ひとかけらの罪悪

 

 あの日、俺が犯した罪を神様は許してくれるだろうか。

 

 誰にだって、他人に言えないような後ろ暗い過去の一つや二つ、持ち合わせている物だと思う。
 俺にもそれは存在する。
 何度忘れようと試みても、まるで呪いのようにつきまとう。
 思い出すたびにいつでも、過去に戻ってやり直せたらと無理な願いをかけたくなるのだ。

 

「随分と物騒な所にいるのね」
 確かに、物騒ではあるかもしれない。
 ロンドンの片隅もある人気ないビルの屋上、俺は今まさにその防護柵を乗り越えようと片足をかけたところだったのだ。
 念のため言っておくが、俺は自殺志願者ではない。 説得力皆無だが、本当にそんなつもりはなかったのだ。
 では何故こんな事をしているのかと言えば、自分でも明確な理由を答えることはできない。 ただ「何となく」この柵を乗り越えてみたくなったのだ。
「疑似体験なら他の方法をオススメするわ。本物の自殺者にはなりたくないでしょう?」
「あ、はぁ、そうですね」
 全くもってその通りだ。俺はすごすごと柵に掛けていた足を戻す。 突っ込まれてしまうと、本当に何をやっているのだか、と自分自身の行動に半ば呆れていた。
 失礼とは思いながらも、俺は声をかけてきたその女性をじっくりと観察する。 言い訳をするならば、目を瞠らずにはいられないほどに彼女が美人だったのだ。 赤みがかった淡い茶髪はなめらかに肩へ落ちて、意志の強そうな空色の瞳が白い肌の中で映えている。
 おまけにスタイルも良い。完璧ではないか。
「あの、どうしてこんな場所に?」
「自殺しに来たわけじゃないことは確かだわ」
  はぐらかされた。 そのまま彼女はくるりと踵を返して、下り階段へと足を運ぼうとしている。 その背中に、俺は最後の疑問を投げかけた。
「俺が自殺志願者じゃないって、何で解ったんですか?」
  あの状況じゃ、自殺しません、っていう方が嘘みたいだと思うのだけど。
 彼女は階段へ続くドアに手をかけて、一度だけこちらを振り返った。
「だって、貴方はネスが見えていないんだもの」

 

 もしかしたら、彼女は俺を裁きに来たのかもしれない。
 俺が今にも飛び降りそうなポーズで柵に足など掛けていたものだから、興ざめして去っていっただけなのかもしれない。
 そんな被害妄想が脳内によぎったのは、彼女と別れてその姿が階段の奥へと消えるのを見届けた直後だった。
 ネスとは誰だろう。死神か?  見えない俺はまだ死ぬべきではなかったとでも?
 散々、自分の思考をぐちゃぐちゃに引っかき回した後、この馬鹿馬鹿しい妄想に終止符を打った。
 何を考えているんだ俺は。少しは落ち着け。 空想と現実の境目が曖昧になっているんだ。どうかしている。
「彼女だってどうかしているよなぁ」
  ここがどこだか解っているのか。 人気ない奥地に建っている廃ビルの屋上、十二階だ。 当然、エレベーターなどといった気の利いた物は使用できない。 見える風景だって、ロンドン独特の霧に包まれたビルのぼんやりとした影ばかりだ。
 だからここは随分長い間、俺だけの場所だった。
 女一人、こんな場所に何の用だ。 まさか、彼女の方こそが自殺志願者で、先客がいたから場所を変えることにしたのではなかろうか。 そう考えると、何だか悪いことをしたような、最悪の事態がとりあえずこの瞬間だけでも避けられた事に安堵したような、複雑な思いが駆けめぐっては消えていく。
 もちろん、これも邪推と妄想の産物であって、馬鹿馬鹿しいことには変わりない。 少なくとも死神がどうしたとか考えるよりは、幾分現実的になっただけである。
「……もう、今日は帰ろう」
  本当に、今日の俺はかなりおかしい。
 何故かとても疲れた気分になって、俺は階段へのドアに手を掛ける。
  その時、特に理由もなく、ここを去っていった彼女と同じように、一度だけ後ろを振り返った。

――どうして?

 耳の奥、それは脳から滲んでくるように響いた。

――どうして、生きているの?

 冷たい汗が背筋を伝う。
 鼓動の音は体中を揺らして、駆けめぐる血が目の前を真っ白に染める。
 混乱していく意識とは裏腹に、手足は素早く行動を開始していた。 扉を開けて、今俺は階段を駆け下りているらしい。反響する足音がそれを告げている。
  階段を降りられるくらいなのだから目は見えているはずなのに、視界は世界を何一つ捉えていない。 白い世界にぐちゃぐちゃと闇が混ざり込んでいっただけだ。
 踏み出した足が空を切る。支えを失った胴体ががくんと降下する。白と闇の世界がぐるぐると回る。

