Happiness World

 

 私はただ、幸せになれる世界に行きたかった。

 

 冷たい瞳をした少年がそこに立っていた。

 夜半から降り出した雨は今も絶え間なく地面を叩き続けている。
 その中で彼は傘も差さずに――かといって濡れるわけでもなくじっと佇んでいる。
 暗い朝の雨。
 その中で太陽のように明るい金色の髪に、爽やかなエメラルドグリーンの瞳をした少年は、何をするでもなく私を見つめていた。
 この辺りでは見ない少年だ。 歳は十六歳前後だろうか。
 学生に見えるが、飾り気のない黒のスラックスと革靴、だらしなく首もとを緩めた白のシャツ、ほどけて肩に掛かっているネクタイも黒で、傍目には喪服を着崩しているようにも見えた。
 だいいち、学生がこんな空模様の早朝に、一人で誰もいない公園に何の用があるというのだろう。
 降りしきる雨の中、濡れるわけでもなく、かといって水を弾いているわけでもない彼の姿はとても不思議なものだった。
 水滴は彼をすり抜けて地面を打っている。
 長い沈黙の後、ようやく彼は口を開いた。
「弱虫」
 その声は激しい雨音の中でも消えることなく、鮮明に私の耳に届く。
「貴方に、何が解るの?」
 次の瞬間、彼の口元に上ったのは嘲笑だった。
「解らないよ」
 こともなげにそう答えて、彼は冷たい光をたたえたその瞳を、泣き続けている空へと向けた。
「解らないから、同情を植え付けられる前にまず、言っておこうと思って」
 そして彼は、今度はさも善良そうな笑みをこちらに向ける。
「今更、僕なんかに理解を求めているわけじゃないよね?」
 彼の態度はどこか面白がっている風でもある。
 私はふつふつと湧き上がる怒りを抑えつけ、突然の来訪者を睨み付けた。
「私に何か用なの?」
 むかむかとする心の内を吐き出す。
 彼は一瞬だけ、それこそ天使のように優しい笑みを見せた。
 私が戸惑い続ける言葉を失った間に、元の小馬鹿にするような表情に戻ってしまったけれど、それは本当に優しい心にしみる笑顔だったのだ。
 優しくて、少し寂しげであった。
「君を連れて行ってあげようと思って」
 私の問いに、彼はこう答えた。
 雨と溶け合う彼の手が、私に向かって差し伸べられる。
「幸せがある世界を見たかったんだよね?」

 

 幸せの意味がずっと解らなかった。

 だけど不幸せがどんなものかは、漠然と知っていた。
 それはさながらスイッチのような物だと思う。 何でもない小さな出来事が、突然目の前を暗闇に染めてしまったりする。
 電灯のスイッチでも切ったみたいに、カチリと音を立てて真っ暗になるのだ。
 そして暗闇になってから知る。
 自分の歩いている道がいかにもろく壊れやすいものであったかを。
 私達は切れそうな糸の上を歩いていた。

 

