縁談は友好国との関係強化だけではなく、西の軍事国家ルビーヴァレイへの牽制の意味もあります。ペリドットにはもちろん断る理由がございませんし、こちらにも向こうの豊かな鉱物資源の市場を得る旨味がありますので、無下にできるものではありません」
 セラトは彼女の言葉に再び納得したように頷く。
 いくらカーライルに王族の自覚が欠けていようとも、王子という立場にある以上は婚姻に政治的思惑が絡まないわけがない。
 ある意味サファイアリートに庇護してもらっているペリドットは、関係強化となるこの話を断る理由はないのだ。政略結婚とは、往々にして当人達には選択の余地はない。せめて相手が自分好みであることを祈るばかりである。
「殿下はまず作法を身につけるべきです。……可愛い姫君に結婚前から愛想を尽かされたくないでしょう?」
 にやりと笑みを浮かべて、セラトはわざとらしく、うやうやしい礼をしてみせる。先ほど足払いで蹴り倒されたばかりの主人は、これに渋面を返した。
「貴方もですよ、サンドローズ殿。ご同行なさると伺いましたが、くれぐれも殿下の悪ふざけにはお付き合いせぬよう。本来、貴方は殿下をお諫めしなくてはならない立場なのですよ」
 どんな相手でも臆せず叱咤するその真っ直ぐすぎる性根が、カーライルがセレネを天敵とする所以である。教育係でも最早諦めて口うるさくは言わないことも、彼女は持ち前の生真面目さで叱咤してくる。
 先ほどの稽古ももちろんセレネは見ていたのだろう。セラトがカーライルに思いっきり不敬を働くその瞬間を。言い逃れは不可能だ。
「一応、最低一回は諫めますけれども、人の言うこと聞きやしないご立派な主人なもので。僕にも好きで流されている部分があるのは認めますが、主犯格はどの一件でも間違いなく殿下ですよ?」
「セラトの裏切り者!」
 カーライルの悲鳴が背中ごしに聞こえてきたが、華麗に無視。
 セレネは諦めにも似たため息をつき、額に手を当てる。
「サンドローズ殿、あまり殿下を甘やかさないでください。貴方の立場が悪くなっては、元も子もないでしょう」
 その言葉には、純粋にセラトの複雑な立場への心配が見え隠れしている。
 カーライルは彼女を避け回っているが、セラトは実はそれほど嫌っていない。むしろ王宮の中では本気でセラトの立場まで心配してくれる人間は希有で、セレネの存在はむしろ有り難い。
「ご心配には及びません、アズライト卿。とりあえず、縁談にはきっちり突き出しますのでご安心下さい」
 後ろから聞こえる抗議の声は、またも無視。
「どちらかといえば、殿下は突き出された後の方が心配なのですが……」
 セレネは肩をすくめて苦笑を漏らした。
 こればっかりは、カーライルがいくら縁談を断ると騒ぎ立ててもどうにもならないであろうし、友好国とはいえ多国間との公式会談となるのだからカーライルには必死で作法を覚えてもらうしかないわけだ。
 セレネに釘を刺されるまでもなく、カーライルにはしばらく遊び歩く猶予など与えられまい。
 セラトは心の中密かに、主人への同情を募らせた。
 あくまで、心の中でだけ、である。