 世界が、壊れる。闇に呑み込まれる。

「何やっているの、君は」
  気づくと先ほどの美女が、呆れたように俺をじっと見下ろしている。
「大丈夫? 派手に落ちたみたいだけど」
  言われて初めて、身体の節々が痛むことに気づいた。
 要するに俺は、階段を駆け下りる最中に足を踏み外して転がり落ちたのだ。
 真っ直ぐに見上げると、こちらを覗き込む美女の肩越しに、コンクリートで造られた壁が四方を塞いでいる。 明かり取りの窓から差し込む陽光が白の帯を作り、周りの灰色を一層暗く貶めていた。
 ぐちゃぐちゃに目の前を塞いでいたモノクロームは、今はただの息苦しい階段である。
「いってぇ……」
「でしょうね。頭打ったでしょ。病院行きなさいよ。救急車呼んであげましょうか?」
「遠慮します。ここ、一応立ち入り禁止のはずなんで。自分で行きます」
 身体を起こすと、左肩に激痛が走った。力が入らない。間接がはずれたかもしれない。 足首も捻ったのか少し痛んだが、歩けないほどではなかった。
「ネスもネスだわ。驚かせるような事したんでしょう」
  よろよろと手すりに無事な右腕をかけて立ち上がった俺を尻目に、美女はあらぬ方向に向けて話しかけている。
「不可抗力? 確かに、見えてはいないみたいだけど……、でも貴方以外にいなかったんでしょう?」
  わけの解らない事になっている。
 ぼんやりと思ったが、肩が痛すぎて深く考える事を脳が拒否している。頭も痛い。我ながら大丈夫か、俺。
 美女と虚無の一人会話は数分の間続いた。 立ち去るきっかけを見失った俺は、ただ見守るしかなかった。
 突如、彼女はこちらに険しい顔を向ける。どうやらひどく腹を立てている様子である。
「行きましょう」
  右腕をしっかりと掴まれ、女とは思えないほどの力で俺は引きずられた。
「あの、どこにですか」
「病院に決まっているでしょう! どうやら私達にも責任があるみたいだし」
「あ、いや、大丈夫です。俺が勝手に踏み外したわけですし。えーと、聞いてますか?」
  聞いていないに違いない。
 怪我人を気遣うつもりはあるらしく歩調はゆっくりとしていたが、彼女は立ち止まろうとはしなかった。 階段の途中で手を繋いだ状態だというのに逆らって止まろうとすれば、今度は彼女を巻き込んで転げ落ちそうだった。
 大人しく従うしかない。
 やがて階段を降りきって建物の外に出ても彼女は俺の手を離さない。 タクシーを止めると、先に乗るように促した。
「あの、本当に平気なんですけど」
「平気と言って、翌日にベッドの上で冷たくなっていた、なんて話をよく聞くわね」
「いやそうじゃなくて、気を遣っていただかなくても」
 彼女は無言でタクシーの運転手にカードを突きつけた。 そのカード、金色に輝いているのだが、俺が頭を打ったための幻覚だろうか。どこのご令嬢だよ。
「出来るだけ近く、できるだけ腕のいい病院に行きなさい。ほら早く!」
 痛みにぼんやりとしてきた視界の端で美女が勇ましく運転手に喝を入れている。
 見た目からクールビューティーなのだろうと空想していたが、案外強気で激情的なんだな。
 そう思ったところで意識は途切れた。

 

「僕のせいなの?」
  恨みがましい目つきで、彼はじっとマリアを睨んでいた。
「だって、貴方に驚いて転がり落ちたんでしょ、彼」
「でも、驚かすようなこと何もしていないんだけど。少なくともマリアが出ていってしばらくは僕に気づいていなかったし」
「確かに、誰か違う人がいたみたいよね、様子だけを聞くと」
  マリアは素っ気なく返す。
 目の前では一見の被害者たる青年が昏々と眠っている。
 頭部打撲は大したことなかったのは幸いだが、余程酷い落ち方をしたらしく、左肩は脱臼。足は軽い捻挫。他軽度打撲多々、という惨憺たる有様になっていた。
 確かに善良な一般市民にこれだけの怪我をさせたのだから、マリアが怒るのも無理はないかとも思うのだが、いかんせんネスとしても本当に何もしていないのだからどうしようもない。
「っていうかさ、この人階段の折り返しで止まればいいのに、勢い余って一階分丸ごと転げ落ちたよ。僕はその事にびっくりだ」
「……派手な音がしたと思ったら、そんな器用な落ち方したのね」
  どことなく寝苦しそうに眉を潜めている青年を見やり、マリアは呆れかえったかのようにため息をつく。
「とにかく、僕のせいだったとしても悪気はなかったんだって事は信じてよ。僕、もう一度あの建物調べてくる」
  閉まったままのガラス窓に手を掛け、半身を素通りさせながらネスはマリアを振り返る。
「もしかしたら、あの建物じゃなくて彼自身に憑いているんじゃないの?」
「それなら、私に見えないわけはないと思うのだけど」
「彼が落ちたのはマリアが行った後。かくれんぼが得意な種族なんて五万といるだろ」
  彼女はネスの、窓ガラスの向こうに突き出した顔をじっと見つめ、そして青年の寝顔へと視線を移す。 しばし考え込んだ後、こくりと頷いた。
「解ったわ。しばらく様子を見ておく。この私の目をくらませる奴なんて、本当にいるのだったらたっぷり血を搾り取ってやりたいわ」
  彼女の瞳の奥に、暗く凄惨な光が宿る。 ネスは慌てて窓をすり抜け、外の世界へと逃げ出した。
 三百年にも及ぶ悠久の時を渡ってきた吸血鬼の、本性が垣間見えた一瞬に背筋を凍らせる。 これなら本当に何か憑いていた場合よりも、自分が彼を驚かせてしまったのだという事にした方が後味が良かったかもしれない。
 マリアの静かな怒りの恐ろしさを前に、ネスは己の身の潔白を投げ打ちたい気分になっていた。

 

