99番目の猫

 

 例えば、その魂が罪に汚れていたとしても
 それがたとえたった一人だけだったとしても
 誰かに心から愛されるのは幸せな事なのかもしれない

 

 メアリ・サイアンという、十歳の少女が俺の飼い主となった。どこにでもいる、普通の子供だ。
 怪我をした俺を拾い、手当てをして、餌を与えはじめた。
 その内首輪をつけられ、俺は「ジャック」という名前で呼ばれるようになった。
 何とも皮肉な事に、それは俺が九十八回死ぬ前の名前だったんだ。

 九十八回、生まれ変わる前の俺は、一人の人間の男だった。
 それも、札付きの大悪人だ。悪い事なら一通りやってきた。 盗み、殺しも当たり前。人を騙し、傷つけた。
 そうしなければ、生きて行けなかったわけではない。
 厳しい時代ではあったが、もっとマシな生き方はあっただろう。しかし、俺はその道を自ら選んで歩み、その罪状によって処刑された。
 享年二十五歳。生まれてから死ぬまで、覚えてる限り一度だって善い行いなどしてこなかった俺は、首を斬られてあっさり死んだ訳だが、残念ながら、償いはそれだけでは終わらなかった。
 最期まで一度も己の罪を省みなかった俺に、多分神だか天使だか呼ばれているものが、呪いをかけた。 九十九回生まれ変わるまで、俺の魂は何処へも行けない。 天国にも、地獄にも。人間の世界に戻る事も。
獣や虫となって、この地上で、人の心を持ったままで、九十九回俺は生きなければならない。
 九十九回、死ななければならない。
 虫になっては、踏みつぶされ、獣になっては、殺されて。ずっとそうやって生まれて死んで、ついに俺は九十九番目の生を受けた。
 今の俺の姿と言えば、小柄で痩せた、貧相な猫だ。 毛並みは耳の先から尻尾の先まで真っ黒で、何とも俺らしくて笑えてくる。黒猫なんて、悪魔や魔女の手先のようだ。
 だが、そんな事は最早些細な問題である。 何せ、これが九十九番目。猫の寿命なんてせいぜい十年足らずなのだ、あっと言う間に終わるだろう。
 欲を言えば、虫の方が良かった。一年もすれば死ねるのだから。
 今度死ねば、この無意味な生の連鎖が終わる。 天国だろうが、地獄だろうが、構わない。
 もう、たくさんだ。こんな風に生き続けるくらいなら、ずっと地獄で罰を受けていた方がいい。
 人間の「ジャック」だった頃には、一度だって優しくされた事などない。
 何度生まれ変わっても、殺されて、独りのたれ死んで、地獄も大して変わらない。同じ事をしていりゃすむのなら、地獄の方が楽そうだ。
 ずっとそう思いながら、生まれ変わって九十九回目。