 その少年は「ネス」と名乗った。
 名乗った、というのはおかしいのかもしれない。彼は名前を持っていなかったのだ。
 名前がないからネームレス。呼ぶに困ることがある時はそれを略してネスと呼んでもらっているそうだ。
 いっそそれを名前にすればいいのに、と思うのだが、彼に尋ねてみれば必要がなくなったら忘れられてしまうものだから名前に意味はないらしい。
「変なの」
 とりあえず、その事を聞いた時に漏らした感想であった。
 先ほど、一瞬でも優しく寂しげであったのは見間違いだったのかと疑いたくなるほど、彼は不愉快を顔全面に引き出す。
「何故、君にそんな事言われなくちゃいけないんだ。っていうかさ、君も名乗るべきだよね、ここは」
「……ユニスだけど」
 不愉快な彼と不機嫌な私。
 そして私達は今、草原の中にいた。
 オルゴールの音が聞こえる。 草原の中、幼い少女の手に収まる小さな木箱から、その音は風に乗って流れていく。
 曲目は「It's a small world」だ。
 幼い子供の頃に、一度だけ父に連れられていった高原の記憶だった。
「これが、君の一番幸せだった頃?」
 ネスの声には呆れたような響きすらあった。
「悪かったわね、何もなくて」
 風が草を薙ぐ音と、オルゴールのメロディ。
 目の前には大きな世界、流れるのは小さな世界。
「私が見た大きな世界はここが最後だったのよ」
 最初で最後の家族旅行だった。
 別に生き別れたとか、家庭内不和であったとか、そういうわけではない。 両親が共働きだったので、必然的にそういう機会も少なかった。
 特別に無理をしてまでそういう事を求めもしなかった、ただそれだけの事だ。
 そうやって、小さな世界で生きてきた。適当に足並みを揃えて、はみ出しすぎず、だけれど同化しないように。
「あの歌が言う『小さな世界』ってそういう意味じゃないと思うんだけどね」
 傍らでネスは大げさな仕草で肩をすくめた。
 そんな事は私だって解っている。 私達の世界は一つしかなくて、そこには溢れるほどの生物が住んでいて、人間はその中で色々と折り合いをつけながら生きていく。
 折り合いがつけられなければ、爪弾きにされるだけのこと。
「もう疲れちゃったのよ」
 考えても答えなど、永遠に出てこないのだろう。
 そう感じた時から、私は生きることに疲れ始めた。 この世界が酷く息苦しく、重いものへと変容する。
 そのくせに、目まぐるしく変わっていく所だけはいつまでも同じだった。
「この世界が嫌い?」
 ネスの問いに私は首を振った。 嫌いなのは、世界じゃない。
「私は、自分が嫌い」
 草のざわめく音にかき消されそうなメロディーは、やがてゆっくりと演奏を止めた。

 

「今回はいやに絡むのね」
 ハーブティーに浮かべられたミントの葉をスプーンでくるくると回しながら、マリアはその澄んだ空色の瞳でネスをじっと見つめる。
 穏やかとは言い難いその眼差しを避けるように、ネスは街行く人々に目を向けた。 昼下がりのオープンカフェには、客入りはまばらだ。 散歩を楽しむ時間にはまだ早く、道行く人々はこちらとは対照的に足早である。
「マリアは毎回僕に絡んでいるじゃないか」
 不満げな顔で答えるネスの額を、マリアは人差し指で軽く小突いた。
「じゃ、聞くけど放っておいて欲しいの?」
 ネスは小突かれた額をさすり、唸るように机に突っ伏した。
「その質問、ものすごく意地悪じゃない?」
「その言いぐさ、私に失礼だと思わない?」
 即座に言い返され、彼はあえなくテーブルの上に沈没した。
 口でごまかせると一瞬でも考えたのが運の尽きである。
 百年以上も連れ合っている彼女に、ネスは一度足りとて勝ったためしがなかった。
「……彼女も同類なんだろうな、と思うとそれだけで憂鬱になるんだよ」
 店内から聞こえるBGMが変わる。 It's a small world それは偶然であったが、ネスは顔を歪めた。
 小さな、ひとつだけの世界。
 その世界で居場所をなくした人間は、どこへ行けば幸せになれるのだろう?

 

 今日は朝からよく晴れていた。
 私はただ、雲の行く末を眺めている。 誰も私の事など気に掛けない。
 私はこの小さな世界で、独りぼっちだった。
「やぁ、相変わらずだね」
 気づいたら、目の前にはネスがいた。 やはり彼の瞳の奥には、冷たい光が宿っている。
「貴方は私が憎いの?」
 率直に、思ったままの感想を述べる。
 彼は意外そうに目を見開いた。 人差し指でしきりと頬を掻きながら、ネスはからりと晴れ上がった空を見上げる。
「何で僕が君を憎むの? 被害妄想も大概にしてほしいね」
 あれほど好き勝手に言われて、いっさい憎しみがないと言われても説得力はいまいちだ。 だがそこまで言われてしまっては、こちらも引き下がるしかない。
 そのまましばらくの間、私達は黙りこくったまま空を見上げていた。
 ビルの立ち並ぶ都会の風景に、公園の分だけぽっかり空いている狭い空。
 これがあの広々とした草原と同じ空であることが信じられない。
「――憎くはないよ。哀しくなるだけ」
 囁くように微かな声で、彼は呟く。
 私は空から彼の金色に透ける髪へと視線を移した。
 少しだけ前に立っている彼は、決して私を振り返ろうとはせず、その深緑の瞳で空を捉えている。
「貴方は、孤独なのね」
 根拠はない。何となく感じた事がそのまま口をついて出た。
 ようやく彼がこちらを振り返る。少し、意外そうな顔をして。
「そうだね」
 不思議と柔らかな声で肯定して、彼は歩き出した。
 私はじっとその背中を見送り、再び空を見上げる。
 都会の空は、記憶の中よりずっと濁って映った。

