Dear Wonderful World

 

――よく夢を見る。 俺は橋の下から上を見上げている。
 誰も俺に気付かない。誰にも俺の姿は見えない。
 そして、俺はそれでもいいと思っている。
 消えてしまいたいと思っていた。
 あの日はすでに遠く、忘れ去られた思い出の墓場に今も眠っている。

 

 目覚ましのベルが騒々しい。
 のろのろと時計へと手を伸ばすが、俺が止めるよりも早く別の手がアラームを止めるボタンを押す。
 半目をあけると、弟の章がどことなく不機嫌そうな顔でベッドの脇に立っていた。
「兄貴、寝たままベルを止めるクセ、何とかする気ない?」
 再び眠りの世界へ旅立とうとしながら「ない」と答えると、章は俺の耳もとに時計を寄せてアラームを再大音量で鳴らしてくれた。
 恨みがましく睨みながら起き上がると、彼は「ご飯」と一言言い捨てて部屋を出て行く。
 窓の外を見ればどうやら今日も快晴のようで、日射しが駐車場のアスファルトを焦がしている。見ているだけで溶けそうだ。外に出る前か気力が萎える。
 ゆっくりと時間をかけて服を着替え、章の待つダイニングに行った。
 サラダボールにはレタスと生ハムのサラダ、ハムエッグとトースト、牛乳が食卓に並べられていた。
「……理想的朝食を作っていただいて大変恐縮なんだが、いらない」
「何言ってるのさ。兄貴、ただでさえここ最近の暑さでバテてんのに、何も食べなかったら倒れるよ」
 すでに食べはじめている章は、テレビのリモコンを操作して天気予報をやっている局に合わせる。
 本日の予想再高気温35度。
「ほら、絶対倒れるって。大学までたどり着けなくても知らないよ?」
「……わかった。少し食う。少しだけな」
 暑いから食べたくない、暑いから食べないといけない。難儀だ。
 うんざりとしながらトーストをかじり、横目でテレビを見る。天気予報の後は地域のニュースで、連日の猛暑を 報道していた。
 これではますます憂鬱になるばかりだ。
「今日……また夢を見た。橋の下の夢」
 サラダのミニトマトをフォークで突き刺し、章は顔を上げた。
「あの橋の夢?」
 怪訝な顔をした彼の問いかけに、俺は黙って頷く。途端、その表情に心配の色が浮かび上がった。
「大丈夫? 兄貴、疲れてるんじゃないの?」
「別に、前から時々見る夢だし。見たからといって、何が変わる訳でもないさ。 記憶も結局戻らないままだしな」
 章は残念そうに、だけど少しだけほっとしたような複雑な顔で、「そうかぁ」と気の抜けた返事をした。

 

 俺の生きていた時間には空白がある。
 高校三年の夏に怪我を負って昏睡状態に陥った俺は、目を覚ました時には三年もの時が過ぎている事を知った。
 そして、以前の思い出をきれいさっぱり落としてきたらしいのだ。 自分の名前すら思い出せず、章が弟だと言う事もそうと言われるまで解らなかった。
 奇妙なもので、今まで習ってきた勉学の知識はほとんど失われておらず、俺はリハビリの後にあっさりと大検を取り、少し離れた街のそこそこ良い大学に合格する事ができた。
 しかして、色々と抜け落ちている記憶は、俺の意志などお構いなしに周囲の者達の中で一人歩きしているのだ。

 

 腕と足には火傷の痕がある。
 晒して歩くのもどうかと思い薄手の上着を羽織っているのだが、この炎天下ではそれが拷問に思える。
 真面目にリハビリに通った甲斐があって日常生活にそれほど苦労はないが、それでも火傷のある右の腕と足は動かすのに不自由だ。保険のように支えの杖は持ち歩いているが、どうしても足を引きずってしまう。 長時間歩くと疲れてしまうのも仕方がない。この暑さなら尚の事。
 俺は木陰のあるベンチで休憩をとった。この大学の敷地は無駄に広すぎると思う。
「バテてんなぁ、藤宮。お前、よくこの暑い中長袖着てられるよ」
 この暑い中、といいながらも爽快な声の主は、俺の隣に腰を下ろした。
「元気そうだな、武川」
 それしか感想が出てこない。
 武川は俺と同じ教育学部の1年だ。一緒の講議が多いので、必然として顔を合わせる事も多い。
 基本的に馴れ合いの苦手な俺にとっては、数少ない大学に入ってからの知り合いだ。
 もっとも、記憶が抜けているのだから大学以前の知り合いもほとんどいない訳だが。
「いつでも元気が俺のポリシー。で、暑いなら上脱げば?」
 ポリシーひとつでこの暑さを吹き飛ばせる彼が、今心の底から羨ましい。
 長袖の説明するのが面倒で、俺は黙って右腕の袖をまくりあげた。整形手術でも綺麗には消せなかった火傷の痕が現れる。
 彼は、驚いて目を見開いたかと思えば、次の瞬間ベンチに両手をつき、大袈裟に頭を下げた。
「すまん、日焼けしたくないとか、そういう単純な理由だと思っていた」
「年頃の女子じゃあるまいし。いいから顔あげろ。これくらいで謝られる方が不愉快だ」
 俺の不機嫌な声に、武川は苦笑混じりになりながら顔を上げた。
「そうか。ずっと気になっててなぁ」
「良かったな、謎がとけて」
 木陰に入っていても、強い日射しのもたらす熱は肌にまとわり付いてくる。
 熱気にいらつきながらまくり上げていた袖を下ろしていると、武川がこちらに半ば呆れたような視線を送ってくれているのに気付いた。
「お前さ、もっと穏やかに話せないのか」
「……こういう性格なんだ、諦めてくれ」
 それができないなら関わらない方がお互いのためだろう。
 だから友達ができないのだとか何とか弟はよく言っているが、今の所それでも不自由を感じてはいないので無理をする事もない。

