風の告白
私は空気だった。
誰にも見えない、解らない。 誰の心にも残らない。
そんな存在なのだと思っていた。
「もしもし。そんな所で寝たら風邪引きますよ。もしもし。凍死しても知りませんよー」
私のなけなしの勇気、潰えたり。
普段だったら横目でうかがって素通りする所だったというのに、何故今日に限って親切心なんて出してしまったのか。
あまり他人と関わらないように、ひっそり生きていたこの私が。
もう冬なのに。外はちらほら雪も降り始めているのに、何でこんなに薄着なのか、この少年。
黒のスラックスに白のシャツ。ネクタイは解いて肩にひっかけ、首元は緩めている。 寒い空気が入り込み放題。
そんな格好で、この階段近く外気吹き込む場所で、悠長に床に座り込んで爆睡しているのはどういう神経なのだろうか?
若気の至りでこっそりと酒を飲み、あげく泥酔して倒れたとか。それにしてはアルコールの匂いがしない。
やばい薬に手を出してしまったとか。それにしては血色が良さそう。
大体、こんな目立つところに転がっていて、どうして誰も気づかないのだろうか。私が声をかけるまで、誰も彼に目をやった人はいなかったのだ。
だからこそなけなしの勇気フル活用しているというのに、無視ときている。というか、私が声をかけたのに気づかず爆睡続行中のようだ。
このまま立ち去ってしまおうか。それとも実力行使にでようか。
先ほどからこの二択が私の脳内でせめぎあっている。
せめぎあっている間に少年がわずかに身じろいだ。
「……ん、あ、マリア様すみません、僕が悪かったです!」
突然、飛び起きたかと思うと、彼は猛烈に聖母マリアに懺悔の祈りを捧げ始める。 しかし顔を上げ目の前にいるのが見知らぬ他人で――もちろん聖母とはほど遠い地味な女と知るや、不可解な顔で首を捻る。
「えーと、どちらさまで?」
それはこっちが聞きたいのです。
偉大なる主よ、マリア様よ。この子をはり倒したらやはり地獄行きでしょうか。 何やら無性に腹が立ちます。
「やだな。そんなに気を悪くしないでよ。僕が見える人なんて珍しいからさ。寝起きでちょっといつものリアクションが間に合わなかったっていうか」
あぁ、やはりいけないお薬の犠牲者なのかもしれない。言っていることの意味が解らない。
「いや別に僕は阿片でちょっと素敵な気分になった人とかとは全く無関係で」
「持ってくる例が阿片とはなかなかレトロね」
「僕が人間だった頃はどっちかというとそれがちょっとした嗜みだったんだよ。今じゃ考えられないけど」
それはいつの時代の話だろう。
この街に阿片窟があったのなんて、シャーロック・ホームズがワトソンを連れて大活躍していた時期ではないか。
解った事はただ一つ。 精一杯の親切心を、とんでもない変人に使ってしまったらしいという事。
こういう不思議な思考回路を持つ人物には関わらないのが得策ですか。 そうですね。
くだらない自問自答を終え、私は心なしか腰を引きながら引きつった笑みを浮かべた。
「元気ならいいんです。それではまた!」
ぎくしゃくした動きできびすを返す。 このまま階段を上って外に出れば、ぱっとしない憂鬱な日常に戻るはず。
でも気のせいだろうか。 追い越された覚えはないのに、出口で先ほどの少年が待ちかまえているように見えるのは。
あぁ、偉大なる主よ、マリア様よ。物騒な事を考えた罰ですか。
「対話をしようよ、対話を。話し合いは相互理解の基本じゃないか!」
冗談ではない。こちらにだって相手を選ぶ権利はある。
大胆不敵、神出鬼没の何を考えているのか解らない金髪少年は、ここにきて初めて心底傷ついたように顔を伏せた。
理由は解らない。が、私の中に半端な形で設置されているお人好し回路が高速稼働を始める程度には罪悪感を植え付けてくれた。