「おはようゴンベエ君。脳味噌無事で良かったわね」
 目を開けると美女は傍らに座って横になっている俺をじっと観察していた。ここは病院らしい。
 無機質な白壁の部屋、白いベッド。肩はしっかりと固定され、頭には包帯。所々に湿布薬。 階段から落ちただけなのになかなか情けない様相になっている。
 何故ゴンベエなのか(そもそもゴンベエとは何だ。どこの国の言葉だ)と考え、ようやく名乗っていなかった事実に思い当たる。
「えーと、それは良かったですゴンベエさん」
「名乗りなさいよ、普通に」
「エリアス・オリヴァーですよ」
「そう。私はマリアよ。困ったのよね。貴方を放って帰っても良かったのだけど、名前も解らないんじゃ身内も探せないし、後で詫びにもいけないでしょう」
  お詫びされるような事があっただろうか。 勝手に驚いて勝手に階段から落ちて、勝手に怪我をした自業自得だと思うのだが。
 むしろ、俺がタクシー代と共にお礼を差し上げなければいけない立場なのでは。
「あー、身内、いないんですよ。家族別居で、遠い所に住んでいる。ドーバー海峡越えなきゃ会えないです」
「あら、フランス? ドイツ? それともイタリア?」
「今はスペインです。マドリードにいます」
「私の故郷だわ、スペイン」
  美女――マリアはにこにこと笑った。 なるほど。確かにマリアという名はスペインの発音だ。
「大事をとって入院するか、通院にするか、好きにしていいそうよ。独り身なら不便だろうし入院しちゃったら?」
「通院でいいです。猫が家で待っているんで」
  猫の話が出た途端、彼女の表情が輝いた。 女子供というものは、大概小動物が好きであるようにできているものだが、彼女も例外ではないらしい。
「ねぇ、見に行きたいって言ったら迷惑?」
「別にいいですけど……。タクシー代と病院に運んで貰ったお礼くらいはしなくちゃいけませんし」
  ベッドから起きあがって、窓の外を見る。 どんより曇った空はすでに暗くなり始めていた。気絶している間に夕方となってしまったらしい。
 空模様とは裏腹に、マリアは上機嫌だ。
 俺は傍らに置いてあった荷物の中から財布を捜す。 医療費分が入っていただろうか。足りなかったらまずお金を用意しに行かねばならない。
「あ、貴方の治療代、私が代わりに払っちゃったわ」
  俺は鞄を探る手を止めた。
 ゆっくりと振り返り「はい?」と間抜けな声で問い返すと、彼女は女神のごとき微笑みで俺の瞳をじっと見返している。
「だって、いつ目を覚ますのかわからないし、勝手に荷物をあさるのも失礼でしょ? タクシー代とかも、別にいいわ。お金は持っているの、私」
  そりゃ持っているだろう。ためらいもなくゴールドカードを差し出すくらいだ。
 しかし問題はそこではない。
  つい数時間前に出会ったばかりの、それも先ほどまで名前も知らなかった相手に金を出させる理由がどこにもないのだ。 百歩譲って、俺の転落事故が彼女のもたらした災難だったとしても、そこまでしてもらう義理もない。
「本当に気遣っていただかなくて結構ですが」
「いいのよ。私の好きにさせなさい」
  俺は尚も反論しようと口を開いたのだが、何故か声にならなかった。 身体が自然に動いて、気づくと鞄のベルトを締め、医者に退院の許可を取っていた。
 おかしい。俺は彼女にこの件でのお礼を言って、お金を返さねばならないはずなのだが。
 言葉にしようとすると、喉の奥でひっかかるように声が出ず、次の瞬間には何と言おうとしたのかすら忘れるのだ。 頭を打ったせいだろうか。異常はなかったはずだが。
「さ、行きましょうか」
  マリアに促されて病院を出る。
 彼女はタクシーを止めて俺を乗せた。運転手に自宅の住所を告げる。

 これでいいのか?

 何処か釈然としないまま、俺と彼女を乗せたタクシーはロンドンの町並みを走り出したのだった。

 

 結局なんだかんだで自宅までのタクシー代もマリアが払ってしまった。
 自分で財布を出そうと考えたのだが、無事だった方の腕も筋をおかしくしたのだろうか、上手く動かなかった。 そうこうしている内にマリアがまたカードで支払いを済ませ、その後の反論は全て言いくるめられてしまったのだ。
 彼女の手のひらの上で踊っている気がするのは気のせいだろうか。 憂鬱な気分で、俺は玄関の鍵を開けた。
「ミスト、おい、どこにいるんだ」
  愛猫の名を呼ぶと、一人がけのソファの下から黒い尻尾がぱたぱた揺れるのが見えた。 やがてのそのそとそこから這いだして、こちらに寄ってくる。
 尻尾をピンと伸ばしゆったりと歩く様は、自分が王様だとでも言いたげだ。
  俺の足下にからみついて、喉を鳴らしながら身をこすりつけてくる。
「どうぞ、マリアさん。お茶くらい出しますよ。襲ったりしないから安心して下さい」
「怪我人にそんな心配しないわよ。押しかけたのは私の方だし」
  笑いながら彼女はミストを抱え上げた。そしてきょとんとした顔で毛並みを見つめる。
  ミストはミストで、突然見知らぬ人間に抱えられた 事に驚いたのか尻尾と耳をピンと立てて「ミャ?」と鳴き声を漏らした。
「そいつの毛色変わっているでしょう。道ばたで腹を空かせていたからうちでご飯をやったらそのままいついちゃったんですよ」
「あら……そうなの。ホントに変わった毛色、ね」
  ミストは黒猫だった。 ただ黒いだけではない。ほのかに緑がかった独特の黒い毛並みは、胸の辺りだけ白い斑点模様になっている。
 何故か拍子抜けしたような様子で、彼女はミストの毛並みを撫でていた。
「素敵な子だわ。賢いでしょう」
「えぇ。こいつ家中の扉を自分で開けるんですよ。どうやっているんだか。玄関先まで忘れた財布くわえて追いかけてきたこともあったなぁ」
「そうでしょう。この毛並みの猫は賢いのよ」
 彼女の故郷ではそんないわれがあるのだろうか。随分と自信ありげにそんな事を言う。
 確かに、実際ミストは随分と頭の良い猫だ。
「そこのソファに座っていて下さい」
「あら、私がやるわよ。片腕で紅茶淹れるの大変でしょう」
  彼女の申し出を俺は丁重に断った。さすがに何から何まで世話になるのは気が引ける。 どうせしばらくは片腕生活なのだから練習と思う事にしよう。
 やがて紅茶のカップを持ってダイニングから戻ると、ミストはマリアの膝の上で座っていた。 緊張したようにぴしりとした姿勢で座っている様子は、懐いているというよりは服従している、といった風情だ。
 ミストの気持ちも分からないでもない。 マリアには反論を許さない気迫と気高さが備わっている気がする。
 微笑む美女に底知れない何かを感じ、俺は密かに身震いした。

 