――武川がそれをどう思うかはともかくとして。

 純粋に思ったままを口にしたところで、武川は自分の頭を抱えて叫び声を上げた。何事かと、近くを歩いていた学生達がこちらを振り向く。
 俺もまた、唖然として彼を見上げた。
「な、何だ。どうした、武川」
「何だじゃねーよ、もう。てめぇはそれでもいいかもしれないけどな、こっちは穏やかじゃないだろ?  じゃ、関わらなければってなるかもしれないけどさ、今この場ではそれで良くてもこの先ずっとそれで問題なく生きてけると素で思ってンのか?」
 まさか物凄い剣幕で叱られるとは思いもよらず、俺はしばらく呆然としていた。
 どう、答えれば良いのか。
 解っている。一般論では間違いなく彼の方が正論だ。
「……努力はする」
 しばらく悩んでからそうこたえると、今度は大声で笑われた。結局何が言いたいのか。
 さすがに少し癪に触ってきた。
 俺の様子に気付いたのか、目にうっすらと涙をためながら笑っていた武川は、両手をあわせて頭を垂れた。
「すまんすまん。藤宮、お前天然だったんだな。新たな一面を垣間見てしまったぞ」
 訳も解らず、とりあえず「はぁ?」という猜疑心に溢れたため息しか返せなかった。
 多分今、俺と武川の間には認識の違いと言う深くて長い溝ができているに違いない。 何がそんなにおかしいのか本気で解らない。
「藤宮さぁ、自分が好かれる可能性とか一切考えてないだろ?」
「……そんな事考えて人生送ってる奴なんているのか?」
「俺はいっつも考えるね。好かれる自分が俺は好きなんだ」
 自分が好き、と。迷いなく言う彼は、別にナルシストには見えない。楽観的で人生が明るそうだとは思う。 平和で、幸せで、恵まれてるんだろうな、とも。
 今更、自分が恵まれていない、不幸だなどと感傷にひたる気もない。
 こんな身体になったのは自業自得で、それに至った経緯や忘れてしまった日々の事も弟に一通りは聴かされているが、両親を責める気もしなかった。
 間違ったのは多分俺も同じで、そしてその事を何も覚えていない。
 昔の俺と両親に確執があった事も、他人事のようにしか思えないのだ。
 何だかんだ言って、バイトも満足にできない俺の学費やらを面倒見てくれているのだから、両親に感謝しなくてはならない。

――こういう考え方が駄目なのか?