 

 マリアはネスの姿を見つけるなり、空いている隣の席を指でかつかつと叩いた。
 そこに座れ、という事だ。 ネスとは違い人の目にも見える彼女は、公衆の面前で堂々とネスを呼ぶわけにもいかない。
「不景気な顔」
 雑誌に目を通しながら、彼女は顔を上げもせずにそんな事を言う。
「見てないのになんで解るの」
「遠目でも解ったわよ。暗雲引き連れてるような顔しているもの」
 ネスは指示された通りに彼女の隣に座った。
 マリアはカフェの特集記事を読みふけっている。次の待ち合わせ場所を考えているのかも知れない。
 ネスが拗ねた子供のようにテーブルに突っ伏したのを見て、彼女はようやく顔を上げた。
「そんなに嫌い?」
「大っ嫌いだ」
「あら、珍しく感情的」
 ネスは少しだけ首をもたげて、マリアを見上げた。
 彼女はその名に相応しい聖母の如き優しげな笑みを浮かべている。 しかし、ネスは彼女が見た目通りの聖人では無いことをとうの昔に理解していた。 どれほど清らかに振る舞っても、その口から漏れ出るのは時に悪魔の囁きである。
 実際、マリアは名前に不似合いな事に、吸血鬼なのだ。
 吸血鬼らしい所を見たことがないが、実際百年以上も全く老けないのだから人外には違いない。
「そりゃ、ね。僕だって、たまにはね」
「同族嫌悪かしら」
 ネスは再びテーブルに突っ伏した。
「最近ちょっと意地悪ですね、お姉様」
「事実を述べただけだわ。あ、このショコラ美味しそう!」
 雑誌のページを指さしながら、彼女はまるで年端も行かない娘のようにはしゃいでいる。
 彼女がこのカフェにいる客の中では間違いなく最年長であろう事実など、きっと誰一人思いもしないのだろう。
 ネスはそんなことを考えていた。 もちろん、話の主題には全く関係ない。
「――でも、彼女は僕とは違うよ、やっぱり」
 関係ない事を考えながら、ネスは話を本題に戻した。
 空を見上げれば嘘みたいに晴れていたはずの空に暗雲の陰が迫っている。
 通り雨か、それとも本格的に天候が崩れる前兆か。いずれにしてもまた雨が降りそうな気配である。
「マリア、僕はね、雨はそんなに嫌いじゃなかった」
 多分、当時は何もかも洗い流してくれるような気がしていたのだろう、とネスは遠い日々を思い起こす。
「何もない世界に行きたいって、あの頃は本当に信じていたんだ」
 耳の奥に蘇る雨の音は遠い昔の錆び付いた記憶。
 人間の世界は狭くて、小さくて、一つしかない。 ここから追い出されても、違う場所に行ける訳ではなくて、どこにも行けずに彷徨うだけなのだ。
 彼女の目は、少なくともまだこの世界に向いている。
「手遅れじゃ、ないと思う」
 ある意味で言えば、もうとっくの前に手遅れではあるのだが。
 ネスは起きあがった。
「マリア、本を貸して」
「あら、今来たばかりなのにもうご出勤?」
 茶化すように笑いながら、彼女はハンドバックから一冊の古びた本を取り出す。
 一見、アンティークな革張りの日記帳に見えるが、実は人の記憶や知識を好んで食べる魔物である。
「そう。ここからは僕の仕事。っていうか趣味?」
 ネスは本を受け取ると、席を立とうとする。 そんな彼の袖を、マリアが軽くつまんだ。
 そっと自分の方へと引き寄せて、手の甲に唇を寄せた。
「こんな事しても感覚がないのだったかしら」
 顔を上げて艶っぽい笑みを向ける彼女から、ネスは思わず顔を逸らした。
「感覚が無くてもそういう気分にはなるからあんまり驚かせないでくれない?」
「男の子だものね」
「はいはい、僕は男の子ですよ。実年齢が三桁越えていても僕らは男の子と女の子ですよ」
 少しだけいじけたような顔でぶつぶつと呟きながら、ネスは本を脇に抱え、ぎくしゃくした様子で歩き出す。
 数歩進んでから、振り返る。
「ありがと、マリア」
 彼女は微笑んでいた。
 優しくて綺麗で本物の聖母みたいだと、さっきとはまるで逆の現金な考えを抱く。
 誰にも見えないのをいいことに、ネスは緩んだ頬を隠そうともせず、雑踏の中へと身を投じた。