 そう、初めてだったのだ。
 俺に餌を与え、毛並みを撫で、あまつさえ一緒の布団で寝てやろうなんて、酔狂な奴に出会ったのは。


「やぁ、ジャック。相変わらずシケた顔してるねぇ」
 一人の少年が、塀の上を歩く俺を見上げていた。
 太陽の光に透ける淡い金色の髪の下から、エメラルドのような碧眼が、悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見ている。 彼の傍らには、亜麻色の長い髪の美女が、こちらは北の海を思わせる色の瞳を呆れたように、手を振る少年に向けている。
 二人とも、俺の知り合いだった。
「悪かったな、猫の面でよ。何の用だ? 名無し」
 言葉は猫の鳴き声に代わり、「にゃぁ」と緊張感のない音となる。
 それでも、彼らには人の言葉として通じているのだと解っていた。彼は声を聞いているのではない。俺の魂の発した「言葉」を聞いているのだ。
 恥ずかしい言い方をすると「心の声」を聞く事が出来る、という事だ。
 なぜそんな事ができるのか。それは考えるに及ばない。
 俺が、ただの猫ではないのと同じ事。彼らも普通の人間ではない。
 人間の常識では測れない存在がある。その事を俺は、死んで初めて知った。
 俺が「名無し」と呼んだ少年は、こちらに手招いた。塀から降りろ、という事らしい。
 ずっと塀の上と下とで立ち話も難だろう、命令されるのは気に食わないが、ここは従っておくことにする。
 猫の身体は、動くには申し分ない。二メートル程の高さを、俺は軽く飛び降りた。
「それで、何の用だ? ネス」
 ネス、というのは、この名無しのあだ名だ。名無しのあだ名、というのもおかしな話だが、ネームレスを略してネスらしい。
 改めてもう一度尋ねる俺を、ネスはひょいと抱え上げた。不満そうに頬を膨らませ、彼は俺に顔を近づける。
「せっかちだなぁ。そんなんじゃ友達できないよ?」
「いらねぇから放せ」
「はい、マリア」
 彼は確かに俺を放した。が、代わりのように、傍らの美女に押し付ける。
 彼女は失礼にも、汚いものを受け取ったように腕を目いっぱい伸ばして、自分と俺とを引き離した。
「ほら、吸血鬼の使い魔に黒猫って、セオリーだよね?」
「ネス、私は確かに吸血鬼だけど、こんな使い魔お断りだわ。第一、黒猫が使い魔なのって魔女でしょう?」
 美女、マリアは、むっとした顔で俺を解放した。
 彼女は、一見普通の人間だが、実は吸血鬼なのだ。吸血鬼と言えば、普通は日光を嫌い、夜に活動するイメージがあるのだが、どうやら種族によりけりらしい。
 彼女は昼間に平気で出歩くし、教会が近くにあっても畏れる事はない。ガーリックトーストを食べるのも、見た事がある。世間一般に認知されているの吸血鬼の弱点は、彼女には全く通用しない事になる。
 大抵、彼女はネスと行動を共にしている。
「俺だって、てめぇに使われたかぁねぇな」
「あら、貴方と意見が合うなんて、珍しくも光栄だわ」
 赤みがかった茶髪をさらりと背中に流した美女は、少しもありがたみがなさそうに、憮然と言い放った。
 全く、口さえ開かなければ可愛げがあるのに。毎度の事ながら、心からそう思う。
「まぁ、ここでうろうろするのも難だから、公園に行こう」
 俺とマリアの、一触即発の睨み合いなど軽く無視をしてくれて、ネスは一人で先に歩き出した。
 それに気付いたマリアが、慌てて彼の後を追いかける。
 別に、付き合ってやる義理はさらさらなかったのだが、どうせ暇なのだからと、俺もゆっくりと二人の後を追う事にした。
 木漏れ日が柔らかく降りる、涼しげなベンチに腰掛けて、二人は恋人同士の様に寄り添いあって座った。
 姉さん女房か、とくだらない事を考えながら、俺はベンチの一人分空いた席に跳び乗って、身を丸くする。
「で、ジャック。飼い主はどんな感じ? 人に飼われるなんて、99回色んな動物に生まれ変わったって、
初めての事なんだろう?」
 こんな所に連れ出して、話す事と言えば結局それだけか。
 不満げに尻尾をベンチに叩き付けたが、ネスの表情はどこ吹く風だ。
 全くこいつの事は、マリアもそうなのだが、イマイチ好きにはなれない。何を考えているのかなんて、さっぱり解りはしないのだ。
 俺にしてみれば、まぁ、この世に生きている人間だって全てよく解らない生物なのだ。
 二十五年間人間をやっていた頃も、相手の気持ちなんてものは、ちっとも解らなかった。

 誰もが俺を指差して言う、声高に、怒りを持って。
  『お前には人の心がないのか』と。
  残念ながら俺は人だったし、人だったが、「人の心」がどんなものなのか、そんな事は知らなかったし、実際どうでも良かった。
 解らない。 そう、どうしても理解できないのだ。