 そこまで考えこんだ所で、人の気配を感じて顔を上げた。
「藤宮君、こんな所で何してるの?友達と一緒なんて珍しいね」
 耳に馴染んだ声。
 俺の“数少ない高校時代からの知り合い”である北村綾香だ。白いワンピース姿の彼女は、この猛暑の中で涼しげに笑っている。
 どういう精神構造ならばこの暑さに耐えられるのか、御教授していただきたい気分だ。スカートには廃熱機能がついているのか、と馬鹿らしい空想に走りかけた。
 違う、問題はそこではない。
 大学院生で学部も違う北村に、どうしてこんな所で会うのかが問題だ。
「何でいるんだよ…」
 話がややこしくなりそうだ。現に今隣から、武川からの無言の圧力を感じている。
「教授にレポートの相談しようと思ったの。教育学部にいるっていうから……。で、そちらはどちら様?」
「藤宮と同じ学部の武川祐一です」
 俺が口を挟む暇もなく、武川は簡潔な自己紹介を済ませた。彼はこちらをちらりと見て、何やら思わせぶりににやりと笑う。
 果てしなく嫌な予感がして、背筋に悪寒が走った。
「私は北村綾香、人文学部の院生よ。藤宮君の相手してると疲れない?大丈夫?」
 北村は北村で、さりげなく失礼な一言を追加してくれている。
 大体、いつから俺と武川は友人と呼んで差し支えない仲になったのだ。
 そんな俺の内心のぼやきなど知る由もなく(もしかしたら解っていてわざとそうしているのかもしれなかったが)二人は意気投合して勝手に談笑を始めている。
 俺は二人の声を横で聞きながら、一向に弱まる気配のない熱い日射しに目を細めた。 油断したら意識が遠い場所へ飛んで行きそうだ。暑さにのぼせたのだろうか。
「藤宮、お前本当に大丈夫か? 顔色悪いぞ」
 武川に肩を揺すられて、朦朧とした意識が現実へと帰ってきた。
「ん? ああ、大丈夫だ。もう帰る」
 本当に、これ以上外にいたら熱射病になりそうだ。早々に退散するべきだろう。
「じゃ、私ももう行くね。藤宮君、これあげる」
 北村がバッグから缶コーヒーを取り出して、俺の額に当てた。
 どうやら俺達に会う少し前に買ったものらしい。冷たい感触が火照った肌に心地よい。
「……ありがとう」
 手を振って去る彼女の後ろ姿を見送りながらコーヒーを空けていると、手を振り返している武川がぼそりと「彼女?」と尋ねてきた。
 思わずコーヒーを吹き出しかけた俺がむせていると、彼は慌てて俺の背中をさすり謝ってくる。
 もう今日は散々だ。ついていない。
「うわ、藤宮、大丈夫か。悪かった、俺が悪かった!」
 俺と北村の関係を説明するには、少々回りくどい話になりそうだ。彼の言う「彼女」の意味ではない事だけは確かである。
 ようやく落ち着いて、改めてコーヒーを飲み干す。
「地元が同じなんだ」
 一番無難な答えを返す。
 同じ高校で同じクラスだった、と言った方が説得力はあるのだろうが、彼女は院生で俺は1学年。 浪人したというには結構な差だ。
 そこを詳しく説明する羽目になろうものなら、俺はこの暑さで干涸びる自信が有る。
 幸い彼には今の所それ以上追求する気はないようだ。
「美人だよなぁ。俺、ああいうタイプ好みなんだ」
「それは結構だったな」
「……てワケでお近づきになった経緯を是非知りたいね」
 前言撤回。どうしてくれよう。
「でもま、それは明日でいいよ。同じ講議だったよな。じゃ、帰り道で倒れんなよ」
 さすがにこの炎天下で語る気はしなかったようで、あっさりと彼は引き下がった。 その分明日が怖い気もするが、外で長話するよりは幾分マシだ。
 軽快な足取りで去って行く武川の背を見送りながら、もしかしたら俺が暑がりすぎなのかとぼんやりと考えていた。

 

 急転直下、とはこういう天気の事を言うのだろう。
 バスを降りれば、滝のような雨が地面を打っていた。にわか雨なのだろう、西の空は明るい。
 バス停正面のコンビニで傘を買い、常人には八分、俺には十五分の帰路を歩く。
 橋の上、雨に水の濁った川を見下ろした。橋を通る度にあの夢の事を思い出す。
 あの橋の下、俺は一体何を探していたのだろう。
 橋を渡り切った頃、雨音に混じってか細い鳴き声が聞こえた。 よく見ると、橋の隅に段ボール箱がある。朝通った時にはなかったものだ。 中にはタオルにくるまれた子猫が1匹。
 箱がふやけておらず中もまだ湿った程度な所を見ると、ついさっき捨てられたばかりなのだろう。
 さて、どうするか。我が家はマンションだ。当然のごとくペット禁止である。
「……ごめんな。俺は飼えないんだ」
 少しだけ考えて、俺は持っていた傘を箱に被せた。
 これで雨風は防げるだろうし、目立って親切な御仁が気付いてくれるかもしれない。残り十分の道のり、頭が冷えて丁度良いと思っておく。

以前にもこんな事をした気がするのは気のせいだろうか。

 

「傘買ってくればよかったのに…」
「買ったけど、あげてきた」
 傘を捨てたからといって機敏に走って帰れるわけではなく、帰りついた頃にはすっかりずぶ濡れになっていた。
 章がぶつぶつと小言を言いながら、タオルをこちらへと投げて寄越す。
「あげてきたって……、そこらへんの人に? 明日は雨どころか雪が降るんじゃないの?」
 相手は人ではなく猫なのだが。
 そんな事を言うとますます小馬鹿にされそうだったので黙っておいた。
「とりあえずシャワー浴びておいでよ。ご飯どうする?」
「いらない。疲れたから今日はもう寝る」
 背後から深く長いため息が聞こえたが、振り返る気力は既になくなっていた。

 

――今日もまた夢を見る。
 俺は橋の下から上を見上げている。
 誰も俺に気付かないと思っていた。
 誰にも俺の姿は見えないと思っていた。
 けれど誰かが近付いてくる。 白い、ワンピースの……

 