「お姉さん忙しい? ファンタジックな出来事とか割と信じる方?」
脈絡もなく、彼は問う。
実を言うと割と信じる方だった。けれどそれはあくまで、当事者ではないから信じられた事だ。幽霊屋敷に度胸試しに行く人間が、実際に幽霊が出るとはそれほど思ってない感覚に近い。
私だっていい歳の大人なのだ。そんなにメルヘンな精神構造はしていない。
正直、突然こんな話を見知らぬ人間に始める電波な人の方が怖いと思う。
「怖いかぁ。まぁ、そういう反応は初めてじゃないけどさ」
「何? 心が読めるの!?」
「エスパーじゃないんだから。顔にでてますよー、お姉さん」
少年は慌てふためく私を見つめ、ニヤニヤと笑っている。
私は恥ずかしいやら悔しいやらで、けれど反論も思いつかないままに口をつぐむ。
――あぁ、そうか。有無を言わさず立ち去ってしまえばいいんだ。
どうせ知らない相手なのだから、吹き抜けていった風だと思って、綺麗に忘れてしまえばいいのだ。
私だって、時が過ぎ去れば簡単に忘れ去られるのだから。
「それじゃ私、急ぎますので」
申し訳程度に挨拶をして、私は走り出した。
今度は追いかけてくる様子はない。
これでいい。何も気にすることなどない。
彼だってきっと、数日もしない内に私の事など忘れてしまうのだから。
「久しぶりに完敗したんですけど」
「逃げられたのね」
マリアに会うなり、ネスは愚痴をこぼした。彼女はその真相を即座に言い当てる。
しょんぼりと座り込んだネスの肩を叩きながら、マリアは地下鉄が来るのを待った。
「遅れて悪かったわね。でも貴方は好き勝手にどこか行ってしまうから、いつもは私の方が待ちぼうけなのよ」
返す言葉もなく、ネスはますますうなだれた。
「そんな事より大英博物館に行くんだから、付き合ってよ」
「もちろんです、お姉様。お供しますよ、どこへでも」
投げやりな態度に腹を立てたのか、むっとした様子でマリアはちょうど良くホームにやってきた地下鉄に乗り込んだ。慌ててネスが追う。
「いつも通り、しつこく追いかけ回せばいいじゃないの」
「いや、そうは言うけどね。何かね……ちょっと、思う所が」
ぶつぶつと呟き、ネスは動き始めた地下鉄内の人々をぐるりと見回す。
誰もネスには気づかない。無関心だからというのももちろんあるのだろうが、そもそも彼らにはネスの存在を認識出来ないのだ。
あの女性にはネスがはっきりと見えていた。わざわざ居眠りしている所に声をかけて来たのだ。
だけど走り去った彼女の前にもう一度現れてみたが、彼女はネスが見えていなかったのだ。その証拠に、正面にたったのに身体はすり抜けてしまった。
「こういうパターンは初めてかなぁ」
記憶を辿ってみても、こんな不安定な認識をされた覚えはない。
マリアはネスの話をきちんと聞いているのかいないのか、ロンドンの観光ガイドを片手に何やら探し物をしている様子である。
「ロンドンなんて何度も来てるんじゃないの?」
「ざっと十五年ぶりくらいよ。人間の時間としては結構なもんでしょ。様変わりしているわよ」
大英博物館は十五年ではそうそう大幅な様変わりはしていない気がする。 そう思いはしたものの、ネスは黙って地下鉄内の人間観察へと視線を戻した。
いつの時代も人は変わらず歩いていく。ほとんどの者は、自分が必要とする世界以外を見ていない。そうしないと、自分の存在が希薄になってしまうからだ。
自分の倍以上生きているはずのマリアは、十五年はとても長い年月のように言う。
ネスにとって十五年は――あるいは百年の時でさえ、それほど途方もない時間ではないように思える。
人が生きられる時間は、この惑星にとって一瞬の夢みたいな物だ。