◆ □◆ □◆ □◆

 縁談の席はペリドットとサファイアリート国境近く、サファイアリート王国シェルドラ領の街ヒルベルトである。
 湖沿いの風光明媚な土地で、青い湖面と立ち並ぶ白い石を切り出して作られた町並みは、貴族の保養地として人気が高い。
 しかし、そんな美しい景色にもカーライルの心は動かなかった。王族専用の豪奢な馬車に乗せられて、彼は流刑地に来た囚人のような顔つきでうなだれている。
 セラトは魔術師の正装である紺地に金糸で刺繍を施されたローブの袖を邪魔そうにまくり上げ、魔術書を読むことに没頭していた。
 カーライルは領主である貴族グラストール・シェルドラに迎え入れれられ、今は歓談の真っ最中だ。セラトは自分の立場の微妙さを理解しているので、案内された従者の部屋で待つことにしたのだ。
 出自はともかく、セラトにはサンドローズ魔法家嫡男でカーライル直属の侍従という肩書きがある。従者用の部屋とはいえ、造りはなかなか豪華だった。
 大理石の床は鏡のように磨かれ、赤く毛足の長い上等の絨毯が敷かれている。品の良い調度品には銀糸で編んだレースの敷物が掛けられ、セラトの感覚ではいささか柔らかすぎるベッドは華美な天蓋付きだ。
 本から顔を上げて部屋を見回したセラトは、ため息を一つ。ソファが柔らかすぎてどうにも落ち着かないので、行儀悪くテーブルの上に座って読書を再開した――途端にノックもなく扉が開け放たれた。
 現れたのは疲れ切った様子のカーライルだ。
 カーライルを命の危険にさらすのなら、暗殺者を送り込むよりも戦場に連れて行くよりも、堅苦しい貴族の群れに一週間くらい突っ込めばよいのではないだろうか。
 セラトは半ば本気でそう考える。
「つ、疲れた……」
 入って来るなりベッドに突っ伏したカーライルの背に、セラトはわざとらしいため息を投げかけた。無反応。本当に貴族社会に向かない人間だ。仮にも王族だというのに。
「では僭越ながらお疲れの殿下のために、民草の数え歌でもお聞かせ致しましょうか」
 ベッドからは「あー」だの「うー」だの解釈不能なうめき声が漏れている。
「一つ一人の馬鹿がいる。二つ不憫な馬鹿がいる。三つ見飽きた馬鹿がいる。四つ余程の馬鹿がいる。五ついつでも馬鹿がいる……」
 ベッドの上におわす行き倒れが、ぴくりと反応した。構わずに続ける。
「六つ無性に馬鹿がいる。七つ何だか馬鹿がいる。八つやっぱり馬鹿がいる。九つここに馬鹿がいる。十でとうとう……」
「やめろ――っ!」
 がばりと起きあがったカーライルが吠える。
「民草の数え歌ですよー。すぐそばで転がっている庶民王子のことなんかじゃないですよー。ごきげんようカーライル殿下、もうここまで来たからには覚悟決めて姫様を口説き落として下さいね」
 カーライルは「他人事と思って」などとぶつぶつ呟いていたが、実際セラトにとって当面は他人事なのだから仕方がなかった。
 相手方の姫君が血筋にうるさい性質でセラトの出自に関して目くじらを立てない限りは、立場が脅かされるほどのことでもない。向こうだって、セラト一人が気に入らないからといって不興を買いたくはないだろう。
 これを期にセラトを王宮から追い出したい人間がいたとしても、それはもう慣れているのでどうでもいい。
 とはいえ、カーライルがこの調子では縁談どころではない。姫君が特殊な嗜好でない限り、確実に国の恥一直線。こんな王子でごめんなさい状態だ。
「でさ、結局カーライルは婚約そのものが嫌なのか? それとも相手が嫌なわけ? そこの所をはっきりさせておこうか」
 カーライルはしばらくの間難しい顔で黙り込み、そしてわざとらしくセラトから目をそらす。
 セラトが無言で極厚の魔術大全を手にとって振り上げると、慌てて彼は目線をこちらへと戻した。
「暴力に訴えようとするなっ!」
「隠し事って良くないよね。さっさと白状しろ」
「脅迫かよっ!」
 セラトの手から魔術大全を奪い取り、カーライルは観念したようにベッドに座り込む。
「いやさ、俺だって一応王族なんだし政略結婚とか仕方ないと思うんだけどさ。こう、なんていうか、相手の姫が可哀想だなって、さ」
 予想外の回答にに、セラトはしばしの間意味を掴みかねて首を傾げる羽目になった。そんなことはお構いなしに、彼は話を続ける。
「何件か話があって、気に入った相手を選べるとか、何度かでも会って話したことがあるとか、それならまだ……。でも初対面なんだよ。初めて会った相手と結婚を決められるのって、仕方ないと思っても嫌だろうな、って」
 セラトは呆然としながら「はい?」と聞き返す。
「あの肖像画を見る限り綺麗な子みたいだし、余計に立場さえ邪魔しなければ俺なんかよりいい人を選べると思うしさ」
「ちょっと待てカーライル。何言ってんの? 生まれた時には婚約者が決まっていて当たり前の貴族社会で本気で言ってんの?」
「……そう言われると思っていたから黙っていたのに!」
「そりゃ言うよ! 庶民派にも程がある。君は仮にも王族だろうが」
 国同士の事情も絡んだ縁談を前に、相手側の心情を本気で心配しているこの王子。どうしてくれよう。
「確かにね、そういう王族にあるまじき純朴さは君の美徳ではあるんだけどさ……。そんな理由でいじけられたら従者の僕らどころか国全体が大迷惑だ」
「だからその……もうちょっと覚悟を決める時間が欲しかったというか」
「半月もあったのにこの期に及んで!」
 セラトはテーブルの上で更に行儀悪くあぐらをかき、思案する。この若干錯乱気味の庶民王子に覚悟を決めさせるための方策を練らなくては。
 貴族的な駆け引きには向かない彼に、相手が友好国とはいえ国交の問題を背負わせるのははっきりいって不安だ。
 興味のあるものには迷わずつっこんでいく、王族にあるまじき度胸の持ち主だというのに、何故社交界に関してだけここまで奥手なのか。
 そこでセラトは、ある名案を思いついた。
「……じゃ、会ってみるか。その姫様とやらに」
 今度はカーライルの方が「はい?」と裏返った声を上げる。
「知らない相手といきなり結婚話をするのに抵抗があるなら、こちらから知りにいけばいい。もちろん、表だって行くわけじゃないよ。変装しよう。何せ君は便利な見習い魔術師を持っている」
 幸いと言って良いのかは解らないが二人とも、人目を盗む技術を心得ている。  カーライルの瞳に、共犯者を湛える光が宿った。
 かくして彼らは魔術で変装をして、二人が意気揚々と屋敷を飛び出したほんの少し後のこと。
 聖騎士セレネ・アズライトはセラトの客室を訪ねていた。
 王族らしく細かいことは全て配下に任せ、貴族との歓談に勤しんで社交性を十二分に発揮してくれる――そんな期待は、彼女を始め従者の誰もが持ち合わせていない。
 かの王子はそれだけ変わり種であった。今も側近のセラトに絡んで愚痴をこぼしているのだろう。
 ため息混じりに扉を叩く。
「殿下、サンドローズ殿、緊急の知らせがあって参りました」
 どうにもシェルドラ領には最近盗賊が出るらしく、今のところ貴族や王族に被害はないが、他国から姫君を迎えての縁談ということもあり、警備を強化しているとの話を、護衛を任されている騎士達は聞いたのだった。
 それは恐らく、カーライルの耳にも入ってはいるのだろうけれども、かといってそんな話であの王子がじっとしているとは思えない。セラトの耳にも入れておけば、彼もそれほど愚かではないのだから、さすがにカーライルを止めるだろう。
 そう考えてのことだったが、室内から声は返ってこない。扉に耳をあててみたが、そもそも人のいる気配がしない。
「……まさか」
 そのまさかである。今回に限って言えば、よりにも寄って、主犯はセラトの方であった。
「何でたかが数日もじっとしていられないのですか、あの二人はっ!」