 人間ですらない俺に、笑顔を振り撒くメアリの心が。

「意味がわからねぇ、へらへらしやがって」
 明らかに不機嫌な俺に対し、ネスはさもおかしそうに笑い声をあげた。
 引っ掻いてやろうかと、爪を出した俺の腕を、マリアがぞんざいに押さえつける。
「貴方は何でそう、血の気が多いのよ。ネスはともかく、乙女の柔肌に傷がついたらどうしてくれるつもり?」
 俺が人間だった頃よりはるか昔の時代から生きているはずの彼女が、「乙女」などとよく言えたものだ。
 確かに彼女の姿は若く美人だったが、もう軽く三百年は生きているはずなのだ。
「マリアぁ、僕は傷物になってもいいってコト?」
 頬を膨らませて抗議するネスの頭を、マリアはコツンと指で小突いた。
「貴方は、初めから傷なんてつかないでしょう?」
「傷がつくフリならできるけど?」
「わざわざしなくてもヨロシイ」
 あっさりと反論を沈められたネスは、気を取り直したように腕を組む。 しばしの沈黙の後、彼はこう言った。
「つまり、君は飼い主が何故優しくしてくれるのか、解らないって言うんだね?」
「だから、さっきから言ってるじゃねぇか」
 俺が不機嫌を隠そうともせずに答えると、彼はその瞳に再び悪戯っぽい、他人をからかうような色を浮かべた。嫌な予感に、身体中の血がさっと引く。本能的に逃げ出そうとした俺の尻尾を、彼は素早く捕まえた。
 ベンチの上、爪を立てて抵抗するも、及ばず引き寄せられる。板木に、むなしく抵抗の跡が刻まれた。
「ジャックは本当にせっかちだなぁ、もう」
「お前! 明らかによからぬコトを考えてるだろうが!」
「何言ってるのさ。確かに僕の好奇心を満たすためではあるけれども、行く行くは君のためにもなるかもしれない事なんだよ?」
「信用できるかー!? 俺は誰の助けもいらねぇんだよ!」
「飼われてるくせに」
「その方が楽だから利用してるだけだっての!」
「うるさ―――――い!!!」
 不毛な言い争いを、マリアの怒声が食い止めた。
 気圧されて、少し後ろにのけぞった俺とネスに、彼女はずいと指を突きつける。
「ネス、私はこんなくだらない喧嘩のために、あんたのお遊びに付きあってる訳じゃないのよ。 ジャック、あんたも少しは落ち着いて話を聞いたらどうなのよ!」
 憤慨して声を荒げる彼女に、俺達、男二人は為す術もなく降参した。 この女傑に敵おうなど、思ってはいけない。
 ネスは、こほんと空咳をして、もう一度腕を組みなおした。
「まぁ、それで、マリアの言う所の、僕のお遊びなんだけどね。飼い主の優しさが解らない君に、いい夢をお届けしようと思うんだよ」
 彼の意図がさっぱり汲み取れず、俺は毛を逆立てた。
「お前のいう事も十分に意味が解らん!」
「落ち着きなよ、ここに恐いお姉さんがいるんだからさぁ」
 恐いお姉さん≠フところで、マリアがピクリと眉根を寄せたのが見えた。
 さっきとは別の意味で、全身の血の気がさっと引いていく。 どんな生物でも、女は一番恐いモノだ。
「落ち着いたね? 君はいつだって、自分だけを愛し、自分にだけ優しくした。たとえ自分に有益な事だとしても、他人に尽くすなんてした事もない。だから飼い主の愛も、君には解らないんだ」
 そんなの、俺には当り前の事。俺だけが良ければそれでいい。
 人間だった頃も、九十八回目までの命も、そうやって過ごしてきた。ずっと、ずっとだ。
「まぁ、僕にしてみれば、それでよく自分を見失わずにこれたと思うんだけど。常識と博愛は、どうやら速効見失ってるようだけどねぇ」
「それがどうした。俺は大罪人だぜ。今更、良心だの愛だのいらねぇよ。 この、九十九番目の命、最後まで自分の欲望に忠実に生きるだけさ」
 それで地獄に落ちようが、後悔などするものか。俺の命をどう使おうが、俺の勝手だ。
「そうだね。そうやって君は、九十九番目の命も、満たされないままで終わるんだ」
 何を、言っている? 満たされない?
 好き勝手に生きて、そして終わる。どこにも不自由などない。 俺は、短い猫の命をだらだらどうでも良く生き抜いて、いい加減うんざりなこの長い生まれ変わりの連鎖に幕を下ろす。それだけだ。それで終わる。
 俺はいつだって好きに生きていた。 満たされているはずだ。 つまらなく馴れ合いながら生きている、他の人間とは違う。
「興味ない? 九十九番目の猫の命、満たされて終わりたくはないのかい?」
 欲しいものは、どんな汚い事をしてでも手に入れた。他の人間が、どれほど厭う事でも、俺は平然とやってのけた。それで、満たされないものとは何だ?
 ネスが立ち上がる。マリアがそれに従い、二人はベンチを離れた。
 数歩歩いて、そして思い出したように、彼はこちらを振り返った。
「ジャック、良い夢を。感想を楽しみに待っているよ」
 その言葉を残して、二人の姿は公園の景色の中へと、溶け込むように消えていった。

