誰も知らない24時
悲しい事があったら
耐えきれずに抱えきれなくなったら
その時は迷うことなくここにおいで
明日になれば、誰も知らなくなる事だから
――私のやっていることは逃避だ。
誰も私の待ち人を知らないはずだった。
だから、まるで初めから私を知っていたかのように現れた彼を目の前にして、どうしていいか解らなかったのだ。
「待たせたね」
自分こそが待ち人であったかのように、彼は何の迷いもなく言い切った。
他に人はいない。声をかけられたのは間違いなく私だ。
「再会するとは思わなかったな。また僕が見えるなんてさ。こういう時どうすればいいのか考え物だね」
訳が解らない。とりあえず、彼の口ぶりだと私達は以前にも会った事があるらしい。
当然、私には覚えがない。
「えーと、どちら様でしたっけ」
他に言う言葉は見つからなかった。
特別目立つことはない、普通の少年だ。淡い金髪に、だらしなく胸元を緩めた白いシャツ、肩に引っかけられたネクタイ、下は黒いスラックスに革靴。
こんな寒い季節だというのに上着を着ていないのが、寒々しいことこのうえない。
しかし彼はそんな事など気にも留めていない様子で、私の目の前で微笑んでいるのだ。
「名前はもう随分昔になくしてしまってね。呼ぶに不便ならネスと呼んでくれればいいよ」
何だろう。やっぱりよく解らないことを言っている。 もしかしなくても、怪しい人だ。
どうしよう。今この場所には私しか居ない。
「変態じゃないし。まぁそう思われても仕方がないんだけどさ。失礼だよね」
柔らかな微笑みから一転して、ネスと名乗った(と言うべきかはともかく、そう呼ばれているらしい)少年は、まるで子供がするように頬を膨らませて見せた。
私は、心を見透かされたかのようで、背中に嫌な汗をかきながら考えていた。 顔に出ていただろうか。
とりあえず、ひとつだけ確かな事がある。
「貴方は私の待っていた人じゃないわ」
だって、知らない人なんだもの。
もしどこかで会っていたのだとしても覚えていなかったのだから、私が彼を待っているはずがないのだ。
彼は笑顔で「そうだね」と答えた。 あっさり肯定されてしまうと、それはそれで言葉が続かない。
「こんな夜更けに、女の子が一人でこんな所にいたからさ」
それを言われるとなかなか辛いものがある。 もしかしたら、怪しい人ではなくて、ただ気になって様子を見に来ただけの人なのだろうか。
それにしても、格好や言動には違和感しか感じないのだけど。
こんな田舎町の事、町外れにあるこの時計台の周囲は、外灯もまばらで薄暗い。 確かに女子供が一人で出歩く場所ではないな、と思う。
「待っているの。明日の鐘が鳴る時まで」
午前零時の鐘まであと三十分ほどある。
日付が変わるその時までに、来てくれなかったら諦める。
明日になったら迎えに行くから、と。 そう私に言って、帰ってこなかった人。
ネスは、大した興味もなさそうな様子で、じっとまっすぐに夜景を眺めていた。
小高い丘にあるこの時計台からは、建物の暗いシルエットの隙間に遠く中心街の明かりが見える。
私たちはしばらくの間、何も言わずにそこに立っていた。
一分ごとに、時計台の重い長針がごとりと音を立てる。 心の中で、その音を数えていた。
十三回。あと二回で今日終わる。
明日が今日に変わってしまう。
「君の名前を聞いていない」
思い出したように、ネスはこちらを見た。 そう言えばそうだ。結局、私は名乗っていなかった。
「ネリーよ」
でも、思ってみれば変な話だ。まるで知り合いかのように近づいてきておいて、名前を教えてくれだなんて。
それでも嫌な感じではなく、何だか笑える気分になってしまうのは、彼の持つ雰囲気のなせる技かもしれない。
風のような人だ。 隣にいる事があまりに自然で、ふわりと私の心をくすぐる。 優しい、そよ風みたいだ。
少しだけあの人に似ている。何でもない一瞬に、ふんわりとした暖かさをくれるの。――鐘が、鳴る
『今日』が終わって『今日』が始まる。
私の『明日』は来なかった。
悲しげな音だと思うのは、きっと私の願いが世界に届かないからだ。
「明日も――いや、もう今日か。ここに、来るの?」
ネスが問う。 その問いを、私は自分自身の胸に投げかけた。来るのか?