 無論、あの二人だからである。

◆ □◆ □◆ □◆

「何か自分がやっていると変な感じだな」
 光魔法によって黒く見えるようになった自分の髪の毛を一房つまみ、カーライルは感心したように呟いた。
 セラトは瞳の色を変えられないので、例の如く金髪に。カーライルはいつもだと特に変装をしないのだが、さすがに縁談に出る本人がそのままの格好で出歩くのは問題なので、髪の毛と瞳を黒くしている。
 ペリドット皇国の一行はカーライル達の滞在する宮殿とは別の、迎賓館に招待されている。使用人の振りをして潜り込もうという算段で、二人は世話役の持ち込んだ侍従の服を拝借していた。
 迎賓館は湖沿いを馬で少し駆けるのがちょうどいいくらいの距離である。徒歩で行くと昼前の日射しが夕方の柔らかさを帯び始めていた。
 湖畔には春の花が咲き乱れている。迎賓館は鮮やかな花の群れと、鏡のように湖岸の景色を映す青い水面の間に挟まれるようにしてある。
 その中で、湖岸に座り花を摘んでいる少女がいた。花売りの娘にしてはしっかりとした造りの侍従服だ。 サファイアリートではあまり見かけない頭の半分を覆うヘアバンドで栗色の髪をまとめている。
 姫君の連れてきた従者なのかもしれない。とはいえ、あまり真面目に仕事をしてはいなさそうだが。
 変に怪しまれても困るので遠巻きに通り過ぎようとしたその瞬間、湖畔を吹き抜ける強い風に、彼女の摘んだ花が巻き上げられた。
 盛大に舞い散った花を、風下を歩いていたセラト達は頭から被る形となる。
 少女は淡く紅色のさした白い頬を真っ青に変えて、駆け寄ってきた。
「ごめんなさ……きゃぁっ」
 足下の草に足を取られたらしい。見事に花の海へと沈没する。
「えーと……大丈夫?」
 突っ伏したまま動かない少女へと、セラトは割とぞんざいに声をかける。
 カーライルはやはり一応根は王族なのか、そんなセラトを横目で軽く睨んで倒れた少女の元へと歩み寄った。
「大丈夫か。怪我はない?」
 助け起こされた少女は顔を真っ赤にしてゆるゆると首を横に振った。
「大丈夫……ですわ。ありがとうございました。お名前、窺ってよろしかったかしら」
「カ……じゃなくて、ディエルだよ」
「私は……ええと……マイカです。ディエル様、失礼をお許し下さいませ。そちらの方は……?」
 セラトは少しだけ悩む。カーライルはいつも通りにミドルネームを偽名にしているが、彼女がもしペリドットの姫に近しい侍従だとすると、こちらの正体を推測されるようなことは極力避けるべきだろう。
 かといって、すぐに気の利いた偽名や設定が思いつくかと言えば別問題なわけで。
「……エルイスです。ペリドット皇国の方ですか」
 考え込む暇などもなく、向こうはカーライルの側近の名前まではきちんと把握していないだろうという推測の元、ミドルネームを名乗ってみる。
「はい、ペリドットの者です。その……姫様に使いを頼まれた……帰り、でして」
 マイカと名乗ったその少女はまだ恥ずかしそうにうつむいて、ばらけた花と荷物とを手早く拾い集めた。
 姫の使いという割りには庶民の好む飴や焼き菓子、工芸品の小さな色ガラス、先ほど二人にぶちまけたそこらの草花など、微妙な荷物だ。
 彼の姫君は異国の庶民に興味を抱いてでもいるのだろうか。だとしたらカーライルには朗報だ。セラトは頭の端でそんなことを考えた。
 マイカはスカートの裾にまとわりついた草を払って立ち上がるが、よろけてしまう。それをカーライルが受け止めた。
「……足、怪我した?」
「あ、いえ、少し痛みますけど歩けないほどでは」
「いいよ。迎賓館まで送る」
 承諾も得ないまま、カーライルはマイカを抱え上げる。セラトへとちらりと視線をやり「いいだろ?」と短く了承を取る。セラトには異存はない。
 慌てたのはマイカの方だったが、暴れられる程おてんばではないらしく、結局身をすくめながらカーライルの腕の中へと収まっていた。
 マイカを抱えたカーライルと、彼女の荷物を代わりに持ったセラトは、湖の畔を走る街道を歩いていく。