 

「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」

 降り出した通り雨は、私達の周囲に水の檻を作り上げた。
 空が私に「逃げるな」と言っているのかもしれない。
 唐突に聖書の一節を投げかけてきた張本人は、やはりこの雨の中でも髪の毛すら濡らすことなく、背筋をピンと伸ばして立っていた。
「僕はそんなの信じてなかったけど。信じなかったから、神様に愛されないのかなぁ」
 彼は、冗談でも言うような軽い調子で笑って見せた。
 私は、何の根拠もないけれど、突然彼が得体の知れない化け物のように思えてたまらなくなっている。
 今までも十分に謎の人物だったが、初めて彼に「恐怖」を感じた。
「ネス、どうして?」
 その言葉が何に対する問いなのかは自分でも判然としない。
 冷たい雨は私達を閉じこめる。 逃げ道はない。
「どうして? 言ったはずだ。僕は君に幸せな世界を見せに来た。でも幸せって一体何かな?」
 私の問いを、彼は目的に関するものと受け取ったらしい。
 そして、彼が逆に問い返してきた事に、私は答えることができなかった。

 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 聖書の一節を蕩々と語り、彼は不意に厚い雲に覆われた空を見上げた。 そのまま口をつぐみ、雲の行方を目で追っている。
 私は彼の視線に誘われるように、泣いている空へと目を向けた。
「天には大きな報いがある。神の教えはそう説いているけれど、実際どうかな。僕は天国にいけなかったから、解らないよ」
「天国に、行きたかったの?」
 少し怯えを含んだ声で、私は尋ねた。
 彼は何故か酷く驚いた様子で、こちらを振り返る。
「いや、ちっとも。言ったじゃないか。僕は神様なんか信じてなかったんだ」
 彼は少しだけ、困ったように眉を寄せて笑っていた。
 神様も天国も信じない。 だから幸せな世界には行けなかった、と彼は言う。
「貴方は、人間だったの?」
「昔はね」
「死んでしまったの?」
「死んだって言うのかなぁ。死んだとするなら一応、事故死になるのかな」
 ネスは手に持った本の角でこめかみの辺りを押さえつけながら、しきりに首を捻っている。
「別にどうでもいい事だよ。僕は天国に行く資格なんて無かったって事」
 少しだけ寂しそうな笑顔で、彼は続けた。
「満たされて死んだ人は天国に行く。満たされずに死んだ人は思いが強すぎて天国の扉を探せない。 ならば貧しい人のための天国はどこにある? 神様は誰でも救ってくれる訳じゃない」
「神様を信じないから、救いに気づかないのではなかったの?」
 聖書の教えを思い出しながら、考えていた。
 別に、私だって信心深い人間ではない。 でも、どこかで救いは信じていた。 幸せになれる世界はどこかに必ずあると信じたかった。
「確かに信じていれば、気づくのかも知れない。幸せな場所に行けたのかもしれない。でもそれって、気づけない人間には救われる価値がないって事なのかな?」
「それが、信じなかった罰なのではないの?」
 私や、ネスに救いが訪れなかったのと同じで、気づけなかったのが、信じられなかった事そのものへの罰なのではないか。
 だから、私は今も一人なのではないだろうか。
そう、思っていた。
「でも、本当は神様を信じられない人の方が、最後まで救いを求めているんじゃないのかな?」