 

「ジャック、どこに行ってたの? ほら、ミルクあげるからこっちにおいで!」
 今日もメアリは、何がそんなに楽しいのか、すこぶるご機嫌だ。
 ネス達のおかげで、朝の散歩からの帰りが遅かった俺は、最高潮に空腹だった。
 ミルクと餌は有り難く頂戴し、また外でぶらぶらとしてこようかと思った矢先、メアリは俺を抱えあげた。
「これからお風呂よ、ジャック。またノミがついちゃうわ」
 知るかそんな事。俺は風呂が嫌いなんだ。
 抗議をした所で、俺の言葉を知る術を持たない彼女には、不機嫌な猫の鳴き声にしか聞こえない。
 そのままバスルームまで強制連行だ。 この石鹸の泡と匂いは、実はそんなに嫌いではない。普通の猫は嫌うのかもしれないが、人間の感覚も持ち合わせているためかそう思う。
 しかしこの泡が、お湯が、毛皮に張り付いてぬるぬるぶくぶくと泡立つのがいただけない。
 この泡を流すのに何度もお湯をかけ流されるのも、濡れた毛皮にドライヤーとかいう道具で熱風を吹きつけられるのも、いい気分はしない。
 これが終わった後の、ふんわりした毛皮を肉球で撫でるのは好きだったが、これに至るまでには嫌な事の方が多すぎた。
 水攻め泡攻め熱風攻めの拷問は終幕し、心なしかいつもよりきめ細やかな毛並みを撫ぜていると、メアリも機嫌よく俺の背中を撫ぜる。
 首に手を回して、そっと首輪をはずすと、新しい鈴付きの首輪に付け替えた。
「可愛いでしょ。ママのお手伝いしてもらったお小遣い溜めて、新しい首輪買ってきたの。 もう、店で一目見た時に、絶対ジャックに買ってあげるって決めてたんだよ」
 そんなの、盗んでくりゃタダなのに。
 だが、天然いい子のメアリには、どうやらそんな選択肢は頭にないようだ。
 首輪は、黒い毛皮によく映える白。皮製で、金色の小さな鈴が付いていた。
 悪い気はしない。もらっておく事にしよう。 気に入らなかったとしても、俺の猫の手ではずせる訳がないのだが。
「気に入ってくれた? またお手伝いして、お小遣いためよっと。今度は何を買おうかなぁ。 ブラシ? 餌入れ? ねぇ、何がいい? ジャック」
 別に、苦労するのは俺じゃないし。もらえる物はもらってやる。
 いちいち、言葉の通じないはずの俺にうかがいを立てたりしないで、勝手に買い与えてくれりゃいいんだよ。
 ああ、イライラする。 ネスが言った言葉が、頭の中にこびりついている。
 満たされずに終わる? 一体どういう意味だ。俺はいつだって思うままに生きているじゃないか。
 後悔も、渇望もない。
「ジャック、今日も夜は一緒に寝ようね」
 ぐるぐると、堂々巡りを繰り返す思考に、ノイズのように混ざるメアリの声。
 俺は尻尾を数回振って、上の空で返事をした。

 

「ねぇ、ジャック。どこに遊びに行こうか」
 メアリがこちらに手を差し出す。俺の黒い毛並みを撫でて、抱えあげて抱きしめる。
 子供の、小さくて暖かい手。
「ねぇ、どこがいい? ジャックの行きたい所に行こう」
 知るかよ、勝手行けよ。
 俺の行きたい所なんて。この命が終わった後の、天国か地獄か、生まれ変わりなんてない世界だけ。
 この九十九番目の命が終わったら、行ける場所。
 お前なんて、一度死んだだけで行ける。 それも、間違いなく天国だろうよ。
 猫なんかのために、一生懸命になる良い子ちゃんが。
「公園まで散歩しようよ」
 うるせぇな、ほっとけよ。 何、嬉しそうな顔してるんだよ。
 何だ、この首輪の鈴を見てるのか? お前が買ったんじゃないか。何で、お前が嬉しそうにするんだよ。
 喜ぶんなら、普通俺の方だろう?