今日も。
意味もなく?
解っている。 これは、逃避だ。「来るよ」
一言、そう答えた。
今日も待つのだろう。私は、この時計台の下で、今日と明日の境目を過ごす。
そうか、と一言返事を返した彼はどこか寂しげな笑顔だった。 彼の視線は遠い街の光へと、再び吸い込まれていく。
「あ、マリア」
不意に彼は口を開いた。 薄闇の道に浮かび上がるように、女性が一人こちらに向かって歩いてくる。
真っ直ぐに、ネスの方に歩み寄る。
赤みがかった茶髪はクセが無くさらさらと背中に流れて、真っ白な肌は雪のようだ。 暗闇の中で、彼女だけが光を浴びているように感じる。
とても、綺麗な人だ。
「あら、今日は可愛らしいお友達を連れているのね」
彼女は、当たり前のように私に微笑みかける。
本当はただここに居合わせただけで――しかもたまたまネスが興味を持って少しはなしかけてきただけで、友達なんかではない。
けれど私は、こんな綺麗な人に見つめられるのが気恥ずかしくて、うつむいて頭を垂れることしかできなかった。
「マリアー、それじゃ僕が口説き落としていたみたいだよ」
がっくりと肩を落とし、ネスはわざとらしいため息混じりにうなだれた。
「あら、違ったの?」
対する彼女は涼しい顔だ。 ネスは既に戦意を喪失しているらしい。言われるがままに任せている。
何だか、微妙な空気だ。 話しかけるタイミングも、帰るタイミングも逃してしまった。 どうしよう、帰りたいのに帰れない。
私がまごついていることに気づいたのか、ネスはくるりとこちらを振り返った。
「僕らはもう行くから。君も気を付けて帰るんだよ」
「はい、……えー、と、さようなら」
彼らはあっさりとした挨拶をして、私とは逆方向の帰り道を歩み始めた。
少しだけ寂しいような、悲しいような気分になってその背中を見ていると、彼が突然振り向いた。
「また明日ね! いや、もう今日だったっけ」
何故だろう。 あんなに変な人だと思ったのに、彼を待っていた訳ではないのに。
「はい!また明日、じゃなくて今日に!」
彼とまた会える事が待ち遠しくなったのだ。
「騙しているみたいね」
「何が?」
「彼女の事よ」
暗い夜の道を二人は歩いていた。
月は雲に隠れ、裏通りは外灯の灯りさえまばらだ。
「随分と人聞きの悪いことを言うね」
ネスは数歩先を行くマリアに駆け足で追い抜いて、彼女の正面で足止めをした。
「女の子と二人きりでいたのを怒ってる、とかなら多少は喜ぶけど。こんな事初めてじゃないんだし、もちろん違うわけだよね」
彼女は心底呆れかえったように、わざとらしく口をぽかんと開けた。
近寄ってネスの額を軽くこづくと、また先を歩き始める。 彼は慌てて彼女の後を追った。
「だから、貴方はみんな知っているんでしょう。彼女の待っている人の事」
「そりゃ知ってるけど。だって仕方ないじゃないか。彼女は僕に会ったことなんかすっかり忘れてるんだもの」
不満げな様子で、ネスは道ばたの石を蹴り飛ばした。
転がっていったかのように思えたそれは、瞬きをした後には元の位置に戻ってしまったので、ますます不愉快な気分になるだけであった。虚しい行為だ。
「前途多難だね。ホント、僕って永遠に消えられないんじゃない?」
「今のところは消えてくれなくても結構よ」
どこか白けた様子で、マリアは先を行く。
彼女にとっては寒すぎる冗談であったようだ。女王様は虫の居所が悪いらしい、とネスはもう一度彼女に駆け足で追いつく。
「すみませんお姉様、もう言いません」
「解ればよろしい。で、あの子はどうするの?」
話を蒸し返されて、ネスは黙って肩をすくめた。 結局の所、彼にできることはたかが知れている。自分が見えなくなるように――忘れるようにし向けることだけなのだから。
自分が今どこにいるのか見失う人は、とても、とてもたくさんいるんだ。