 夜の路地裏には、猫と鼠と人ならぬ者が住んでいる。
 存在をもたない名無しと美貌の吸血鬼、更に二足歩行の猫がいたとしても、それは全く不思議な光景ではないのである。
「うにゃー、吸血鬼と名無しが揃ってオイラに何の用にゃ!」
  猫は後ろ足の肉球をぴたぴたと地面に打ち付けている。 幼い人間の子供が駄々をこねている仕草にも似ていた。
 ネスはそんな彼の鼻面を指で弾いた。猫はよたよたと後退し、長い尻尾を振り回して体制をなんとか持ち直す。
「痛いのにゃ! 偉大にゃる猫の王にこんな仕打ちをするなんて乱暴者のひとでにゃし!」
「僕はどうしてケット・シーが人間の飼い猫になってるのか知りたいんだけどさ」
  呆れたようなネスの呟きに、どこをどう勘違いしたのか猫――ミストは得意げにピンと伸びたひげを前足の肉球で撫でる。
「えりあすはにゃかにゃか見所のある奴みょ。ネコ缶に小魚を混ぜたり、オイラの専用のベッドを温めておいてくれたり、ノミ取りができる首輪をくれたりと、気が利く奴にゃ」
  ネスとマリアは互いに顔を見合わせ、ほぼ同時に深いため息を吐いた。
 気高い猫の王、ケット・シーであるミストだが、少なくとも精神年齢は人間でいうところの幼児レベルである。
 二人が思い起こしていたのは、彼と同じように人語を解することが出来た黒猫のことであった。 最も、その黒猫――ジャックは、前世の記憶を引きずった人間の魂が入っていただけで、ミストとは違い正真正銘ただの猫だったのだが。
 憎まれ口ばかりのいけ好かない性格をしていたあの猫が、今の彼らには懐かしい。
 先ほどからこの調子で、なかなか会話が本題へと進まないのである。
「僕が聞きたいのはさ、君がどうやって懐柔されたかじゃなくてね? 何故、彼に興味を持ったのかってことだ」
「魚の匂いがしたからにゃ。でもいにゃかったにょでネコ缶を食べたみょ」
  ミストの言いたいことを正しく理解するために、二人は数分を議論に費やした。
「つまり、魚を持っていなかったのに魚の匂いがしたから気になった、と?」
「えりあすには魚がついてるにょ。だからいい匂いみゃ。でもおかげで時々酷い目にあうにゃ」
  要点を得ない話に苛立ちつつ、ネスは「それで?」と続きを促す。
「オイラ、できるだけ助けるようにしてるにょだけど、あの魚にゃかにゃかしつこいにゃ」
「魚の魔物に取り憑かれているのね」
  ようやく話の全貌が掴めたマリアが口を挟むと、ミストは尻尾の毛を逆立てながら憤慨した。
「さっきからそう言っているにょ! お前ら理解力が足りないにゃ!」
 マリアの表情が凍り付く。
 ネスは背後にただならぬ冷気を感じた気がして、そろそろと彼女の道を空けた。
 ミストの目の前を明け渡された彼女は、不遜な猫の首根っこをひょいとつまみ上げる。
「お黙りなさい。貴方、飼い主を助けたくないの? その長い尻尾で魔物が倒せるっていうなら話は別だけど」
  マリアの迫力に気圧されて、一瞬ハリネズミのように毛を逆立てたミストは、次の瞬間には力無く手足と尾をだらりと地面に向かって投げ出した。
 しばらくの間、所在なく尻尾を泳がせていたが、やがて自慢のひげをヒクヒクとさせながら小さな声で呟く。
「えりあすを助けてくれるにょ?」
「その気がなければこんな所で話し合いをしていないわ。理解力が足りないんじゃないかしら」
 嫌みを返されてしょんぼりとしたミストを、マリアはようやく解放した。
 とりあえず彼女の溜飲はこれである程度下がってくれたらしい。 内心、胸を撫で下ろしながらネスはうなだれるミストの喉を撫でた。
「あの廃ビルには何もなかった。上手く隠れているけど、彼本人に憑いているので間違いないと思う。僕はマリアと違って魔物は何でも見える訳じゃないし、確実とは言えないけど」
「でもネスが見えないなら幽霊じゃないのは確かよ」
  ネスは黙って頷く。 フタの閉まったゴミバケツの上に腰掛けると、機嫌が直ったのか喉をごろごろと鳴らし始めたミストを膝の上に抱いた。
「マリアは正体に予想がついたのかい」
「多分、セイレーンよ」
 思ってもみない答えだった。
 ネスとミストは怪訝な顔をして、ほぼ同時に眼前の美女を見る。
 セイレーンと言えば、海に住まい、美しい歌声で船員を魅了して船を海に沈める人魚の姿をした魔物である。
「本物のセイレーンとは違うわよ。あれは海にしかいない種だわ。でも、ライン川のローレライとか、類似種は結構いるものよ。水に上がって進化したのもいるでしょう。吸血鬼の私だって昼間出歩けるのだもの」
  この説明に、ネスは静かに深く納得した。
  何くわぬ顔で教会に入り祈りを捧げ、ガーリックバターをたっぷり使ったトーストをワインと共に嗜む吸血鬼を前にすれば、地上を出歩く人魚くらいはいて然るべきである。
「しばらく様子を見るわ。ここまできたんだから協力なさいよ?」
  改めて睨み付けられた一人と一匹は引きつった笑みを浮かべながらおずおずと頷いた。

 

――どうして生きているの?

 あの日以来、何度も聞こえる声。
 俺が生きている事を、責め続ける声。
 俺の犯した罪を、裁く声。

 