――俺の、方だろう?

「ジャック、その首輪が好き?」
 首輪? 首輪が好きなわけではない。鈴が好きな訳でも。もらえるものだから、もらったから。
 メアリに、与えられたから――
「ありがと、喜んでもらえると、私も嬉しいんだよ」
 俺が喜ぶと、メアリも嬉しい?
 どうして、他人が喜ぶのが、嬉しいんだ?へらへら笑って、意味が解らない。

――解らない?

 気付けば、見慣れた公園が近い。 車通りがやけに激しい。轟音が、耳にうなるように響く。

 チリン

 轟音の中、鈴の音が鳴った。
 俺の首輪についていた鈴が、地面に落ちて、コロコロと道路を転がり始めた。
 ほとんど条件反射のように、俺はメアリの腕の中から飛び出した。
 転がる、鈴を追う。 何故、俺はあの小さな鈴を追っているのか。追って、それで何になる。
 あれはメアリが勝手に俺に与えたものだ。手に入れるのに苦労したのはメアリで、俺ではない。
 別に、鈴つきの首輪なんて、どこにでも売っている。珍しいものでもない。
 また、メアリが苦労すればいいだけの話。 何故、俺は鈴を追う?

「ジャック! 危ないっ!」

 メアリの悲鳴が、耳元をかすめる。 身体に伝わる小さな衝撃と共に、視線が宙を舞う。
 その一瞬後に、甲高く耳障りな音と、鈍い激突音がした。 わずかによろめきながら、地面に着地する。
 振り返った俺の目に映ったのは、血まみれで横たわったメアリの姿だった。
 死んでいるのか、ぐったりとした彼女の、赤く染まった指先を舐めると、うっすらと目を開いた。
 視線が虚空をさまよい、やがて、焦点のはっきりしない茶色の瞳が、辛うじて俺の姿を捉えた。
「よ……かっ、たぁ。ジャック……生きて、る」
 かすれた、途切れ途切れの声。
 お気に入りの白いワンピースにも、三つ編みのほどけた赤茶色の髪にも。紅い血がこびりついている。
 肌だけが、青白く、命が失われていくのを感じさせた。
 それでも、彼女は、俺に向かって微笑んだ。 良かったと、嬉しそうに。彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
 俺は、その時ようやく、メアリが俺を助けようとして車に轢かれたのだと理解した。
「何故、助けた?何故、猫のために命を捨てた?」
 口をついて出た言葉が、人の言葉になって出てくる。
「答えろ! どうして俺を助けたんだ!」
 人の言葉、人の声。 伝える言葉を手に入れたのに、伝える相手にはもう届かない。
 メアリは、死んでしまった。
「誰でもいい、答えを教えてくれ!」

「そんなに、答えが知りたい?」

 

 目の前から、メアリが消えた。 メアリも、他のどんな風景も消えて、ただひたすら白い空間が続いている。
 気付くと、俺の手は人の手をしていた。
 腕も、足も、頭も。俺が初めの「ジャック」だった頃の姿になっている。 二十五歳で殺された、大罪人のジャックに。
「いい夢だっただろう?」
 そして、白い空間で、俺のほかにもう一人。
「ネス、あの悪趣味な演出はお前か」
 殴りつけようと振り降ろした拳は、 彼に当たる事無く空を切った。 前に居たはずの彼が、視界から消えている。
「乱暴だなぁ。悪趣味だなんて、よくも君がそんな事言えたものだよ」
 いつのまにか、彼は俺の後ろにいた。
「ねぇジャック、彼女が死んで辛かった? 寂しかった? 哀しかった?」
「何を言う? 俺が、そんな……」
 辛い? 寂しい? 哀しい?
 そんな事は、ないはずだ。ただ、解らなかった。なぜ、そんな事をしたのか。
 全身から冷汗がにじみ出て、目が回って、気が狂いそうだった。
 冷たくなっていく、死んでいく人間の、青白い肌が目に焼きついた。 自分が、自分でないみたいだ。
 俺が初めの「ジャック」だった頃は、人間の死なんてどうでも良かったのに。 この手で多くの人間を殺め、その事を何とも思わずに生きていたのに。
 あんな、たかだか十年しか生きていない子供の死に、俺は何をそんなに混乱する?
 しかもたった今、それがこの名も無い人外の者が見せた、趣味の悪い夢だと解ったというのに。
 何故、この手が震えるほど、俺は動揺してしまっているのか。
「ジャック、恐かったんだね」
「恐いだって!? 何人も平気で人を殺した、この俺が!?」
「そうだよ。君は恐かったんだ。たった一人、君に優しさをくれた存在が、自分のために命を失うのがね」
 ネスは、底の知れない笑顔を俺に向ける。
「ずっと、ずっと一人で、孤独に生きてきて。最後の最後で巡り会った、たった一人の大切な人が、 自分のために死んだらね。この上ない罰になるだろう? 罪人ジャック」
 大切だって? 俺が、メアリを?