それでも何となく、自分が迷っている事に気づいている人ならば、きっかけさえあればすぐにそこがどこなのか思い出す。 だけどね、時には自分でも気づかない内に深く深く迷い込んでしまう人もいるんだ。
そういう人はね、誰かが道しるべを立ててやらないと戻ってこれないんだよ。
道案内できる人がそばにいてくれればいいんだけどね。 なかなかそう上手くはいかないよね。僕が君に道しるべをあげよう。
昨日出会ったばかりの彼らの事を、私は何故か懐かしいと感じていた。
覚えていないだけで、私は確かに彼らを知っていたのかもしれない。
それともこれがいわゆる既視感と呼ばれる物のなせる技だろうか。 本来「既視感」というものは初見で感じるからこそのものであるから、二回目以降のこういう感覚はただの「気のせい」というのかもしれない。
意味もない空想は迷走を始める。 午後二十四時にして午前零時の鐘は三時間後に鳴る。
淡い色の金髪を風になびかせている彼は、昨日と全く同じ姿をしていた。 寒々しいシャツとスラックス。一張羅なのだろうか。その割には小綺麗だけれど。
対するマリアは、昨日とはコートもスカートも、首に巻いたスカーフも、全て違っていた。 やっぱりこの人は綺麗だ、と思う。
坂道を囲む黒い影の隙間から垣間見える夜景は、綺麗だけれどどこか寂しげだ。
何となく、マリアとイメージがだぶった。彼女も、どことなく寂しげな雰囲気を持っていると思う。
儚い危うさではなく、深い悲しみを静かに見つめているようだ。どれほど賑やかに飾っても、寂しさは付きまとう。
「ネリーはどうしてここにいるの?」
ネスが唐突に、そんな分かり切った事を尋ねて来た。
昨日言ったのに、もう忘れてしまったのだろうか。
待っているのだ。――誰を?
あの人を。
――何故?
明日になったら迎えに来てくれるから。
――解っている。 これは逃避だ。
「ねぇ、明日は永遠に来ないから明日なんだよ」
彼の声は何故か楽しげに聞こえた。 意地悪なことを言う。昨日は優しそうに思えたのに。
「だって、明日は来た瞬間に今日になるんだもの」
解っている。そんな事は知っている。
「だから君が待っている人はきっと永遠に来ないよ」
彼は、絶対に言わないでいて欲しかったことを、平然と言ってのけた。
「来るわ。絶対に来るもの!」
走りだした。
暗い坂道を、時計台に背を向けて駆け下りた。
目を光らせた猫が驚いて茂みに身を隠しても、止まらなかった。
明日の鐘はまだ鳴らない。
本当に来ると信じるなら、私はあの場に留まるべきだった。解っている。
――これは、逃避だ。
「意地悪。女の子泣かせるなんて最低。人でなし」
「はーい、お姉様。ネス君は意地悪で最低で、実際人間ではありませんよー」
時計台に取り残され、二人は殺伐と口だけの喧嘩をする。
戦わせているのは口だけで、どちらも何とも思っていないような風情で方々の景色を眺めていた。
「現実は残酷なのです。そして残酷だからこそ優しさが意味を成すのです。違いますか、お姉様」
「同意しないこともないけど貴方が言う台詞じゃないわ」
台本を棒読みするような、無味乾燥のやりとりである。
根負けしたのか面倒になったのか、先に口をつぐんだのはネスの方だった。
マリアは彼の横顔をじっと見つめて、やはり黙り込んだまま時計台を見上げる。鐘が鳴る。今日はあと一時間で終わる。
小さな女の子がいました。
女の子のパパは、明日迎えに来るから時計台で待っていてね、と言っておばあさんに女の子を預けていきました。
次の日、女の子はおばあさんに連れられて時計台で待っていました。
パパは迎えに来てくれません。
女の子は考えました。
きっと明日が今日に変わった後に時計台に行ったから、パパは見つける事ができなかったのです。
女の子は夜中に家を抜け出して、時計台に行きました。
明日になる瞬間にあの場所で待っていれば、パパはきっと見つけてくれます。
女の子は待ちました。何日経ってもパパは迎えに来てくれません。
坂道を、風に舞いながら落ちてゆく紙吹雪。