 店の建ち並ぶ中心街から離れ、貴族達がゆっくりと過ごすため閑静な景色を保たれたこの辺りは、人気もそれほどない。
 抱えられている状況に慣れたのもあるのか、マイカは少しずつ饒舌になっていった。
「姫様は野山の花を愛でるのがお好きなんですよ。でも、ご本人が城をお出になる時は護衛を出したりしなくてはならないし……」
「それで、代わりに花を摘んで?」
「……え、ええ、そうです。サファイアリートのカーライル殿下はどんな方なのか、しきりに気にしておられましたわ。私、実はこっそり覗いて来るつもりでしたのよ。けれど馬を使わないとこんなに遠いものだとは思わなくって」
 突然話題が自分の事となり、カーライルは引きつった笑みを浮かべた。まさか自分がそのカーライル殿下です、とは言えずに口ごもった彼に、セラトが口添えする。
「僕らはサファイアリートの者ですが、殿下は有名人ですよ。堅苦しい礼節を嫌う、剣術と乗馬が大好きな通称『庶民王子』ですから」
 本人が何も言えないのを良いことに、セラトはいけしゃあしゃあと主人の評判を語って聞かせた。渋面のカーライルをよそに、マイカは楽しげな様子で笑う。
「噂は窺っておりますわ。……でも、逆に楽しみです」
 くすりと笑うマイカを、カーライルは急に草むらへと座らせた。
 驚いてきょとんとする彼女をよそに、一瞬遅れて気が付いたセラトも、荷物を草むらに置く。
 辺りは木々多く、日がだいぶ傾いた今では少し見通しが悪くなっている。セラトとカーライルは目配せをしあって、お互い腰に帯びた剣に手をかけた。
「案外、気が付くのが早かったな」
 低いくぐもった声が木々の間から聞こえる。
「そっちこそ、解りやすい悪役の登場でご苦労さん」
「あーあ、面倒になったな」
 マイカを挟んで庇うように剣を構え、緊張感もなく二人で言い合う。木陰から出てきた相手は、いかつい男が三人。
「威勢のいいことは結構だが、お前らみたいなガキどもでは相手にならねぇな。さっさとそこの娘と金目の物を置いて去れよ」
「なあに、乱暴はしねえよ。処女じゃなくちゃ高くは売れねえからな」
 男達の言葉でようやく自体を呑み込んだマイカが、喉を引きつらせるように小さな悲鳴を上げる。だが、セラトは冷静に男達を観察していた。
――大したことはないな。
 脅し文句を悠長に語れるのは、こちらを舐めている証拠だ。 そして、自分達は恐らく奴らが考えているよりはずっと強い。
 問題を上げるならば、足を痛めているマイカを庇う以上、あまり大立ち回りはできないことだろうか。
 魔法を使えばあっという間に片が付くが、こんな相手にそこまでしたくないし、後の説明も面倒だ。
 わずかに苛立ちながらセラトが思いめぐらせた時、一向に逃げ出さなければ命乞いもしない二人の少年に、男達も苛立ち始めたところだった。
「ほらほら、子供はさっさちと帰りな」
「うるせーんだよ、雑魚どもが。尻尾巻いて巣に帰れ」
 心底面倒になったセラトは、本性丸出しで言い放つ。男達は鼻白み、剣を振り上げる。
「このクソガキが!」
 正面から向かってきた太刀筋をはじき返す。背中には、カーライルが応戦しているらしい、剣のぶつかり合う音。
  剣を押し返し、向かってきたもう一人に足蹴りをお見舞いする。その隙に襲ってきたもう一人を屈んで回避。
「マイカを連れて行け!」
 カーライルに向かって叫ぶ。視界の端で、彼が頷いたのを確認してセラトは一人の首筋に剣の平を打ち込んだ。体制が悪かったせいか、男はよろめいたが気絶には至っていない。
「早く!」
 悲鳴を上げるマイカをを抱え上げ、カーライルは男と男の間をすり抜けて走り出す。
 追いすがろうとした男の背に蹴りを食らわせ、道を塞ぐようにして立つ。
「舐めた真似してくれやがって!」
 吠える男に、セラトはカーライルの足音が遠ざかるのを確かめながら不敵に笑った。
「舐めているのはそっちだ。あんたらにはちょっともったいないけれども、ちょうど実験台が欲しかったからちょうど良い」
 セラトの瞳に剣呑な光が宿る。
 行きずりに読んでいた魔術大全。試して見たい魔法は、いくつもあった。