 遠くで声が聞こえる。目覚ましのベルの音も。
 朝が来たのだと感じたが、いつにもまして体が重く起き上がる気にはなれなかった。
 その内に段々声が悲鳴じみてきて、しつこいくらいに肩をゆすってきたので、俺はようやく意識を外の世界へと浮上させた。
 目を覚ました瞬間に飛び込んできたのは、心配そうにこちらを覗き込んでいる章の顔だった。
「……あ、よかった。また起きなくなったらどうしようかと思った」
 朝から何を不吉な事を。
 抗議しようと思ったが、次の瞬間には激しい頭痛に見舞われて言いたい事を忘れてしまった。意識がうまくまとまらない。
「昨日濡れて帰ったからだよ。熱があるみたい。病院にいかなきゃ」
「ただの風邪だろ? ……大袈裟な」
 章が差し出した体温計を食わえ、窓の外を見る。若干雲が目立つものの、今日も晴れているようだ。
 程なくしてアラームが鳴る。三十八度三分。
 思わず枕元に投げ捨てようとしてしまった俺の手から、章は体温計を奪い取った。
「大袈裟じゃないよ。やっぱり病院行かなきゃ駄目だって!」
「……お前、学校は?」
 時計を見る。八時四十五分。いつもならば朝食を終えて、彼はそろそろ家を出ようかという時刻だ。
「休むよ。病院行くのに付き添い必要だろ。満足に動けない病人は大人しく寝てなよ」
「お前、今日は試験だと言ってなかったか……?」
 彼の顔が一気に蒼白になった。俺の心配ですっかり頭から抜け落ちていたらしい。
「大人しく寝てるから安心しろ」
 喋るのが億劫になってきた。
 章はしばらく時計と俺とを見比べ困り果てていたが、やがて意を決したかのように立ち上がると、色々とお盆に載せて戻ってきた。
 氷水の入ったポットに、コップ。冷却シートと風邪薬。もう一度戻って、買い置きしていたらしいレトルトのお粥、それと何故か電話の子機。
 冷却シートを俺の額に貼りつけ、彼は子機を枕元に置く。
「試験終わったらすぐに戻ってくるけど、何かあったら学校か携帯電話に電話してよ。 苦しくなったら救急車を呼ぶ! ちゃんと解ってる?」
「……大袈裟だって。お前は世話女房か」
 夏バテしている所に少し風邪をこじらせたくらいで、こんな幼児の面倒を見るような扱いをされたらたまったもんじゃない。
 怪我が原因とはいえ一度は昏睡状態に陥った事があるのだから、心配になる気持ちもわからないではないのだが、いくらなんでも言い過ぎだ。
 ぶつぶつと文句を言いながらも、時計を見た章は慌てて家を飛び出していった。
 家の中が一気に静かになる。
 夕食も食べずまだ外の明るい内に寝付いてしまったので、昨日の昼ご飯以来何も食べていない。
 かといって食欲が湧くわけはなく、俺はとりあえず薬だけ飲んで二度寝を決め込んだ。
 章が見ていたら、それこそ幼稚園児でも相手にするように説教されそうだ。
 元より仲良しというには色々語弊のありそうな兄弟だと自覚しているが、最近立場が逆になっている気がしてならない。

 

 橋の下、俺と北村がいる。
 彼女が俺の手を引いて、橋の上まで連れていく。
「もう少しだけ自分を好きになってね。きっと、世界が少し素晴らしく見えるから」
 彼女は俺にそう言った。
 探し物は見つかった。だけどたくさんの事を落としてきた。
 素晴らしい世界って言うのはどんな世界だろう。
 武川が言った。好きになってもらえる自分が好きなのだと。
 ああ、もっと詳しく聴いておけば良かった。
 きっと、彼には世界が素晴らしく見えるのだ。
 俺は、どうしてこんなにからっぽなんだろう?

 

 目が覚めると時計の針が11時丁度を指していた。
 昨日から、眠れば必ず例の橋の夢を見るのは何故だろう。
 ぼんやりと考えを巡らせたところで、あの子猫の事を思い出した。外は炎天下。もし拾われていなければ、弱って死んでしまったとしてもおかしくない。
 そして、こういう事は気にしだすと止まらなくなるものだ。
 風邪薬が多少は効いているのか、頭痛はだいぶ治まっている。 あの橋まで、自分の体調が悪い事を考慮に入れて往復30分。

――少し様子を見てくるくらいなら

 冷蔵庫の牛乳を空のペットボトルに移し、とりあえず畳んだまましまわずに置いてあったシャツとジーンズに着替えた。冷却シートを剥がして、かわりに保冷剤をハンドタオルに包んで額に当てる。
 この時点で疲れてベッドに戻りたくなったが、半ば意地で外へと踏み出した。
 自分が熱いからなのか気温が暑いからなのか、五分も歩かない内に目眩に襲われる。
 杖を持って来て良かった。今更ながら章のお節介な一言が己の身に突き刺さった。
 満足に動けない病人か。全く以てその通りだ。弁解の余地もない。
 箱は傘と共にまだそこにあった。傘が日除けになったおかげか、少々弱っているものの子猫はまだ生きている。
 これで死んでいたら、傘を差し出して風邪を引き、熱があるのに炎天下様子を見に来た俺の立場は全くない。 有り難い事だ。
 良く見れば、俺の他にも気にかけつつも飼う事はできない人間がいるようで、ちゃっかり餌をもらった跡がある。 餌入れ替わりらしいプラスチックトレイに持ってきた牛乳を入れた。
 このまま日射しの強い道ばたに放置しておいたら、いずれ弱って死ぬのは目に見えている。せめてもう少し日陰の涼しい場所に箱を移してやるべきだろう。
 貰い手を捜すのは、後で章にでも相談する。ここは橋の上なのだから、下に行けばいい。
 それだけやって倒れる前に帰ろうと、杖を橋の欄干に立て掛け猫の入った箱を持ち上げた。
 立ち上がった瞬間に目眩に襲われる。
 自分も大概大バカ者だと自嘲しながら、所々雑草の生える脇の階段を降りようとした。
 気付かなかったのだ。
 階段の途中が一部崩れている事に。