人生は短く、人は力を持たず、自分の世界を守るには余りに脆い。
「だから、かな」
投げかけた言葉は、誰の心にも伝わることなく消えていくのだ。
どれだけ人がいても私は一人。誰と話していても私は一人。
吹き抜けた次の瞬間には忘れ去られる、風のような存在。
私は、空気なのだ。
特別何があったわけでなくとも、一日においてやるべき事があらかた終わった頃には、すっかりへとへとになってしまう。
地下鉄駅の雑踏は好きだ。こんなに人がいるのに誰も私に気づかない。誰にも気づかれないのが、当たり前の事に思える。
ひとりだけどひとりじゃない。ひとりじゃないけどひとり。
少なくとも私にとって、それが当然にして必然だ。
誰と出会って別れても、最後には独りになる。
私の事など、誰一人心に留めておいたりはしないだろう。
思い出したのは昨日のこと。そういえば、あの少年は東の出口近くの床で、座り込んでのんきに居眠りをしていた。
「やだな、もう……」
余計な事は、みんな記憶の海に沈めてしまう。疲れたり、哀しくなったり、嫌な思いをしないでも済むように。独りよがりの弱さが顔を出さないように。
それで、本当に何もかもなかった事にできるわけではない。深く沈んでいるだけで、流されて消えてしまったりはしないのだ。澱んだ海は時々、何の脈絡もなく嵐を起こす。――大丈夫。平気。私は強いもの。
私の心に泥が沈んでいたとしても、他人には関係ない事。
時々はこうして疲れるけど、明日になればまたどうでもよくなるのだ。
「お姉さん、そんな所で寝ていると風邪を引きますよー。凍死しても知りませんよー」
どこかで聴いたセリフだ。
じっと閉じていた瞼を開けると、寒々しい格好の金髪少年が目の前で微笑んでいた。
これは夢だ。夢に決まっている。そう思わせて下さい。
「やっぱり見えているよね。おっかしいなぁ。ねぇ、マリア」
意味不明な呟きと共に、彼は隣を振り返る。少年に対する驚きが大きすぎたために気づくのが遅れたが、存在感のある美女だった。
マリアと呼ばれたその美女は、私の視線など気にも留めず、傍らの少年の頭にハンドバッグを振り落とす。
思わず目をつぶったが、殴打による鈍い音はしなかった。恐る恐る瞼を開けば、不機嫌そうに顔を歪める美女と、腰が退けた状態で後ずさる少年という、コメディタッチの光景が展開されている。
「すり抜け禁止!」
「いやわざわざぶつかりに行くのもさぁ」
話が全く見えてこない。ただ一つ理解できたのは、不思議少年のお友達もまた不思議美女なのだろう、という漠然とした確信である。
「大体、貴方はいちいち怪しいのよ。おかげで私まで奇異の目で見られているじゃない!」
「ちょっと見知らぬ人に話しかけられただけで化け物を見るような目をあうるなんて! あぁ、何て冷たい世界になっちゃったんだろう」
「そのセリフ、百年前の貴方自身に吐いてやりたいわ」
いつまで続くのだろう。このカップルコメディショートショートは。
逃げるなら今だ。しかし身体は石像になったかのように動かない。
私は周りからどう見られているのか。この二人のお仲間としてくくられていたら少し哀しい。
「とにかく、一緒に来てくれるかしら。貴方、名前は?」
美女が突然こちらを振り返る。冷静に考えれば、知り合いでもなければまともな自己紹介すらされていない相手に、従う義理はなi。
しかし彼女の迫力に圧倒されてしまった私は、素直に「シリルです」と答えてしまった。
「シリルね。私はマリア。こっちの怪しいのはネス。とりあえずそう呼んでいいわ」
私から見れば彼女も十分に怪しかった。何が「とりあえず」なのかも疑問だ。
それでも彼女に手を引かれのこのことついて行ってしまったのは、ひとえに彼女から服従せざるを得ない威圧を感じたからだった。