薄闇で、街灯の儚い灯りに照らされて、花びらのように舞い踊る。
二人は本のページを破って、細かく千切っては道に放っていた。
はらりはらりと、舞い落ちる白い断片。 あの日の小さな女の子からもらった、記憶の断片を風が運ぶ。ゆらりゆらりと、彼女の後を追いかけていく。
パパが死んだことを信じられなかった。
ほんの一日だけ、仕事で遠出をするからと祖母に預けられた。
今までだって何度かあったし、その度に次の日時計台で待ち合わせをして、二人で家に帰った。
それは当たり前の事で、私にとっては不変の真理だった。
少なくともあの日までは。事故だった。あまりにあっけない終わりだった。
葬式を終えても、お墓に花を捧げても、信じることができなかった。
「辛くなったらここへおいで」
そう彼は言った。 辛くて、悲しくて、耐えきれなくなったらここにおいで、と。 だけど、と彼は続ける。
「終わりは誰にでも訪れる。突然に、呆気なく、残酷に訪れる。君は少しずつでも、それを受け入れなくちゃいけない」
最後に彼は多分微笑んでいた。「できれば、もう二度と僕を思い出さないでね」
走っていた。
先ほど駆け下りた道を今日が終わらないうちに、引き返して駆け上がっている。
思い出した。
パパが死んだことを信じることができずに、時計台の下で待っていた小さな私。
彼はあの日も私に告げた。 「君の待っている人は永遠に来ないよ」って。
何故忘れていたのだろう。思い出せなかったんだろう。
できれば思い出さないで欲しいって、そう言われたから?
違う。それも思い出した。ネームレス。名無しのネス。存在していないのと同じだから、誰も彼を覚えてはおけない。
あの頃はさっぱり意味が解らなかった。今だってほとんど解らない。けれど……。時計台のたもとに、彼はまだ立っていた。
まるで私が戻ってくることが解っていたみたいに、暢気に微笑んで「おかえり」と言った。
マリアはいない。先に帰ったのかもしれない。
私はもう顔中汗と涙でくしゃくしゃで、恐らく明るい場所ではとてもみせられないような顔をしている。
「ネス、あのね、おばあちゃんも死んだの。私、また一人になったの」
逃げたかった。もうお別れなんてしたくなかった。
あの時みたいに時計台に行けば、今度こそパパが迎えに来てくれる気がしたのだ。
だから、解っていた。これは逃避だ。
「遠くの親戚が手配してくれて……寄宿学校を探してくれた。学費も面倒見てくれるって。ろくに会ったこともないのに、いい叔母さんだわ」
それでも、心に空いた穴は塞がらなかった。
学校の手続きをして、叔母に連れられて町を出るまでの数日間、私は情けない逃避をくり返したのだ。
割り切ったつもりでいて、多分私はあの頃から何一つ変わらないままだったのだろう。 いつでもこの時計台を心の拠り所にしていたのだ。
坂の終わりからここを見上げると、パパがこの上から私を見守っているのだと思った。
でももうこの街を出るのだ。心の拠り所もなく、見知らぬ遠い土地で私は上手くやっていけるのだろうか。不安でたまらなかい。
逃げたかった。パパが迎えに来ると信じたかった。おばあちゃんのしわしわで温かい手が、私をパパの元へと連れて行ってくれるのだと、そう思いたかった。
「ごめんね、ネス。私はずっとずっと、あの頃の泣き虫のままだったわ」
パパは迎えに来られなくなった。おばあちゃんのしわしわの手は冷たくなった。 私はあと数日で、この街とはさよならをする。
ネスはやっぱり微笑みを浮かべたままだった。
彼は何も変わっていない。服装も顔立ちも、浮かべた優しげな微笑みも。昔のままタイムスリップしてきたみたいに。
もしかすると私がタイムスリップして、あの小さな私がいた頃に戻ってきたのではないかと錯覚してしまいそうだった。
「ネリー、人間は死ぬよ。いつか、誰でも」
彼は当たり前のことを当たり前のように告げる。