「あ、あの……エルイスさんはご無事でしょうか」
「あー、心配いらない。ああ見えて相当強いから」
 マイカの不安げな問いに、カーライルはあっけらかんと答え――やがて後方から小さな爆発音が聞こえる。
「ああああのぉ……なんか、爆発……」
「大丈夫、ちょっとはしゃいでるだけだから」
「は……はしゃいでいるん……ですか?」
 カーライルはできるだけ綺麗な草むらにマイカを降ろす。そのまま座って彼らはセラトの到着を待った。また爆音が聞こえたような気はしたが――
 いよいよ空が赤く染まり始めた頃に、セラトはつらっとした顔でマイカの荷物を持ってやって来た。
「あ、ありがとうございました」
 荷物を受け取り、マイカが慌てて頭を垂れる。
「うん? 別にいいけど、実験ができたし」
「……じ、じっけん!?」
「気にしたら負けなことってあるんだよね」
 再び動揺するマイカにはさらりと言ってのけ、セラトは迎賓館の方から数人がこちらを目指して駆けてくるのを見た。
 マイカの帰りが遅いので、何かに巻き込まれたのかと心配した使用人仲間かもしれない。
「さーて、僕らはそろそろ帰らないとまずいんじゃないかな」
 馬がない以上、そろそろ戻らないと晩餐には間に合わない。姫君のことはマイカの口からある程度聞くことができたし、それに――
「そうか。マイカ、気をつけて。姫君によろしく」
「あ、はいこちらこそ本当に、ありがとうございました!」
 カーライルは少しだけ名残惜しそうに迎賓館を見つめた後、踵を返す。もう一度お礼の言葉を叫ぶマイカに、二人は振り返った。
 セラトは少しだけ笑って彼女に駆け寄ると、カーライルにも迎えの者にも聞こえない声でそっと耳打ちをする。
「染め粉は髪を傷めますから、早く洗い流した方がいいですよ。せっかくの美しい金髪が台無しです」
 驚いたように顔を上げるマイカを、セラトは静かにするよう口の前を指で塞ぐ。
 そのまま、セラトは振り返りもせずにカーライルの腕を取って走り出した。引きずられるようにして走りながら、彼はセラトを横目で睨む。
「何も突然逃げなくたって!」
「これ以上君は顔を見られない方がいい。ありゃ多分姫の側近だ」
 カーライルは何か物言いたげにセラトへと視線を投げかけたが、全力失疾走しながら会話を続ける気にはならなかったらしく、無心に走ることへ集中した。
 おかげさまでというべきか、まだ空に明るさが残る内に別荘へとたどりつくことができた。
 晩餐のために身だしなみを整えようと髪の色を戻して、そそくさと使用人用の跳ね橋を下ろしている所に、本日最後の騒動は起こったのである。
「カーライル殿下、サンドローズ殿……」
  跳ね橋の向こう側から聞こえてきたのは、カーライルの天敵で、セラトの理解者で、生真面目を絵に描いたような聖女騎士。