そのまま引きずられるようにして訪れたのは、古めかしい様相のカフェテラス。アンティーク調というには行き過ぎた印象で、かび臭さが満ちている。図書館の奥まった場所や、博物館のような雰囲気だった。
カウンターの奥では、腰の曲がった老人がコーヒー豆を煎っている。悪魔を呼び出す儀式でも行っているのかと錯覚しかけたが、もちろんそんなはずはない。
彼らに毒されたのだろうか。向かいに座る二人の顔を見つめ、そう思う。
二人から話を聴くにつれ、人生におけるファンタジーは必要以上にいらないのだと思い知らされた。
「名前がないのにネスって……あだ名はあるの?」
訳が分からない。それならあだ名が名前でも差し支えがない気がする。
「それについては度々ご質問いただきますが、非常にややこしい事でして……。観念的な物だから。本質を言うならば“名無し”じゃなくて“存在無し”になるのかな」
「ますます解らないわ。何で存在していないものが見えるのよ。まだ幽霊の方が現実的だわ」
出来ることなら、また何も見なかった、聴かなかった事にして走り去りたい。
実際、この店に入る前までは、何度か実行を試みたのだ。その度に、マリアが持つ雰囲気に圧倒されて足がすくんでしまっただけの事だ。情けないことこの上ない。
せめてもの抵抗として、精一杯の不機嫌を表注ぎ込んだ表情を作ってみたものの、この少年はそんな事を気にも留めず、話を進めていくのである。
「そこなんだよ、問題は」
彼は腕組みをして、芝居じみた様子で大げさすぎるため息を吐く。
「何で、君は僕が見える? いや、違うな。何で僕が見えるはずなのに、見えなくする事ができるのか教えてくれないか」
今までよく我慢したものだと思う。ついに私は「はぁ?」と猜疑心に溢れた叫び声を上げた。
慌てて周りを見回すが、他に客はいない。
マスターは黙々と豆を煎る事に集中しており、客の話などには耳を傾けてはいないようだ。 気づいて欲しかったような、欲しくなかったような、複雑な気分である。
一方、やはりこちらの反応などまるで無視をしているネスは、もう一度自身の妄想設定をくり返す。
「現実と非現実の境目が曖昧な人にだけ、僕の姿は見える。僕が見えたり見えなかったりするって事は、その時その時で世界の見え方に大きな差があるって事なんだろうけど、普通はそこまで極端にならないはずなんだよね」
だから私にどうしろというのだ。
私の目下最大の望みは、日常に戻る事だ。その日常が現実的でも非現実的でも構わない。
要するに、私は今まで必死に取り繕ってきた自分の世界に割り込まれるのを恐れているだけだ。これ以上ぐちゃぐちゃにされたらどうしていいか解らない。「もう、いい加減にして下さい……」
――もう、嫌だ。
考え始めると、黒い感情は蛇のようにとぐろを巻いて、心の内をのたうちまわる。 ぐちゃぐちゃと、黒く塗り重ねられていく。
現実からも非現実からも逃げ出し続ける心が、どんどん闇の沼に沈んでいく。――嫌いだ。
こんな心を持っている自分も、それを引きずり出すこの人達も、救いの手など決して存在しないこの世界も。
「何が言いたいのよ? さっぱり解らないわ。もう帰してよ。話の通じない人間の言うことなんてどうして聴かなくちゃならないの?」
嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ。
自分でも、何が何だか解らなくなっていた。突然あふれ出た感情は、不条理な怒りとなって表に現れていく。
対するネスはきょとんとした顔をして、それから何故か柔らかく微笑んだ。
「あぁ……そうだよねぇ。困るよね。それは別に、君のせいではないよ」