 

「あのー、北村先輩。本当に俺もいくんですか」
 先を行く背中を追いながら、武川はもう一度彼女に真意を問うた。
「藤宮君に話したい事あったんでしょう?」
 確かにそれはそうなのだが、別にそれほど大切ではない話だ。しかも話題の中心は今まさに目の前にいる彼女の事である。
「けど、藤宮、風邪で寝込んでるんでしょう。俺、実はそんなに親しくないですよ」
 午前の講議に藤宮の姿はなく、嫌な話題を振られたので自分の事を避けているのかと思い、次にあった時にはとりあえず謝らなければと考えていた。
 そこに北村が現れて、藤宮が病欠である事を知らされた。
 彼は弟と二人暮しで、弟が試験でどうしても学校を休めなかったために、彼女に様子を見てくるように頼んできたのだそうだ。
 そして武川はそのまま彼女に引きずられるように、お見舞いの果物を片手に藤宮家への道を歩いているのだった。
「いいのよ。武川君、藤宮君の事嫌いじゃないでしょ?」
「そりゃ、嫌いだったら話したりしませんけど…」
 昨日の様子を思い出して、ため息をついた。
 他人を好きでいたかったり、自分が好かれていたかったり、好きな自分になりたかったり。それはごく自然な事だと思っていた。
 だけど藤宮には違うのかもしれない。構わないでいてほしいのかもしれない。
 勢い余って持論を押し付けて見たものの、自分の言っている事が綺麗事なのだと解っていた。
「武川君、私と藤宮君の関係気になる?」
 唐突に話を振られて、武川は言葉に詰まった。気にならない訳がない。
 あまりにあからさまな反応をしてしまったせいか、北村は振り返るなり吹き出した。
「素直ね。一応ね、元彼女なのよ。恋人らしい事なんて何もしなかったけどね」
 武川は驚いて顔を上げた。
 藤宮は色恋沙汰には興味が無さそうだと考えていたのもあるが、二人の会話を聞いてもとても元恋人とは思えないものだったからだ。
 円満に別れたのだとしても、もう少ししこりが残りそうなものだが。ましてや藤宮はあの性格だ。
「高校、同じクラスだったのよ。高三の夏まで、一年くらい付き合ってた」
「同じクラス、ですか?」
 北村は今院生だ。藤宮は武川と同期の一年。浪人したにしても、四年も差が開くものだろうか。
 試験やレポートの発表会などで藤宮の学力を推し量る機会はあったが、どうみても自分より成績が上だった。 三度も受験に失敗するとは思えない。
 そこで、思い出した。彼の服の下の火傷の跡を。
「藤宮、怪我で入院してたんですか?」
 今度は北村が、少し驚いたような顔をした。
「……まぁ、そうね。詳しい事は本人に聞いて。隠してるわけじゃないみたいだし」
「あ、そうですか…」
 隠していない事だとしても、わざわざ聞くものではない。
 藤宮が自分から語らない限り詮索はやめておこう、と武川は一人納得して頷いた。
「まぁ、でも、藤宮君も詳しくは知らないかもね。みんな、忘れちゃったから」

――忘れた?

 会話が所々噛み合っていないような気がする。
 しかし、それ以上尋ねる事もできず、再び歩き始めた彼女の背を追った。 ちょうど橋に差し掛かり、川の水音が暑く灼けつく日射しの中で涼しげに響いている。
「橋を見ると思い出すのよね。怪我する前、最後に会ったのが橋の上だったから。 あんまりロマンチックなエピソードじゃないんだけどね。藤宮君との思い出、そんなのばっかりだわ」
「……すいません、先輩、ロマンチックに決めてる藤宮なんて見たくないです」
 一瞬、橋の上で花束を持って格好をつけている彼を想像してしまい、武川はがっくりと肩を落とした。己の想像力を恨むしかない。
 対する北村も、彼の一言で面白おかしい想像をしてしまったらしく、涙が出る程に笑い出した。
 重くなりそうだった空気が和んだ事に安堵しながら、橋の名前を書かれた柱を見ると、見覚えのある杖が立て掛けられているのに気付いた。
 思わず立ち止まった武川に気付き、北村も杖に視線を移す。金属製の歩行補助用の杖だ。
 二人は顔を見合わせた。
 細く高い声が聞こえる。子猫の鳴き声だ。
「俺、下見てきます!」
 武川は鞄と見舞い品の袋を道路に放り捨て、橋の脇の階段を駆け降りた。