 大学とアルバイトは休んだ。
 怪我の事もあるが、何より今朝方から頭が痛くて仕方がない。 もう一度病院に行った方が良さそうだ。
 足下ではミストがジーンズに爪を立てて何やらみゃぁみゃぁと騒ぎ立てている。 俺が調子の悪い時に限って騒ぎ立てるのは、もしかすると心配してくれているつもりなのかもしれない。
「今、ミルク温めるから待っていてくれよ」
「そうじゃにゃくて!」
  一瞬、第三者らしき舌足らずな声が混ざった気がして、俺はミルクから目を離して部屋をぐるりと見回した。
 当然ながら、一人住まいのこの家で、他人の声がするはずもない。
  ダイニングキッチンに戻ると、ミストがいたずらをして叱られた後のように尻尾をくるりと丸めて隅っこで丸まっていた。
「何しているんだよ、お前」
  最近の俺はどうかしている。 昨日、散々そう感じたばかりだが、こいつはこいつでやっぱりどうかしている。
 人肌に温まったミルクを彼専用の器にあけて、床をこつこつ指で叩くと、ようやく彼はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。 夢中でミルクを舐めている彼の頭を指で撫でながら、俺は深いため息を吐く。
 ふと昨日出会ったマリアを思い出した。
 美人で不可思議な雰囲気で、こんな事を言うのは大変失礼だがただならぬ威圧感を持っていた。 自分でも何故こんな風に思うのか甚だ疑問だが、まるで人間ではないもののように感じたのだ。
 とりあえず、痛み止めを飲んでさっさと病院に行こう。 薬箱の中をあさっていると、ドアベルが甲高い声を上げて俺を呼びだした。
  正直に言うと決して友人は多い方ではなく、近くに身寄りもいないこの俺に、連絡もなくいきなり訪ねてくる人物に心当たりがなかった。 セールスか、アパートの大家か、どちらか二択だろうとドアスコープを除くと、レンズ越しに空色の瞳をした美女がにっこりと微笑んでいる。
「……マリア、さん?」
  慌ててドアを開けると、彼女はじっと俺の頭の少し上あたりを、驚きを含んだような瞳で見上げている。
「ねぇ、エリアス君。頭痛くない?」
「何で解ったんですか? 頭痛が酷くてこれから病院に行こうとしていたんですよ」
「ミストがすごい騒いでいたでしょ」
「どうしてそれを。ひょっとして外まで鳴き声漏れてました?」
 彼女は涼しげに微笑みながら「そんな所ね」と曖昧な答えを返した。
 立ち話をするのも難なので、と家に入るように勧めたが、彼女は首を横に振った。 たまたま近くを通りがかったので、寄ってみただけなのだという。
「タクシー呼んであげましょうか」
「いいです。あんまり世話になるのも難ですし、少し外の空気を吸いたいので」
  即座に断ると彼女は少しばかり不満げに眉根を寄せた。 どこのお嬢様なのか知らないが、金持ちの基準はよく解らない。
「マリアさんて、本当に不思議な人ですね」
  思わず俺の口をついて出た呟きに、彼女は笑顔を返す。
「当然よ。だって私、魔女だもの」
  突拍子のない答えに思わず「はい?」と聞き返すと、もう一度同じようにくり返す。
「魔女なのよ。貴方を魔界に引きずり込むかもしれないわよ。気を付けなくちゃ」
 妙な冗談を言う人だ。 一瞬だけど本気にしかけてしまった自分もどうかと思うが。
 断りを入れて身支度を整えて戻ってくると、玄関先まで来た時点でミストが足下をちょろちょろと歩き回り始めた。 隙あらばとジーンズに爪を立ててしがみついてくる。その度にゆっくりと引き剥がしてやるのだが、またすぐに飛びついてくる。
 片腕が満足に使えない事もあって、攻防は一進一退である。
「ミスト、今日はどうしてそんなに聞き分けがないんだよ」
「連れて行ったら?病院にいる間は私が預かっていてあげるわよ」
 断ろうと思う間もなく、マリアはすでにミストを取り上げ抱きかかえていた。
 外に出ると、ロンドン独特の湿った空気が身体を包み込む。 不思議と頭痛が少しだけ治まった気がして、俺は一息をついた。
 アパートの裏手、川沿いの道をゆっくりと歩く。車の音に混じって時折渡り鳥の声が聞こえた。
「私は魔女だってさっき言ったわよね? 占いだってできるのよ。エリアス君の事も見てあげましょうか」
 どうやらあの冗談はまだ続いているらしい。
 頭痛が幾分か軽くなったおかげで少しばかり心に余裕を取り戻していた俺は、彼女の冗談に付き合うだけの愛嬌も出てきていた。
「例えば、どんな風にですか?」
「迷っている人がいたら、自分の用事があったとしても目的地まで送っていってあげるタイプね」
 当たっている。が、しかしそれは占いとは言わない。性格分析だ。
「もっと驚くような事はできないんですか。魔女なんでしょう」
「あら、できるわよ。貴方の過去を暴くことだってできるんだから」
 一瞬、俺はぎくりとして立ち止まった。
 冗談の続きなのだと解っている。それなのに、一瞬背筋を駆けめぐったのは紛れもない「恐れ」だった。
 絶対的に敵う事のない捕食者を前にした小動物の気分になる。 それは、彼女と初めて出会ったあのビルで感じた恐怖だ。

――俺を裁きに来た、絶対的な存在。

「ねぇ、昔、水場で事故に遭ったことがあるでしょ」
「どうしてそれを?」
 ミストを抱えて軽い足取りで歩く彼女の後を、俺はぼんやりと義務的に追いかけていた。
「解りますとも。ねぇ、その時の事で、何か人に言えない秘密があるでしょう」
  彼女は建物と建物の間の狭い路地に入っていく。 俺はただ、為す術もなくそれを追っていく。
 治まっていた頭痛がまた始まった。 頭の芯を刺すような痛みが、ただでさえ混乱している思考の邪魔をしていた。 耳の奥を血が駆けめぐる音がうるさい。
 心臓がひとつ脈打つ度に、血が作り出す奔流の音と鋭い痛みが身体を貫く。
 そしてまた、あの声が。

――どうして、生きているの?

 視界が、白く染まる。

「やれやれ、こんな用途でこいつを使うとは思わなかったよ」

 溺れそうなくらいに鳴り響く轟音の中で、奇妙に冷めた少年の声が聞こえた気がした。

 

子供時代を過ごしたあの田舎町。嵐の日のこと。
俺は妹と二人で川沿いの道を走っていた。
「お兄ちゃん、戻ろうよ!」
レインコートが役に立たないくらいの大雨で、風も強かった。
「俺たちが頑張って作ったんだぞ!モニカは家で待っていればいいだろ」
 川沿いの木に、父さんに作り方を教わって、二人で作った鳥小屋。 親に内緒で様子を見に行こうと言い出したのは俺の方だった。
 この風雨でとばされないか心配になったのだ。
  外に出たら予想以上の嵐でモニカはすぐに消極的になったが、俺は気にしなかった。 結局二人で川の近くまで、雨風に身体を揺らすその木の元まで来てしまった。
 留め方が悪かったのか、造りが悪かったのか、鳥小屋は壊れてしまっていた。 一部分を残してなくなっている。
 声を上げて泣くモニカの手を握り、俺は帰り道を歩いた。 風はますます強くなって、道路は泥でぐちゃぐちゃだった。
 川の水は唸りを上げて、泥の色をした恐ろしい生き物のように見えた。
 橋を渡って砂利道を行けば、家が見えてくる。まだ泣きじゃくっている妹の手を引きながら、俺は鳥小屋を作り直す事ばかり考えていて、周りに注意を払うことを忘れていた。
「お兄ちゃん、アレ!」
 モニカが指を指す。 その先には飛ばされた鳥小屋の残骸が引っかかっていた。彼女がペンキを塗った屋根の部分だ。
 川べりだったが、俺は何も考えずにそれを取りにいくことにした。
 今思えば、雨がやんでから父さんに頼むべきだったし、せめてモニカには安全な場所で待っていてもらえば良かったのだ。
 細かい事に気を回すには俺はまだ幼稚で、モニカは甘えん坊で一秒でも放って置かれる事が嫌な性質だった。
 川べりで足を滑らせて転落したモニカを、引き上げようと思う間もなく俺も水にさらわれていた。
 あの荒れ狂う水の中で、一体どうやって助かったのか。
 断片的な記憶をつなぎ合わせて思い出せたのは、何かに必死になってしがみついていた事と、泥水の中でモニカの姿が見え隠れしていたこと。
 そして、こちらに向かって手を伸ばしていた――少なくとも俺にはそういう風に見えた――小さな手。
 一瞬の事だった。
 手を伸ばしたら届いたのかもしれない。 引き寄せられたのかもしれない。
 荒れ狂う川の水。小さな手はもう見えない。
 それどころか、自分の身体がどうなっているのかもよく解らない。
 冷たい、苦しい、怖い、痛い。
 身体と心の感覚がぐちゃぐちゃに混ざりあって、どうしていいか解らなかった。
 水の音。
 全てを呑み込んでいく。
 こんなに酷い音がしているのに、俺の耳にははっきりとその声が聞こえた。