にこにこと、まるで幼い子供を見守るような瞳で彼は私を見ていた。
恥ずかしい。
見透かされたのだ。自分勝手で子供じみた、底の浅い心の闇。
思い通りにならない世界に、不満を抱えるだけで何もしない浅はかな弱さを。
「ごめんなさい。これ、お代です!」
財布から慌ててお金を取り出して、テーブルに叩きつけるように置く。
とにかく、一刻も早くこの店を出なければ。その思いだけで身体を動かしていた。
先ほどまでが嘘のように、あっさりと手足が動く。飛び出すように店を出て、闇雲に道を走った。
誰も私の事など気に留めないだろう。私がこんなに浅ましい存在だと、知らないだろう。――誰にも、気づいてもらえないだろう。
人気のない裏道を走る。
湿った空気は澱んだカビの匂いを鼻腔へと誘う。
胃の底から吐き気がこみ上げたが、それでも足を止める気にはならなかった。
そして、哀しい気持ちが胸を支配する。
何から逃げているのだろう。どうして、逃げる必要があったのだろう。
町並みが見慣れた物へと戻ってきた頃、私はようやく足を止めた。
弾む息を整え。とりあえず家に帰り着こうと顔を上げれば、視界に淡い金色が映る。「――っ!!」
エメラルドの色をした瞳が、笑みを象る。
「距離とか時間とか、僕には問題にならないんだよね」
つらっと言ってのけた彼は、何事もなかったかのように私の手をとって歩き出す。
私は、もう逃げ出す木も消え失せて大人しく従った。
手を握っているはずなのに、手のひらにはほとんど感触がない。温もりも冷たさもなく、まるで空気のように存在感がなかった。
「君は僕の事が不可思議な存在だと思うかな」
彼は唐突に尋ねてくる。私は意味が解らず、首を捻るばかりだ。
「……不可思議、っていうより不審?」
思わず本音で答えると、彼はあからさまにがっくりとうなだれた。自分でも、さすがに今のは酷すぎたと反省をする。
「あ、いや、ごめんなさい。冗談のつもりだったの……」
「……まぁ、それは別にいいよ。ようやく君も本音が出てきたようだしね、うん」
がっくりとうなだれたまま、彼は自身に言い聞かせるように頷く。
「そこで、ものは相談なんだけどね……」
顔を上げ、彼は笑った。
「君は“こちら側”にくる気はないかい?」
「何を言っているの?」
私はそう言ったのだと思う。
言葉を話している自分が、何故か別次元の存在に思えた。
劇の登場人物になったようで、確かに自分で話しているはずなのに、その意識は遥か彼方に存在している。
「空気のように、誰にも気づかれない。たまに風が吹けば気づいてもらえるけど、過ぎ去れば忘れ去られる。それなら君は人間じゃなくてもいいじゃないか。気づいてくれる人だけに見てもらえた方が、君だって楽だろう?」
彼は首を傾げ笑い「どう?」と再び問いかける。
私は答えられずにいた。
答えなくても、きっと彼は全てを解っている。だからこそ、私の前に再び現れたのだ。
「人間である事の意味って、何だろうね?」
彼の言葉が、私の胸に深く突き刺さっていた。
私は自分の浅ましい本性に気づいてからは、できるだけ何も言わないで済むように生きてきた。
沈黙をし、偽りを言い、他人の嘘を信じ、自分の真実をねじ曲げた。
それによって起こった弊害は、全て自分が愚かなせいだと思えばいい。
気づかれないように、じっと自分の形を偽ればいい。大丈夫。私は強いから。
誰もが私のことをそう言うから。
私は強い。何があっても大丈夫。
大丈夫じゃない私なんて、要らないでしょう?大丈夫よ。誰も私の事を気に掛けなくても。
大丈夫よ。
私はこのまま、空気のように生きる。誰の人生も侵さないように頑張るわ。
孤独なんて、怖くないのよ。今までだってずっと一人だったのに、今更孤独が怖いなんて、笑い話でしょう?