 

――寒い。 全身が鈍く痛む。

「――みや、藤宮!おい、大丈夫か」
 聞き覚えのある声だ。 肩を軽く揺すられる。
 痛むからやめてくれ、と抗議をしたかったがうめき声しか出なかった。
 重い瞼を上げると、晴れた空と、橋と、武川の顔があった。
 これは夢の続きか?
 違う、落ちたんだ。橋の脇の階段。崩れているのに気付かなかった。
「今、救急車呼んだからな!」
 そんなに声を張り上げなくても、ちゃんと聞こえている。
 頭に響く。
 大体、どうして武川がここに? やはり夢だろうか。
 そ う言えば、武川に、聴きたい事が――

 

 橋の上から、川を見下ろしている。
 隣にいるのは北村ではなく武川になっていた。
 二人でじっと水面を眺めている。
 そういえば、俺はどうしてここにいるんだっけ。
 思い出せないのはなぜだろう。
 周りは知っている俺の事が、俺自身にはわからない。
「そんな事、別にどうでもいいじゃないか」
 武川が言う。
 あぁ、そうだ。彼は何も知らない。
 どうでもいいじゃないか。
 彼は今の俺しか知らないんだ――

 

 目を覚ますと、明らかに自分の部屋とは違う白の天井が広がっていた。
 朦朧とした意識の中で視線を巡らせ、自分の腕から伸びている点滴の管を見て、ようやく状況を理解した。
 病院だ。
「目ぇ覚めたか」
 ベッドの脇で椅子に座り、本を読んでいた武川が顔を上げそう言った。
「……武川」
「はい、武川君ですよー。とりあえず聞きたい。 家で寝込んでるはずのお前が何で河原に転がってたのか」
 俺は何故彼が発見者となりえたのかを聞きたいが、そんな問いかけが許される雰囲気ではなく、少しずつ昨日からの経緯を話しはじめた。
「それで、箱を橋の下に降ろそうとしたら、踏み外した……」
 話が進むに連れ、武川は眉をひそめ、口をゆがめ、ついには読んでいた本を取り落とした。
 軽く俺の額をべちべちと叩きながら、彼は思いの丈を吐き出した。
「お前バカ!バカ決定!もう超バカ!せめて箱を降ろすのくらいそこら辺の通行人に頼め!」
 まさかバカを三連発されるとは。予想以上の反応だ。自業自得は百も承知だが、一応仮にも俺は病人であるのだが。
「だってお前、ただでさえ足が悪いのにさ。高熱出してフラフラの状態で出歩いて階段から転落、って危機感ないにも程があるだろ。怪我の方は幸い対した事なかったけど、あのままずっと見つからずに放置されてたら風邪の悪化で死ぬぞ、普通に」
 怒りに任せた、しかし仮にもここが病院である事実は忘れていないらしく抑え目の声での彼の熱弁を聞きながら、やはり相手の方が正論なのは解り切っているので、気が済むまで黙って聴いていた。
 恐らく彼に勝るとも劣らない剣幕で章が説教をしてくれるのであろうから、予行練習も兼ねて身に刻んでおく事にする。
「……悪かったな。ネコが好きなんだ。文句あるか」
 一瞬の間の後、武川は壁に向かって吹き出した。
 爆笑したいのを堪えているらしく、しばらく震えながら壁と仲良くしていた。
 昨日の事といい余程の笑い上戸なのか。いい加減にしろ、と口をついて出かけた所で、ようやく彼は笑いの淵から戻ってきたらしい。
 目尻に涙をためながら、こちらを向いた。
「お前の生命力はネコ以下だけどなぁ!」
 さすがに腹が立ってきて悪態の一つや二つを垂れ流したくなったが、咳が出てきたのでそれ以上は何も言わなかった。
 武川はそれでようやく我に返ったらしく、急に黙り込んでうつむいていた。
 どれほど、そうしていたのか。
 窓の外はすでに紅く染まりはじめている。
 じっと動かずにいる武川の目が火傷痕に注がれている事に気付き、俺は思わず苦笑いを漏らした。
「……見えてると、結構気になるだろ」
「ああ。だから長袖だったんだよな」
「家が、火事になった時、ひどい火傷をしたらしい」
「らしいって……」
「覚えてないけど、火をつけたのは、俺だ」
 武川が顔を上げた。正直な反応だ。
「火傷して、家の前の橋から飛び下りした。三年、昏睡状態で、目が覚めたらみんな忘れてた」
「それで、北村先輩と学年が離れて……?」
 知っていたのか。恐らく、教えたのは北村なのだろうが。
「……自分と他人に対する事ばかり忘れてるから、生活には支障がない」
 それが、関係を複雑にしている原因でもある。
 無理に思い出さなくてもいいと言われる度に、それでは過去の自分は一体何だったのかと思い、かといって思い出そうとして思い出せる物でもない。
 自分の家を燃やして、自殺未遂をした昔の事を思い出した所で、答えなんて解り切っている。居場所など、どこにもないと思っていたからそんな事ができたのだ。
 周りの人間は「思い出さくてもいい」のではなく「思い出さないでほしい」のだろう。
「別に、記憶障害が残ったからどうだとか、そんな事はどうでもいい。 ……でも、北村に会った時は、少しだけ、後悔した」
 今でも、彼女と会った時の事は覚えている。
 自分の事を覚えていないと知ると、彼女はしばらく黙り込んでから、やがて困ったような笑顔を浮かべながら「初めまして」と自己紹介をした。どういう関係だったのか軽く説明してから「ごめんなさい」と言った。
 もう遅すぎるのだと知っていても謝らずにはいられなかったのだと、彼女は笑った。
 きっと、笑いたい気分などではなかっただろう。 きっかけが彼女だったとしても、自らに手を下したのもその結果こんな事になったのも俺自身の責任だったのに。