 あっさりと言葉を返されて、私は言葉に詰まった。
「君にとっての幸せって、死んだ後にもたらされるものなのかい?」
 彼の声はあくまで優しく、私にはそれが恐ろしくすらある。
 雨は次第に弱まって、ビル街に囲まれた空は、少しずつ元の明るさを取り戻そうとしていた。
「だって、ほとんど人は死んだ後の幸せよりも、今この世界に幸せを求めながら生きているんだよ?」
 明るさを取り戻す空。
 雨の檻は少しずつ私を外の世界へと誘い出す。
 違ったのだ。この雨は檻じゃない。
 私の心が自分を慰めるために作った妄想こそが、檻だった。
「――私、不幸は電灯のスイッチみたいに、突然に辺りを真っ暗にするものだと思っていたわ」
 ネスは私の話を、ゆっくりと頷きながら聞いている。
 私は深く息をして、光の満ちてゆく空を見上げて、震える声を絞り出した。
「電灯のスイッチを探すことも、朝を待つこともできなかったの」
 小さなひとつだけしかない世界が真っ暗に染まった時、私は切実に別の世界に行く事を望んだ。
 私は望みを間違えたのだ。この世界をもう一度光で満たすことを、何よりも望まなければならなかったのに。
「そりゃあね、仕方ないよ。世界は希望だけでできているわけじゃないんだもの。幸せなんて人によって違うんだしね」
 光を満たす空の下で、彼は笑う。
 出会った時、一瞬だけ見せた優しい表情を見せていた。
 不思議な気分だ。
 彼は私の事を「弱虫」と言った。 私の事を断罪したいのだと思いこんでいた。
 違うのだろうか。 私の弱さを責め立てに来たのではないとしたら、彼はどうしてここへ?
「ユニス、僕は君を裁きにきた訳じゃないよ。それができるは、もしいるのだったらだけど神様か、君自身だけだ。 僕は神様を信じない。だから救いは神様が用意するものではなくて、自分で探しに行くものだと思っている」
 少しだけ風が出始めた。
 芝生に咲いたタンポポが、水滴を重たげに垂らしながら揺れる。 いつか行った草原の風を思い出した。
 ビル風ばかりが駆け抜ける街で、あの広い世界の面影を重ねることができるとは思わなかった。
 あの草原もこのビルに囲まれた公園も、同じ世界なのだ。
 遠いようでいて、あの場所は意外なほど私の近くにあったに違いない。
 たった一つだけの小さな世界で、更にちっぽけな私達は、ぶつかりひしめき合って生きている。
 その中にどれだけの幸と不幸が生まれては消えていくことか。

 メロディーが聞こえる。

 儚い音色で奏でるのは、やけに陽気な曲。
 小さな世界。

 It's a small world

 目の前に壮年の女性が立っていた。
 壮年、といっても、見た感じでは老人かと思うほどに老け込んでいる。
 白髪が混じってまだらになった、元は栗色であろう髪が風に弄ばれていた。
 彼女はオルゴールを手に持っている。 それが メロディーの正体だ。
 私は彼女を知っている。
「お母さん」
 私の声は、届かない。 こんなに近くにいるのに、何一つ。
 風の音に溶けるメロディー。
 彼女はそっとその箱を、私の足下へと置いた。 何も言わずその箱を少しの間見つめている。
 オルゴールは事切れるように演奏を止め、彼女はついぞ言葉を発することもなく踵を返す。
 小さな背中はどんどん私から遠ざかっていく。
「お母さん」
 もう一度呼ぶが、彼女はどんどんと遠ざかっていく。
 解っていた。 今更どんなに望んだとしても、既に終わってしまった事なのだ。