「君によく似た男の子の昔話をしよう」
しばしの沈黙の後、ネスは突然空々しい程に明るい声で、話題を切り替えた。
「彼は自分が嫌いで、世界も嫌いで、他人がよく解らなくて、自分の存在意義もまた解らなかった」
語りながら、彼はバス待ち用にあつらえられたベンチへと腰掛ける。
少しだけ迷ってから、私もそれに倣った。
手前には息をせき歩く人々。道路には行き交う車。その向こう側にはゆったりと歩く人影。
「人間は自分の主観を通して世界を見る。でもその“自分”が曖昧だと、世界もあやふやに見えてしまう。“自分”の存在を認識できなかったその少年は、世界を認識できなくなっていった」
誰一人として私達を気に留める様子はない。
私は、世界に自分と彼だけしか存在しないような気分になっていた。
目の前にこれだけ人と物が溢れているのに、おかしな話だ。
「自分の世界を認識できない彼には、他人の世界が解るはずもない。彼の存在はどんどん曖昧になって、やがて誰の世界からも――彼自身の世界からも――存在を認識できなくなってしまった」
「例えが哲学的すぎて解らないわ……」
素直に感想を漏らすと、彼はさもおかしそうに笑い出した。
「僕も良く解らないな。えーと、アレだよ、昔の偉い人の言葉。我思う、故に我あり」
「……デカルト?」
「あ、そう。その人だ。極端な話、この世界で自分が存在していると証明できるのは自分だけなんだよ。本当はこうやって他人がいる世界を全てひっくるめて幻や夢なのかもしれない。そうじゃない、って言い切るにはまず自分が世界にちゃんと存在していなくちゃならない」
何となく、解ったような気がしないでもない。
転がる石ころには“世界”なんて認識はないだろう。溢れる水にも空気にも。
それらに名前を与えて、世界の一部として認識するのは“自己”という人格の仕事だ。
名前がない、とはそういう事だ。世界の認識から外れてしまう。
「私と彼が似ているのは……空気みたいな存在だから?」
誰にも気づかれない。記憶に残らない。
吹き抜ける風のように、時々誰かの心をかすめるけど、空気は空気でしかない。
「私も、そうだ、っていうの?」
ネスはもう笑っていない。
まっすぐに、睨み付ける私を見返している。
「だから、君もいっそネームレスになってしまえば、って。人間じゃなくなってしまえば、踏ん切りもつくんじゃない? だって、君は世界も自分も大嫌いだろう?」
本当に、おかしな話だ。
確かに彼の言うとおりなのだ。私は自分も世界も大嫌いで、気に掛けてくれるような親しい人もいなくて、きっといなくなっても悲しむ人はそう多くないだろう。
一時的な感情で存在を惜しまれる事はあっても、心に留めておいてくれる人などいないに違いない。
風は、吹き抜ければ忘れられる。それが深い傷跡を残す嵐ではない限り、必ず忘れ去られる。
こんな事で気づくとは思わなかった。
「私は貴方に似ているかもしれないけど、でも一つだけ決定的に違う事があるの」
どれだけ自分を嫌い、疑っても、手放せなかった物がひとつだけある。
「私はね、ネスよりもずっと生き汚いの。自分で自分の事を否定しておきながら、他人には認めて欲しくて仕方がないの」
私は空気のような存在で、ずっと独りぼっちでも大丈夫だった。自分も世界も嫌いなのは本当だ。
それでも、私は人間が好きでたまらなかった。愛していたのだ。
本当はずっと“人間”になりたかった。
「誰の心にも残らずに消えて行くなんて、哀しくて悔しくてたまらないの。自分の事さえまともに認められないくせに、浅ましいのよ」
私は“名無し”にはならない。
ギリギリの所で、いつでも自分を捨てられないから。
だから、私は「大丈夫」なのだ。
情けないけれど、他者への執着が私を世界に繋ぎ止めている。
「ぐちゃぐちゃに醜く汚れていても、私はまだ人間なの。空気みたいでも人間でいたいの。笑っちゃうでしょう?」
ネスはじっと私の方を見ている。
いつのまに、一体どこから取り出したのだろう。重厚な革張りの本が彼の手の中に収まっていた。それのページをゆっくりと繰り、しかし半ばまでめくった所で手を止める。