――私を見殺しにしたね?

 気づいたら病院で、事故からは三日経っていて、何も考えたくないのにうるさいくらいに事情を聞かれた。
 母さんが、モニカが見つかっていないと泣いていて、父さんが黙って俺の手を握っていた。
 どうして俺だけ生き残っているんだろう。
 どうして妹は帰って来ないのだろう。
 どうして、どうして、どうして。
 あの時手を伸ばしたら、助けられたのか。 そ もそも、鳥小屋を見に行く事を諦めていたらこんな事にはならなかった。
 俺のせいで、モニカは水にさらわれてしまった。
 眠れば必ず闇の底からあの手が現れて、俺の事を呼ぶ。

 人殺し。
 どうして生きているの?

 どうして一緒に沈んでくれないの?

 

「盗人猛々しいなぁ、もう」
 あれほど唸りを上げて俺を包み込んでいた音が、突然ぴたりと止んだ。
 昔の、哀しくて辛い夢を見た気がしたのだけど、何故か思い出せない。 記憶がそこの部分だけ、すっぽりと抜け落ちてしまったみたいだ。
 辺りは真っ暗で、ここがどこなのかも解らない。
 解るのは俺が地面に無様な姿で転がっていて、革張りの古めかしい本を手に取った少年がすぐそばに立っているという事だ。
 俺よりかは年下だろうか。飾り気のない黒い革靴とスラックス。 白のシャツはしまりなく首もとを緩め、ネクタイは首にひっかけているだけだった。
 淡い金髪と鮮やかな碧の瞳はこちらを見下ろしている。
 闇色の中で、上半身だけが浮かび上がっているように見えた。
「あ、今は僕の事が見えているみたいだね。それじゃ、自己紹介をしておこうかエリアス。マリアの言うネスとは僕の事だよ」
  ぼんやりと霞がかかった意識の中で、俺は心当たりの名前を探した。
「……階段から、落ちた、時の?」
「そう。君に憑いていたかくれんぼ好きなお魚さんのおかげで、マリアにあらぬ疑いをかけられたネス君ですが、何かご質問は?」
「……魚って?」
 話が見えない。 マリアといい彼といい、どうして不可解なことばかり話すのだ。
 ネスは軽く笑い飛ばしながら、寝ている俺にも見えるように本を床に置いた。
 ぴしゃり、と水滴が顔に飛ぶ。本の紙面から、魚の尾ひれが飛沫を跳ね上げては沈んでいった。
「この魚は君の記憶に食いついていたんだよ。僕は釣り人で、この本は釣り竿、そして餌が君の罪悪感」
 彼の言うことの意味が、俺にはちっとも理解できなかった。
 本の中で、魚はまだ跳ねている。もっとよく見ようと思うのだが、身体に力が入らなくて起きあがることができなかった。
「言い方を変えようか。君は罪を犯した。罪って言うのは酷な気もするけど、君に責任の一端があったのは事実ではあるね。それを見込んで、この魚は君の罪悪感に取り憑いたんだ」
「……何故?」
「さぁ。水に引きずり込んで仲間を増やすつもりだったのか、食べるつもりだったのか。とにかく君を殺そうとしたわけだ。声が聞こえたろう?」
「あれは妹が……」
「魚が作った幻覚だよ。この本は記憶を喰う魔物でね。君の罪の記憶をこの魚ごと喰わせてみたわけさ。魚は消化できなかったみたいだけど」
 頭が痛い。 脳みそをかき回されているみたいだ。
「十年も憑いていたものを引き剥がしているんだから、痛むのは仕方ないさ。この魚を完全に引き剥がせたら、ちゃんと記憶は戻してあげるから安心しなよ。悲しい記憶でも、無ければ不便なものさ」
 ごぼごぼと、水に沈んでいく音。 目の前をちらついている魚の鱗。
 朦朧とした視界の中、どことなく不愉快そうに眉根を寄せているネスがゆっくりと本に手を伸ばす。
「往生際が悪いなぁ。いい加減に昇天してくれないと、僕がマリアにどやされるんだからさ!」
 魚の揺らめくそのページを破り取って、彼はぐしゃぐしゃにちぎり始めた。
 白いページの紙ふぶきと共に、鱗の破片も散らばっていく。

 次の瞬間、俺の目の前は濁流に支配されていた。
 消えていたはずのあの感覚が戻ってくる。

――冷たい、苦しい、怖い、痛い。

「あ! やばっ!」
 微かに聞こえたネスの呟きは、轟音に呑み込まれて消えてゆく。
 凍り付きそうなほどの冷たさと、引き裂かれるような痛み、汚れた水の中で伸ばされた手が見える。

 モニカが、沈んでいく。
 あの日の記憶。 見殺しにしたあの瞬間で、時間が止まる。

――どうして?