「ジャック、君にもそろそろ解ってきたんじゃないかい? 九十九番目の猫は、他の九十八の命では手に入らなかった、ただ一つの物を持っているんだよ」

 ネスの言葉と共に、俺の意識は遠く、白い世界に溶け込んだ。

 

  起きると、もう既に朝で、俺は黒猫に戻っていた。
「おはよう、ジャック」
 夢の中と同じ、お気に入りの白いワンピース。
 肩まで伸ばした赤茶色の髪を、母親に三つ編みにしてもらっている。メアリは不器用で、自分で三つ編みを作れないのだ。 三つ編みには、ワンピースに合わせた白いリボン。 このリボンとワンピースを、彼女は気に入って大切にしている。
 そして、メアリは夢と同じように俺を抱えあげて、 近くの公園へと、日差しの中を歩いていく。
 道路の車通りは控えめだった。 それでも、あの後味の悪い夢のせいか、どうも落ち着かない。
 血まみれのメアリを思い出す。
 九十九番目の猫だけが、手に入れることの出来たただ一つの物。 ネスの言うそれは、一体何の事だったのか。
 気になってはいるが、いくら考えてもさっぱり解らなかった。
 首輪とか、そんな物ではない事だけは解っている。
 強い風が、公園に向かう坂道を吹き抜けていく。ざわざわと、木々の梢を揺らす。
 いつの間にほどけてしまったのか、メアリの三つ編に結ばれたリボンが、風にさらわれてしまった。
 ガードレールの向こう、車道の真中にふわりと舞い降りる。
「あーっ! どうしよう、取りに行きたいけど車が来たら…」
 坂道なせいで、車の往来がわかりにくい。もたもたしていたら、車に撥ねられるか、リボンが轢かれるか。
もう一度、風が吹いて道端に寄せてくれればよいのだが、こんな時に限ってそよ風すら起きなかった。
「どうしよう、アレ、パパが買ってくれたのなのに……」
 そういえば、メアリの父親は二年ほど前に亡くなっていたのだったか。
 あのリボンを彼女は一つだけ小さな箱に入れて分けて、大切にしまっていた。 普通のリボンに、よくもそんな、宝石のような扱いをするものだと思っていたのだが。
 しばらくうろうろと歩き回った後、彼女は覚悟を決めた。 ガードレールを越えて、周りを気にしながらも、路上に落ちたリボンに向かって走る。
 リボンを拾い、彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「よかったぁ! 汚れてない」
 子供らしく喜びながら、彼女は俺の元へと戻ろうとした。その時。

 パァァァンッ

 クラクションの音。 甲高いブレーキの音。
 夢と、同じ。

「メアリ! 危ない!」

 それは、人間の声。 鈍い音と、全身に伝わる鈍い衝撃。
 視界に最後に映ったのは、よく晴れた青い空だった。

 