 今回ばかりは、セラトも本気で土下座をするはめとなった。

◆ □◆ □◆ □◆

「全く……いくら腕に自信があると言っても何があるか解らないのですから、軽率な行動はお控え下さい!」
 翌日、予定通り縁談が行われている最中でも、セレネはまだ怒っていた。
 それもそのはずで、セラトは知らなかったのだがヒルベルトに盗賊が出没する報があり、金目の物をもっていることが多い貴族相手の商人や侍従を襲うことがあったのだという。
 セレネは縁談への影響やセラトの立場を思ってシェルドラ卿には明かさず騎士を街にやって捜索をし、本人も別荘周辺を探し回っていたらしい。
 そこへつらっとした顔で二人が帰ってきて、しかもその盗賊でしたら先ほどやっつけてしまいました、などと言われては。護衛に付いている騎士の立つ瀬がなければ、街で気晴らしに遊びほうけているよりも尚悪い。
「いえ……本当に、今回ばかりは深く反省したので……一応」
 セラトは居心地悪そうに、紅茶の中に蜂蜜を垂らした。甘い香りを含んだ湯気が心地良い。
「でも、その代わり朗報ですよ。この縁談、確実にまとまります」
 カップの底に溜まった蜜をさじでかき混ぜながら、セラトは悪戯っぽく笑う。セレネは怒りの矛先をひとまずおろし、考え込んだ。
「……その根拠は?」
「昨日出会った姫様付きの侍女がですね、髪の毛から染め粉の匂いをさせていまして……」
 あの少女――マイカの姿を思い起こす。侍従にしても随分とお上品な言葉遣いと物腰だとは思っていたのだが。
「白くて細くて、とても侍女には見えない指先をお持ちでした」
 セレネはしばらく首を傾げていたが、やがてセラトの言わんとしていることに気が付いたらしい。はっと顔を上げ、次の瞬間にはがっくりとうなだれる。
「世の王族は何か間違っています……」
「でも多分、あの微妙な不手際ぶりは初犯だと思われますので、さして憂うほどのことではないかと」
「殿下とサンドローズ殿が手慣れすぎているんです!」
「でも、成功しそうでしょう、この縁談」
 セレネは縁談の行われている湖畔の離宮を見やる。ここは王族別荘のテラス。湖がよく見晴らせるのだ。
「今回はたまたま、ですからね!」
 だけどその「たまたま」はきっと、彼らの仲を取り持つのだろう。