 声が聞こえる。
 幼くして沈んでいった妹。か細い声で俺を呼んでいる。

 

「どうして、生きてくれないの?」
「……え?」
 その声が聞こえた途端、あれだけ鳴り響いていた水の音は引き潮のように去って、開けた視界にはなかなか愉快な光景が広がっていた。
「みゃ! 目を覚ましたみょ!えりあすが生き返ったにゃ」
 ミストがまるで人間のように後ろ足二本で立ち上がって、ぴょんぴょんと跳ね回っている。
「ネスも酷いにゃ。計画は完璧とかいっておいて、えりあすがショック死したらどうしてくれるにゃ!」
「ごめんごめん。あんまり魚がうるさかったからつい抹殺したい気分に。反省しているから!」
「まぁ、結果無事に戻ってきたんだからいいじゃない?」
 肩が痛い。それもそのはずで、脱臼した方の肩を下にして、俺は地面に転がっていたのだ。
 辺りは闇ではない。先ほどマリアに連れてこられた路地裏だ。
「何が、どうなっているんだか……」
 ネスはきょとんとしてマリアを見る。 マリアはミストへと視線をやる。
 ミストが視線を送った先、俺の後ろに彼女はいた。
 耳のあるはずの場所にヒレがあって、腕や首筋には翠色の鱗がきらめいている。 絵本の中にいる人魚ような姿をしたその少女の顔に、俺は覚えがあった。
「やっと気づいてくれた」
「……モニカ?」
 俺が呟いたのは、妹の名だった。
 あの日、濁流に呑まれたままついに帰ってくることはなかった。遺体さえも見つかっていないモニカ。
 彼女が生きていたら、ちょうどこれぐらいの年頃だろうかと思う。
「そうか。十年も魚に憑かれてよく今まで生きてこれたと思ったら、ずっと君が魚の邪魔をしていたのか」
「えぇ。私、まだ魔物になって日が浅いから一人じゃお兄ちゃんを守りきれなくて、だから昨晩の相談を聞いて、魚が外に出やすいように仕向けてみたの。ありがとう、マリアさん、ネスさん」
「本当にモニカなのか?」
 俺は信じられない気持ちで、目の前にいる人魚とマリア達とを見比べる。 確かに面影はある。が、俺の妹はただの人間だったはずだ。
 マリアが呆れたように歩み寄って、俺の額を軽く小突く。
「水害で亡くなった人の魂が、たまに精霊や妖魔を取り込まれて魔物になるなんて伝承は探せばそこら中に転がっているわよ」
 言われてみればそんな伝説は方々に散らばっている。 しかし、それはあくまで伝説であって、実際自分の妹がそうなりましたと言われて納得できる種のものではない。
 それ以前に、何故ミストが二足歩行で人語を話しているかも解らない。
 でも、これが俺の馬鹿げた夢ではないのなら、言わなくてはいけない事があるのではないか。
「ありがとう、モニカ」
 何に対してそう言いたかったのだろう?
 彼女が俺の事を恨まないでいてくれた事なのか、ずっと助けてくれていた事なのか。
 きっともう、どちらでも良かったのだろうけど。
「もう、大丈夫だからね。ちゃんと生きていてね」
 ずっと怯えていた。
 俺は人殺しで、恨まれて当然で、いつか神様に裁かれるだろう、と。
 だけど生きている事が許されるなら。
 生きて、人生の歓びも哀しみも全て知る事ができた頃には、俺はモニカに笑って会いに行けるだろうか。
 あの日の無力な自分の罪を、許してやる事ができるだろうか。
 きっとこれからも、俺は水辺を見るたびにあの悲劇を思い出すのだろうし、その度に後悔が心を満たすのだろうけど。
 償いならば生きてするべきだ。
「そうにゃ!えりあすはもっと堂々とするみょ!」
 舌ったらずで陽気な声に俺はのろのろと後ろを振り返った。
 前足を腰に添え、尻尾をくねくねと揺らしながら胸を張っているミストがいる。 自信に満ちあふれたその姿は傍目には滑稽にしか見えない。
「そういや、何でお前は立って歩いて人間の言葉話しているんだ?」
「ウニャ!?」
  ミストはバンザイのポーズを取って、その場でぱたぱたと後ろ足と尻尾を地面に打ち付けた。
「にゃ!にゃ!忘れるにゃ!えりあす、これは夢にょ!」
「……愉快な夢、だな?」
 弁明をくり返す程に動きがコミカルになっていき、確かに夢と言われても納得できそうな現状なのだ。
 しかし、夢ならこの肩の激痛は消えてくれないものだろうか。
「どうする?この本にまた記憶を喰わせてもいいけど、多分モニカの有り難いお言葉も一緒に食べられちゃうよ?」
 ネスは苦笑いを本のページをめくっている。 ミストは混乱してタップダンスのような動きで飛び跳ねている。
 そんな二人を横目に、モニカとマリアが困ったように互いの顔を見合わせた。
「もう、仕方がないわね。私がやるわよ」
 やがてため息混じりに近づいてきたマリアは、呆然としている俺の手を、あの魅惑的だがどこか威圧感を与える有無を言わせない笑みを浮かべて握りしめる。
「ごめんね、嘘をついたわ。私、本当は魔女じゃなくて吸血鬼なの」
 握られた手が急に焼けるように熱くなって、次の瞬間には視界がすっと白く染まった。
「さようならね。良い夢を」
 薄れていく意識の中で、最後にそれだけが耳の奥に漂っていた。

 

「それじゃ、自分がどうしてあんな所に倒れていたのか全く覚えていないんですね」
「はい。酷い頭痛で、病院に行こうと家を出たのは覚えているんですけど……」
「不思議がっていたんですよ。外傷が見あたらないのに重度の貧血状態で……。昨日の検査では異常はなかったのに」
 気が付いたら病院にいた。
 昨日怪我をして運び込まれたのと同じ病院で、路地裏で倒れているところを通行人に発見されたらしい。
 病院に行くのに近道にもならない路地裏を通った理由は、自分でも覚えていないので想像に頼るしかない。
「まるで吸血鬼の仕業みたいって、みんなで話していたんですよ」
 手のひらには赤い斑点状のあざがいくつも出来ていた。 これについても原因は不明とのことだ。
 これだけ不可解な事が重なれば、空想上の生物に原因を求めたくなるのも頷ける。 基本的にイギリスの人間は幽霊などのオカルトなゴシップが大好きなものだ。
「入院ですよね……。まいったな、飼い猫の面倒が……」
「そうですね。数日は安静にしていただかないと。もう一度検査をしなくてはなりませんしね」
 そういえば、気絶している間に随分と長い夢を見た。
 詳しい内容――特に後半の方はさっぱり覚えていないのだが、嬉しいものだった。
 十年前、水の事故で死んだ妹が、人魚になって俺に会いに来る夢。
 ずっとずっと、弱くて不甲斐ない俺を見守ってくれていた夢。
「夢――だったのかなぁ」
 本当だったらいいな。
 それなら俺は、水辺を通る度にあの日の哀しみだけではなく、懐かしさも感じることができるだろう。

――本当だって、信じてもいいかな?