「ねぇ、君はずっと心の中で父親の面影を時計台に見ていた。そうする事で安心できた。でも思い出を支えにするのは本当にただの逃避なのかな」
思いもしない答えだった。
私はなんと答えて良いのか解らず、とりあえず呆けたように近くの芝に腰を下ろす。
「この時計台で来もしない人を待つ、それは確かに逃避かもしれないけど、思い出を抱えて生きることは逃避なんかじゃないよ」
彼の声は不思議なほどに優しく聞こえた。思い出の中のパパの声みたいに。
「考えてごらん。思い出で自分を支えるのに必要なのは、本当にこの場所だけかな。温かい手も笑顔も、ここじゃなきゃ思い出せない? 現実から逃げ出してこなくちゃいけない?」
私は慌てて首を横に振った。パパの笑顔も、おばあちゃんの温かさも、片時だって忘れたことはない。 二人とも大好きだったのだ。
「楽しい思い出が何で美化されやすいか知ってるかい。綺麗で美しい程、それは心の支えとなるからさ。もちろん、あんまり浸って結局そこに逃げちゃったら本末転倒だけど」
彼はあはは、と軽く笑い飛ばした。 何故か私もおかしな気分になって、一緒に笑った。
「思い出が綺麗なほど、痛みが薄れるのには時間がかかるけど、それは君が弱虫だからじゃないんだ。 そうだ、ちょうど君くらいの歳の女の子が言っていたことなんだけどね。寂しくなったら夜空を見上げるといいよ。 亡くなった人は空に上って星になるんだって。だから、あの星のどれかが君の大切な待ち人だと思えばいい」
彼は暗い夜空に掌を向けた。
街灯もまばらな街外れの夜空に、星はビーズを散りばめたかのように様々な輝きを放っていた。
「そうだね。それは素敵な考え方だわ」
あの中にパパやおばあちゃんがいて、どの街のどの空の下でも見守っていてくれるのなら、寂しさも耐えられるかもしれない。
星を見て、この時計台でひたすらに明日を待った幾つもの夜を、いつか笑いながら思い出せる日が来るといい。
二十四時の鐘の向こう側で私を待っているのは、いつだって次の「今日」だった。
「明日」という名前がついていた「今日」だった。私はきっとこれからも数え切れないほどの「今日」を乗り越えて、そしていつか「明日」で待っているパパやおばあちゃんに会いに行くのだ。
あっという間かもしれないし、気が遠くなる程先かもしれないけれど。明日の事なんて誰も知らなくて、だから不安で、昨日の事はよく解ってしまうから、だから辛かったりもする。
不安や悲しみを乗り越えていくことに「今日」の意味はあるのだ。鐘がなる。
二十四時で零時の鐘が鳴る。
今日を昨日に変えて、明日を今日に変える鐘が鳴る。
誰も知らない明日は遠のき、これからの今日が始まった。
「ネス、私はまた貴方を忘れるのね」
私がまだ小さな女の子だった頃、彼は別れ際に手を振った。
きっと次の鐘が鳴って明日が今日に生まれ変わる頃には、君は僕を忘れるだろう。姿も見えなくなるだろう。
この鐘の音を僕が一緒に聞いたことなど、誰も知らないこととなるよ。
その言葉を聞いた時に、やっぱり私は取り残されてしまうのだと寂しい思いをした。
彼の言うとおりに綺麗に忘れ去って、時を経てこの場所に戻ってきた今は、もう解っていた。 置き去りにされるのは、私ではなかったのだ。
きっと私は、もう彼とは会わないのだろう。
再びこの場所を訪れる時は、パパの迎えを待ったりはしないし、午前零時の鐘も聴かない。
そしてネスの姿も見えないのだ。
彼は手を振った。 あの時と同じように、笑顔で。
「さようなら、ネリー」
私も手を振り返して、今度はゆっくりと坂道を下っていった。
時折上を振り返って、何度も何度も手を振りながら、あふれ出す涙が景色をにじませるのを止めようともしなかった。
結局、彼の正体はよくわからないままだ。
もしかすると私の空想の産物だったのかもしれない。 むしろ、そうであったらこの心も晴れてくれるのだ。忘れ去られた後、彼はどこにいくんだろう。
ずっとあの場所に? それとも消えてしまうの?