 セラトが女騎士とテラスでお茶を楽しんでいる頃、サファイアリートの庶民王子は隣国の姫君を前にしていた。
 旅の途中、道の悪い場所を馬車が通った際に運悪く足を痛めてしまったという見合い相手のシトリン姫は、既に円卓の向かい側に座っている。
 確かにあの肖像画は美化などされていなかった。淡く陽光に透ける金髪も、白磁の肌も、エメラルドの瞳も、絵よりも尚美しい。
 カーライルは、この半月ほど作法指南役のトリスタン卿に耳が腐って土に還ってしまいそうなくらいにうるさく教えられた王宮式の礼をこなし、決められた席に腰掛ける。
 姫が顔を上げて――
「あ……」
 最初に呟いたのはどちらだっただろう。
 カーライルもシトリン姫も、気が付いた瞬間決まり悪く目を逸らしてしまったのだが。
 髪の色や瞳の色こそ違うとはいえ、それは昨日の事件で散々至近距離で顔を付き合わせた相手であり――
 カーライルは思ったのだ。やはり肖像画はそれほど当てにならない。落ち着いて見れば解るだろうけど、全然気が付かなかったのだ。

 縁談は問題なく終了した。
 主役の二人には、言うに言えない秘密ができていたのだけれども。

◆ □◆ □◆ □◆

 日射しが夏の暑さを感じさせるようになった頃、カーライルの元には手紙が届いた。
 相手は隣国の姫君で、今はカーライルの婚約者となったシトリン姫である。
「何て書いてある?」
 魔術書から目線を上げて、苦笑いで手紙を読む主へとセラトは問いかける。
「マイカから。ディエルとエルイスに、あの時はありがとうございました、ってさ」
「それ、本物のマイカさん? それとも偽名のマイカさん?」
 マイカは姫付きの侍女の名だった。シトリン姫は迎賓館を抜け出す際に、自分の侍女の名前と服を借りたのである。
「さあ? そういえばこれで思い出したんだけどさ。あの歌の最後って何?」
 歌。この話題で思い出すような歌などあっただろうかと首を傾げる。
「あれだ。セラトが嫌がらせに歌っていた民草の数え歌」
 そういえばそんなこともあった。よく覚えているものだ。
 その記憶力を別の場所に使えばいいのに、とぼんやり思う。
「あれね……十でとうとう……」
「とうとう……?」
「馬鹿丸出し」

 サファイアリート王城の一角で、今日も低レベルな口げんかは発生し、使用人達はまたかと呆れる。
 柔らかく温かい日常は、変わりなく、つつがなく。
 手紙の中には、春の野花を押して作られたしおりがが一枚添えられていた。
 しおりの裏側には、メッセージが繊細な文字でしたためられている。

 いつかまた春の季節に、湖岸に咲く花を見に行きましょう。
 その時は本当の名前と姿で、私達は出会いましょう。
 身分も国も関係なく、野に咲く花を愛でる様に私に優しくしてくださった。

――そんな貴方と共に行きたいのです。

 

2007.1.7更新

「石の魔術師」シリーズ番外編その2です。
王族としてかなりアレなカーライルにどうして可愛い婚約者の姫君が存在しているのか、というお話。
相変わらずセラトは見習い時代の方がよく魔法を使います。
そして見習い時代の方がツッコミが大げさです。

 

戻る