 

 電話のベルが鳴る。
 数回のコールの後、壮年の女性が応対に出た。
「そちらオリヴァーさんのお宅でよろしかったでしょうか」
 聞き慣れない女の声に、受話器の向こうで不審がっている様子が伝わってくる。 しかし、臆することなく続きを口に出した。
「息子さんが急病で入院したんです。病院の名前は――えぇ、そうです」
 怪我もしていること、命に別状はないことを伝えた後、彼女は最後に付け加えた。
「あとこれは貴方もよく知る方からのご伝言です。彼の所へ行ってあげてくれませんか。家族にしかできない事です。彼はずっと……」
 それこそ、何よりも切実に。
「ずっと、誰かに許してもらえるのを待っているんです」

 

「これでいいでしょ。貴方が騒ぐからこうしたのに、全く注文が多いわねぇ」
「やりすぎにゃ!えりあすが倒れたのはまりあのせいにょ!」
「一度気絶してもらわないと不都合でしょ?ついでに私の事も忘れさせなくちゃだったし」
「少しは手加減というものを知るにょ!」
「うるさい!貴方の不始末に私がそこまで気を回す義理はありません!」
 言い争いは続く。
 ネスは放置を決め込んで、近くをぶらぶらと歩き回っていた。
 ラジオの音が聞こえる。 ニュースは先ほど入ったばかりの情報を発信していた。
  河岸工事の現場にて、七歳前後と思われる子供の白骨死体が発見された。 かなり古いもので、警察では身元確認とDNA鑑定を――
「魚がいなくなったから安心して浮いて来たのかなぁ」
「人間の身体はもう必要なくなったからじゃない?」
 いつの間にかケンカは終わったらしい。マリアが後ろを歩いていた。
「ミストはエリアス君が退院するまで適当に暇つぶししてくるって」
「気楽な猫だなぁ……」
 否、元来猫とは気楽な生き物である。
「こんな面倒はしばらくごめんだわ。モニカちゃんが上手い事魚を引きずり出してくれたから、上手く捕まえられたけど」
「そうだね。まぁ、彼女も色々あったみたいだしねぇ」
 モニカは、エリアスが病院に運ばれたのを見届けてから、水の中へと帰っていった。
 彼はもう、魚に憑かれる事はないだろう。 マリアに伝言を頼んだ後、川面から顔を出して彼女は言った。

――本当は、少しだけお兄ちゃんを恨んでいたの。

 あの魚は、初めは幼いモニカの心に憑いたのだ。
 一人助かった兄への歪んだ感情が、彼の心に魚を住まわせる事になる。
 そして、モニカはあの魚と共に彼の人生を見てきた。
 取り返しのつかないひとつの罪悪に怯え、しかし逃げようとはしなかった少年の想いを。

 人は罪を重ね生きていく。いくら償いをしても、犯した罪は消える事はない。
 誰に許されても彼の妹はもう戻らない。 どれだけ時が過ぎても、永遠に。
 彼はこれからも罪悪を胸に秘めたままに、生きていかねばならない。

 兄と共に歩んだ十年の中で彼女もまた知ったのだ。
 償いを探していた彼が、何よりも妹の魂の安らぎを願っていたと言う事を。
 それに気づいた時から、彼女にとってあの魚は恨みを分かり合う友ではなく、兄を苦しめる悪魔になったのだ。

 道は橋にさしかかった。 眼下を流れる川は、穏やかに海へと水を運んでいく。
 全てを包み込む大きな水へと旅をするのだ。

「何はともあれ、幸せに向って歩き出せたのなら何より、じゃないかな」
「貴方は幸せに向う気はないわけ?」
 マリアの言葉に、ネスはきょとんとして首をかしげる。
 やがて困ったように頭をかきながら彼は再び歩き始めた。
「僕はほら、まだ償いの最中ですから」
 マリアは何も答えなかった。 ただ、黙って彼を追い越して右手をさらっていく。
 手を繋いで、しばらくずっとそうして歩いて、橋を渡りきったところで彼女はようやく振り向いた。
「黙って消えたりしないでよね」
 手を離して、再び歩き出した彼女の背を追う。
「そうだね。うん。大丈夫」
 その言葉は果たして本当にマリアに向けられたものだったろうか。
 それはネス自身にもよく解らなかった。

 生き急ぐたびに罪は重なり、魂は許しを求めてさ迷い続ける。
 償いは終わる事はなく、罪悪のかけらは積みあがっていく。
 せめて悲しい想いが少しでも癒されゆくように。 全てが消え去る前には、そう願う事にしよう。

 この世界は誰もが許されるわけではないのだから。

 

 微笑みながら水の中に消えた人魚。
 この遠い霧の向こう、穏やかな海へと還っていくのだろう。
 自分の命を奪った兄の罪と、兄の命を奪おうとした自分の罪。
 互いの胸に突き刺さったひとかけらの罪悪を抱いて。

「さよなら、だね」

 誰にともなく呟いて、ネスは先を行くマリアの背中を追いかけた。
 あともう少しで、ロンドンは秋の色に染まり、やがて長い冬が訪れるだろう。

 その頃には、モニカの魂は大きな海に抱かれて眠りに付くのかもしれない。
 あの霧の向こう、深い深い水の中。 人魚の嘆きは沈んでいく。

 

――あの魚は、私の罪悪でもあったのだわ。

 

2005.9.13更新

欝話、その2。 しかしミストの登場部分だけ妙にコメディ。
書きながら「なんだこの一昔前に流行った萌えキャラみたいな口調」と非常に思いましたが、ネコだからいいかと自分に言い聞かせました。

思えば、1話のジャック以来、幽霊は出てきてもマリアと本以外の妖怪・魔物がさっぱり出てこなかったので、こういう話になりました。マリア、9話目にして初めて吸血鬼らしい事をしていますよ。

語り手にネスが見えない前提で話を進めると、主人公がネスよりもマリアになると判明。
モニカはエリアスが死にたがっているかのように言っているが、そもそも通常状態の時にエリアスにはネスは見えていなかったわけで……。

 

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