いずれにしても私は、明日が今日に変わる頃に彼の事など忘れてしまうのだ。
そして、彼はそれを望んでいるのだ。――さようなら
風に乗って、微かな最後の声が耳の奥にこだましている。
これは逃避だった。
私はもうすぐこの街をさよならをして。 逃げ出す場所を失って。
いびつに歪んだ坂道を、少しずつだけど確実に上っていく。
「はい、今回の任務達成です!」
すらすらと文字の書き足されていく本のページをめくりながら、ネスは楽しげににこにこと笑っている。
マリアが心底呆れかえった様子で彼を見つめているが、いつものことなので気にも留めなかった。
「いつから貴方の人間観察は極秘任務になったのよ」
「今日から。いいじゃないか、人の役に立ってるんだし」
マリアは釈然としない様子でぶつぶつと何やら呟いていたが、それも割といつもの事である。
夜の風はひんやりとしている。マリアは少し肌寒そうに首元のスカーフを指で直した。 寒さなどほとんど感じないネスも、彼女の真似をして腕をさすって見せた。
「ねぇ、マリア。僕がもしも、そんなことはもう随分と先の話になるんだろうけど、消えてもいいや、って思った時はね」
こういうたとえ話は、彼女はあまり好まない。 解っていたけど、あえて言おう。
「僕の事なんかさっさと忘れてね。この本だって、別に持っていなくてもいい」
こんな台詞を吐いたら、かえって彼女は忘れがたくなるのだろうとか、それなら僕の言う事は無意味どころか悪質だ、とか考えながら、ネスは本のページを繰る。
実際の所は多分、自分は言葉とは裏腹なことを願っているのだろう。マリアは何も答えなかった。互いに黙り込んだまま、二人は少女の歩き出した坂道をたどってゆく。
晴れていたはずの空は急に曇りだして、紙吹雪の代わりに時期遅れの淡雪が舞い始めた。「貴方みたいなバカの事、そうそう忘れられるものですか」
やがて呟いた彼女の一言に、ネスは微かに苦笑を浮かべた。
振り返る。雪の舞う丘と夜の時計台。
24時の鐘が鳴る頃。
誰も知らない明日が今日に変わる頃。
忘れ去られた思い出は、きっと彼女の歩く力となるだろう。
2005.2.24更新
春コミ新刊原稿中に気晴らしを兼ねて書いていたお話。
夜中まで鐘が鳴るような古い時計台って今はそうそう残っていない気もしますが、何となく、そういう半端に古い物が現代の街の中にぽろぽろと残っているような風景をかきたかったのです。札幌もそうだけど、小樽とか、そういう雰囲気の町が好きです。北海道はそういう街が多いなぁ。
ネスは四六時中、色んな国をうろうろしています。マリアはそれをずっと追いかけてます。そうやって100年近く過ごしているので、同じ街を何度も行ったり来たりもするし、今回みたいに昔ネスが見えてしまっていた人とすれ違ったりもしてるのかもしれない。