――何を話しているんだ、

 俺は 我に返ると、途端に恥ずかしくなった。
 武川にこんな事を話して、それでどうなる。 大した親しい間柄でもなく、つい先程多大なる迷惑をかけているというのに。
 窓の外では、夕日が半身をビルの谷間に隠そうとしていた。
 そろそろ章も来るだろう。 こうなったら説教でもなんでも良いから、この気まずい空気を壊して欲しい。
「藤宮、何で教育学部来たんだ?人が好きだとは思えないけど」
「……は?」
「だから、学部選んだ理由。テキトーに選んだのか?」
 何故、今そんな事を。
「弟が…俺は、教えるの上手いから、意外と向いてるんじゃ…ないか、って」
 俺が退院してリハビリをしながら大検の勉強をしていた頃、復習を兼ねて章の勉強をみてやっていた。
 それまでの彼の成績は平均少し下くらいだったが、俺が教えるようになってからあっという間に上位の仲間入りを果たした。 驚異の快進撃に気をよくした章が、俺に渡した大学の資料が今の通っている学校の教育学部だった。
 あんまり熱心に勧めるので流されてしまったのだ。入学が既に決まってから北村のいる大学だと聞かされた時は、正直首を締めてやろうかと思ったのだが。
「藤宮、俺さ。ずっとお前とこういう事話してみたかったワケよ」
「何故」
「覚えてないんだろうけどさ。俺が遅刻寸前で講議に入った時に、ノート忘れてさ。そしたら隣にいた藤宮が、コピー取ればっていて自分のノートぽんっと置いて行ったのな」
 それが何の関係があるのだろう。彼の意図がよく読めない。
「正直、それまで藤宮の名前も知らなくってさ。でも有り難く使わせてもらったら、中見てびっくりよ。 ものすげー綺麗だし、家で書き直したのかってくらい解りやすく要点まとまってるし。 だからお前の弟が言った事もお世辞じゃないと思う」
 そういえば、そんな事もあったかもしれない。多分まだ、大学に入って間もない頃だ。
「純粋にすごいな、って思ったんだよ。しかも本人は自分がすごいって気付いてないっぽいし」
 確かに、記憶をなくしてからも学力方面では苦労していないし、弟の話を聴くに以前からそうであったようだが、いくら何でも大袈裟ではなかろうか。
 まぁ、そんな事はどうでもいい。それよりも、もっと大事な事が。
 そうだ。聴きたい事が、あったんだ。
「武川には、世界が素晴らしく見えてるのか?」
 俺には、よく解らないけれど。
 自分の事を好きになれたり、素直に他人を賞賛したり。 迷いなくそういう事をできる人間の方が余程すごいと思う。
 絶対、自分はこうなれないのだと気付いているから。 要するに武川が羨ましくて仕方がないのだ。
 武川は、口元に苦笑いを浮かべて、俺から目を逸した。
「俺だっていつでもどこでも脳天気なワケじゃない。藤宮よりかは楽観的だろうから、その分明るい世界で生きてるんだけどさ。 藤宮には俺が明るく前向きな人間に見えるのと同じで、俺には藤宮が考えの深い人間に見えるワケよ」
 彼は苦笑いを、いつもの朗らかな笑みへと変える。
「お互い無い物ねだりって事。 その無いものを補うために交友ってのは必要なんじゃねーの?」
 誰かが眩しく見えたり、欠けた何かを探していたり。
 それは俺の記憶が失われたからじゃ無くて、多かれ少なかれ誰でも持っている感情なのだ。
 言われてみれば当たり前の事で、こんな単純な事に今まで気付かなかったのか不思議に思える。
 それほどに、自分は盲目だったのだ。