「びっくりしたよ。まさか、君が飛び出すとは思わなかった」
 喧騒を遠巻きに眺めながら、ネスは呆れたようにこう言った。
 呆れられても仕方が無い、俺自身呆れていた。 まさか、あの夢の中でメアリがとった行動を、自分がする事になろうとは。
 車の運転手が出てきて、メアリの無事を確認している。
 メアリは呆然として、無惨に横たわった黒猫の死体に手を触れた。首輪の鈴は、ちぎれてどこかへ転がっていってしまったようだ。
「お嬢ちゃん、そんな黒猫なんてほっとけば係りが片付けるさ。それより、怪我はないかい?」
 メアリは首を横に振って、猫の動かない、血まみれの身体を抱えあげた。
 彼女のお気に入りのワンピースを、血のりが汚していく。
「ジャック、私を助けてくれたのね」
 きつく黒猫を抱きしめる、彼女の瞳から涙が溢れた。
「聞こえたよ。危ないって、叫んでくれたね。私の背中を押してくれたね。 若い男の人の声、大きな、パパに似た暖かい手だったわ」
 運転手は、訳がわからず途方に暮れている。
 メアリは「ジャック」だった黒猫を抱きしめ、声をあげ泣き続けた。

 俺の瞳にも、いつの間にか涙が溢れていた。
 胸に熱いものが込み上げて、こんな事は初めてで、どうしていいか解らない。
「鬼の目にも涙、だね。日本って国に伝わるありがたい言葉さ」
「うるせー、ネス。俺だって、好きで泣いてる訳じゃねーよ」
 俺の覇気のない反論に、彼はくすくすと笑い声を上げた。
「もし、天国に行けたら、百回目の命をもらえるか聞いてみなよ。できるだけ彼女の近くにって、 要望もきちんと添えるんだよ?」
 それは、いいかもしれない。 う んざりしていた、繰り返しの命。メアリと一緒なら、もう一度生きてもいい。
 ずっと解らなかった何かが、彼女のおかげでやっと解りかけてきた。
 誰かのために、生きる意味が。
 そうだ、きっと、九十九番目の猫が、手に入れたものは…。

 彼女に会えるなら、もう一度この世界に生れ落ちたい。

「ありがとう、私の、優しいジャック。忘れないわ、あなたの事、絶対忘れないわ」

 

「マリア、結局九十九番目の猫が手に入れたものは何だと思う」
「ジャック? 彼、もう昇天しちゃったの?」
 ネスの問いかけには答えず、マリアは反対に聞き返した。
「そう。何と飼い主の女の子を庇って車に轢かれてしまいました」
「えぇ? 九十九回生きても性根治らなかったあの男が?」
 元も子もない事を言う。 ジャックのこれまでの言動を思えば、仕方のないことかもしれなかったが、さすがに哀れかもしれない。ネスは苦笑を漏らした。
「ジャックが最後に手に入れたのは優しさ≠カゃないかな。 孤独に生きた悪人ほど、コレにはからっきし弱いものさ」
 誰からも、優しさをもらえずに死んだジャック。
 どれほど上手に自らの欲望を飼いならしても、孤独を満たす事は出来なかった。
「今すぐに生まれ変わっても、歳の差十歳か。人間に生まれ変わって、あの女の子追い掛け回すジャックを見てみたいもんだね」
「今は歳の差カップルも珍しくないし、十分に射程距離でしょ?」  
 軽口を叩き合って、二人は笑った。
「僕は、ちょっと羨ましいかな。自分を愛する初めのジャックも、愛してもらった最後のジャックもね」
 散々腹を抱えて笑った後、少しだけ寂しそうにそう言ったネスの額に、マリアはそっと口付けをする。
「貴方への優しさなら、私があげてもいいわ。何のために側にいると思ってるのよ」
「ありがとう、マリア」
 暖かさの残る額をさすりながら、ネスは照れくさそうに微笑んだ。

 

2003.9.23更新

これを見て友人がバンプの「K」だと言った…。
はい、半分正解です。正確には、「K」に関してバンプのメンバーが言ったコメントを私流解釈をかましたのがこの話。
ジャックが、極悪人の割に毒気がないんですが。きっと生まれ変わりすぎて、ちょっと角がとれてマイルドな性格に(笑)
何となく舞台はアメリカの田舎の方かな、と思いながら書きました。
イギリスじゃない事だけは確か。だって、イギリスでは黒猫は「魔女の使い」として幸福のシンボルにされてるんだもの。
あ、ドイツだったかな?…ごめんなさい、今度調べてみます。
ヨーロッパの国のことなのは確かなんだけどなぁ。

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