――私は、自らの命を終わらせたのだから。

 音の絶えたオルゴールを前に、私は座り込んだ。
 雲の割れ目から降りてくる光が、皮肉な程に綺麗だ。
 あれが天国への道だったら良かった。 もしそんな場所があったとしても、多分私は行けないのだけれど。
「ごめんなさい」
 溢れて出たのは、涙と、深い後悔と、やりきれない惑い。
 どうしてこうなってしまったのか。
 どうして、どこで?
 何を間違ったのか、何が不幸だったのか、何を求めていたのか。
 何も解らないけれど、これだけは知っていた。

 私はとても疲れていたのだ。
 眠って全て終わらせてしまえば、あの草原に戻れる気がした。

 少しでも草のあるところまでと思って公園に来て、お酒と薬を浴びるほど飲んで眠った。
 オフィス街のここならば、朝までほとんど人が来ない。 誰にも邪魔はされなかった。
 目が覚めても草原はなく、私の身体が冷たくなっただけで、世界は何一つ変わらなかった。
 終わりもなく、別の世界に行けるわけでもなく、私は生きている時と何ら変わらない孤独の中にいた。

 彼のいう通り、私は確かに弱かった。

――ごめんなさい

 強くなれなくてごめんなさい。
 幸せになれなくてごめんなさい 。

 遠く、既に見えなくなった背中に、心の中で呼びかけた。
 オルゴールを届けに来た、あの老人のようにやつれた母親。 あれが私の逃避の結果だ。
 別の場所へ逃げ出して全て終わらせられる事を望みながら、私がいなくなっても世界は何一つ変わらないはずだと矛盾した考えを抱いていた。
 それが私の弱さから生まれた、浅はかな幻想だった。
「天国ってヤツが実在するかは知らないけれどね、生まれ変わりってヤツはあるみたいだよ」
 ネスはオルゴールを拾い上げてネジを巻き始めた。
 流れ出すメロディー。小さな世界。
「僕はこれで結構長くこの世界にいるから、そういうのに会ったことがある。 だから次の命では、迷わないで済むように今から祈っておけばいい」
 不思議だ。 あんなに意地悪に見えた彼が、今は本当に優しく暖かな笑みを浮かべてそこにいる。
 彼は人間ではない。 突然現れては消えて、でも幽霊ではない。 結局ネームレスって、 一体どんな存在なのだろう。
 けれど、彼の正体が何であったとしても、それは既に些細なことだった。
「祈ったら、ちゃんとこの世界に戻ってこれるかな」
「戻って来ることはできるだろうね。でもその先は、君次第だ」
 この小さな一つだけの世界で、もう一度。
 今度はどんな光も見失わないように、歩けたらいい。
「ネスは、どうするの?」
「僕? 僕はずっとこのまま。ネームレスだもの。たた一つしかない世界に嫌われた僕には、どこにも居場所なんてないんだよ」
 にっこりと、わざとらしい笑みを浮かべて彼は深刻な内容をさらりと言ってのけた。
 私はしばらく訳が分からず、言葉を失う。
「生まれ変わるのではないの?」
 長い沈黙の後、ようやく吐き出した私の言葉を、彼は軽く笑い飛ばした。
「少なくとも君はまだ、誰かに必要とされていたんだろう。必要としていたんだろう。誰も必要とせず、必要とされないなら、それは存在していないのと同じだと思わない?」
「だって、そんな……」
「だから、君みたいな人間は嫌いなんだ」
 口では辛辣な言葉を吐きながら、彼は笑顔のままだった。
「みんな、ネームレスっていうのがどういう存在か解った途端に、急に同情するんだ。どうせ忘れるんだから、せめて笑って別れてくれないかな?」
 ネスは、どこから取り出したのか革張りの本を開いていた。
 ゆっくりとページをめくる内に、やがて何もかかれていない白紙が現れる。
「大嫌いだ、本当に」
 彼はやっぱり笑っている。
「さようなら。ありがとう」
 私の言葉に、彼はとぼけたように首を傾げた。
 オルゴールの音色は、ゆっくりと、今にも止まりそう。
「ありがとう」
 もう一度、呟く。 最後の音が哀しく響いた時、目の前は白く染まっていった。