――馬鹿みたいだ。

 一人で立ち止まったまま、周りだけが走っていくのだと思っていたのに。
 俺だって、ずっと走っていたじゃないか。景色が見えていなかっただけで。
 生きているんだから。まだ時間は止まってはいない。
「なぁ藤宮、元気になったらキャンプ行こうぜ。ロッジとか借りれる所」
 何の脈絡もなく、彼は言う。話の飛躍についていけず眉を潜めた俺に、彼は得意げに腕を組んで見せた。
「行く理由とか深い事は行ってみてから考えようぜ。楽しけりゃいいんだ。無理やりでも楽しいことを探しに行くんだ。 藤宮はひとつの考えに突っ走り過ぎてんだよ。 落ち着いて歩けよ。 人生なんて短いようで結構長いんだからさ」
 武川は「人の事いえねーか」と照れたような顔で笑った。
 彼の肩ごしには紅く染まった空が見える。ビルが黒く滲んで見える。
 話し過ぎたのか、再び朦朧と霞んできた意識の中で、俺は少しだけその夕焼けを綺麗だと思った。
 世界が素晴らしく見えるようになるというのは、つまりこういう事なのかもしれない。
 何でもなかった事が、不意に美しく見える。
「ごめんな、長々話し込んじまって。 あ、これお見舞いな。実は北村先輩に誘われてお前んちに届けにいく最中だったんだよ」
 教えたのは章か。
「ネコは、俺引き取るよ。実家だし、家族は動物好きだから」
 それは何よりだ。
「多分、もうすぐ先輩達つくんじゃないかな」
 章の怒った顔が目に浮かぶ。
「少し寝てろよ。何かあったら起こすから」
「……武川」
 ぼんやりと霞む意識の中、自分の声が他人の物のように聞こえる。
「何だ?」
「キャンプするなら海より山で…」
「了解」
 武川の了承の声を聞きながら、俺の意識は眠りの世界へと旅立っていった。

いつもより少しだけ、良い気分で眠れそうだ。

 

「二週間の病院生活からの帰還、おめでとう」
 家に戻ると、何故か北村と武川がいた。ついでに、俺に拾われたあのネコも。
 後ろを振り返ると章がわざとらしく顔を逸らす。犯人はこいつだ。
「風邪と夏バテで入院していたのに、盛大に祝ってくれても…」
 軽い気管支炎を起こしていたものの幸い酷く悪化する事もなく、どちらかと言えば夏バテでまともに食事をしていなかったせいで貧血を起こしていた事の方が問題だったらしい。 検査に引っかからなければもっと早くに出て来れたのだが。
 用意したコップに麦茶を注ぎつつ、北村は上目遣いに俺を見た。
「若いクセに夏バテで入院するってのも情けないわよね。もうちょっと身体丈夫にしたら」
 反論する気もおきない。
「だからこれから藤宮をアクティブでアウトドアな男に改造する計画が発動するんですよ」
 武川が勝手な事を言っている。
「武川さん、俺はアクティブな兄貴って何か嫌なんですけど…」
 章も何でいつのまにか武川と仲良くなっているんだ。確かに入院初日とお見舞いで何度か会ってはいるはずだが。
 いずれにせよ、好き勝手な事を言ってるのに変わりはない。
「藤宮もキャンプ行くって言ったじゃないか。高原とかどうよ」
 つまり、この面子でか。というか、本気で行く気だったのか。
「山は涼しいぞー。この炎天下から逃れられるだけで、行く理由には十分だと思わないかね」
 確かに、そう思えばなかなか心惹かれるものがある。しかし病み上がりにキャンプの相談というのもどうなのか。
 無言の訴えが伝わったのか、北村が旅行雑誌の切り抜きらしき紙を俺に突きつけた。
「さすがにいきなりキャンプもどうかと思うから、ペンション探して見たの」
 それは料理は自分達で用意するタイプのペンションの記事で、近くまでバスが通っているので延々と山登りをせずに行ける立地のようだった。
 俺が心配するような事は、あらかた解決してしまっているらしい。
「このメンバーで行こうよ。ね?」
 完敗だ。
「行かないなんて言ってないだろ」
 楽しいかどうかなんて、行ってから考えればいい。
 からっぽの器には、好きなものを詰め込めばいいだけなのだ。
「藤宮君、なんだか人間が丸くなったよね」
 北村がおかしそうにくすくすと笑う。
 いつもなら穏やかではないのだろうが、何故かそう悪くはない気分だった。

 

 からっぽの色あせた世界に、少しだけ命が戻る。

 いつか俺の目にも、世界が素晴らしく見えるのかもしれない。

 その時はきっと、本当にこの世界を好きになれるだろう。

 

 

2004.12.8更新

色々あって季節はずれになってしまったよ小説、その2。
Somebody's Pain後日談。Other Days収録の「手紙」より更に1年半後くらいのお話です。
藤宮透。 本編では最後まで、何が自分にとっての幸せなのか実感できていないままに終わっている主人公だったので、希望を提示してみようかと考えたお話。
理解されない、理解できない、で思考停止してしまっている彼を突き動かすには、武川くらいのイキオイが必要かと。
何気なく弟と仲良くなっていたり、両親と和解に向かっていたりするあたり、彼も成長はしております(笑)

北村嬢の飼っている猫は藤宮透が見つけた猫だから「トオル」という名前ですが、武川がもらっていった猫の名前は「ふじみゃん」です。理由は藤宮が拾ったにゃんこだから。略してふじみゃん。
彼らは似たもの同士です。藤宮をほっとけないことといい。

 

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