 

 私は、この小さな世界で、もう一度幸せを探しに行く。
 天国ではなく、このただひとつだけの世界を愛しに行くのだ。

 最後の瞬間、微かに彼の声が耳に届く。

「僕の姿が見える人間なんていなくなればいいのにね」

 

 

「ネス」

 音を鳴らすことを止めたオルゴールの前で、彼はぼうっと空を見上げている。
 マリアの声など、まるで聞こえていないらしい。 彼女はもう一度、声を上げた。
「ほら、行くわよ」
「ねぇ、マリア、空を見てよ」
 うっすらと、ぼやけた虹が橋を架けている。
 都会の薄汚れた空で、それは今にも消え去りそうな輪郭もはっきりしない断片だった。
「綺麗だね」
「そうね」
 ビルの隙間で滲む七色。
 都会では珍しいその色に気づいて空を見上げているのは、今のところ二人しかいなかった。
 ゆっくりと世界は明るさを取り戻し、光の橋は幻のように消えていく。
「まるで、貴方みたいね」
 マリアの呟きに、ネスは微笑みだけを返した。
 無機質なビルの隙間から、見上げた空っぽの空に架かる虹。
 行く所もなく、現れては消える、誰にでも見えるわけではない幻。
「皮肉だよね。こんな風になるまで、僕はこの世界の何もかも、ちっとも綺麗だなんて思わなかったのに」
 マリアは屈み込んで芝生の上に置かれたオルゴールに触れた。
 ネジは壊れている。
 本当は、もうずっと前からこのオルゴールは壊れてしまっていたのだろう。
 きっと幸せを思い出しかった願いが、この箱に音を与えていた。
「仕方ないわ。だって、この世界は誰にでも幸せが訪れるようには、できていないんだもの」
 そして、悲しみの存在しない世界には喜びもまたないのだろう。
「マリア、もういいよ」
「今度はどこへ行くの?」
 くるりと踵を返し、ネスは考え込む。
 しばらくの間、口元に手を添えて。
「とりあえず君が歓声をあげていたショコラのあるお店まで、っていうのはどうかな」
 意外な答えだとでも思ったのか、マリアはきょとんとして目を瞬く。
「とりあえず目の前にいる人を幸せにしようかと思ったわけで」
「食べるのも私なら、お金払うのも私だわ」
 ネスはあらぬ方向をむきながら「えー、あー、うー」と正体不明のうなり声を上げる。
 マリアは彼の腕にそっと自分の腕をからめ、ひきずるようにして歩き出した。
「あのー、マリアお姉様?」
「私が幸せそうにしているの、見たいんでしょ」
 ネスは一瞬だけ目を丸くして、けれどされるがままに引きずられていく。
 結局、お互いにまんざらでもなかったりするのだ。
「マリアは優しいなぁ」
「ええ、優しいですとも。私以外の誰がネームレスなんかに百年以上も構ってやると思っているの」
 マリアは楽しそうにくすくすと笑う。
 ネスもつられて笑った。

 儚い虹は消え失せて、遠く公園の芝生には寂しげな様子でオルゴールが座っている。
 それは幸せを求めて見失った、彼女に捧げられた墓標だった。

 

 晴れ渡った空の下で、草原の少女は世界の歌を聴いていた。

 幸せの世界を探しに行ったのだ。

 

 

2005.5.15更新

原稿明け、一気に書き上げました。欝話。
更新が早かったのは「言の葉〜」と半分くらい同時進行で書いていたため。

これを書きながら「Nameless」シリーズをそろそろ終局に向わせようかと考えていたもので、ネスの発言が思わせぶり120%になってます。
でもあともうちょっとだけ続きます。あともうちょっとだけ思わせぶりです(笑)

話の内容についてはノーコメントで。 デリケートな問題ですしね。

ネスがこんなに「大嫌い」を連発するのは後にも先にもこの話だけなんだろうなぁ。

 

 

 

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