その間も、瞳はずっと私に向けられたままだ。
「そうか。君は僕が見えなくなったんじゃなくて、見えないんだって自分を騙していたんだね」
ネスは視線を逸らし、ぼんやりと霞む曇天を見上げる。私も、つられるようにして見上げた。
「……これから君はもう一度自分を騙すといいよ。僕になんて出会わなかった事にして、難しいことを考えるのもやめて、用事もないのに久しぶりの友人に電話をかけてみるんだ」
このよどんだ空がどこまでも続いているように見えても、何処かでは綺麗な青色を見せて晴れ渡っているように、迷い続ける私にも晴れは訪れるのかもしれない。
空気みたいな存在でも、吹き抜ける風みたいに忘れ去られても、いつかたどり着けるのかもしれない。
風の終わる、晴れやかな空の下に。
本当に、いつかたどりつけるなら、それだけでそれだけでいくらでも歩いていける。
一人でもまだ、大丈夫だと言える。「……帰らなくちゃ」
私は歩き出した。
おぼつかない足取りだったように思う。きっと格好悪かった。
私はそれでも良かったのだ。心の中はぐちゃぐちゃで、まだ混乱していたけれど、もう足音は追ってこなかったし、目の前に突然彼が現れることもなかった。大丈夫。
私は絶対に大丈夫。
今までだって騙せたのだから、これから先もずっと大丈夫。携帯電話を手にとって、電話帳を開く。疎遠になった人の名前ばかりが並ぶその中から、もう今は何をしているかも解らない人の番号を表示した。
呼び出し音が耳の奥へと響く。響く。響く。
このまま電話に出てはくれないかもしれない。
出てくれたとしても、話すべきことなど何もない。
それでも良かった。誰かと自分を繋ぎとめるためのこの音こそが、今の私に必要なもの。
どんな嘘も、私の心を癒しはしないだろう。
どんな真実も、寂しさを紛らわす事はないだろう。
けれど、私の次に放つ言葉には意味がある。
他の誰にとっても心に残るものではないだろうけど、私自身には意味がある。
過ぎ去れば忘れ去られるこの風が呟く言葉は、何よりも私自身に向けられるのだから。
だから私は、まだ人間である事の意味を捨てない。
ねぇ、ネス。貴方はそんな事、とっくの前に気づいていたでしょう?
自分は自分にしかなれないのだから。
他の誰にもなれないのだから。
どんな孤独も、自分の存在を教えてくれる道標になり得るのだから。
風が吹く。
真っ白で何もなくて、何も聞こえなくて、完全な無であったはずのその世界に、風が吹いている。
ネスはその風がどこから吹いているのか気づいていた。
遠く、懐かしく哀しいあの場所だ。
白が、剥がれ落ちるように町並みの風景へと変わっていく。
「あの娘の記憶、本に食べさせなかったでしょう」
気づけば隣にマリアが立っていた。
ネスの腕から本を抜き取った彼女は、パラパラとページをめくっていく。
紙の擦れる音を聞きながら、ネスは「まあね」と短く返事をした。
しばらくの間、お互いに何も言わなかった。じっとその場に立ち、マリアは本を、ネスは空を見つめていた。
「勝手に消えないでって言ったのに」
やがて、本を閉じて顔を上げ、恨めしげな表情を浮かべて呟いた彼女に、ネスは微笑みかける。
「待っていたじゃないか」
「……私、貴方の事を追いかけてばかりよ。百と数十年も、ずっとよ」
「それはどうもありがとう。もう追いかけなくてもいいよ」
マリアは再びうつむいた。地面に落ちていく雫を見て、泣いているのだと気づく。
ネスは慰めるでもなく立ち尽くして、少しの間途方に暮れた。涙は女の武器だとはよく言ったものだ。
「いや、その、言い方が悪かった、うん」
ひたすらおろおろとなだめすかし、それでも彼は彼女を泣かせている原因を振り払う言葉はついに口から出すことはなかった。
代わりに、既に揺るがないであろう決意を訥々と語り出す。
「僕の世界には何もないから、だから君や僕を見る事ができる人を通して世界に関わってきたわけなんだけどさ」
まず、そう前置きをする。
「でも、そういう形でも世界に関わってこられたのは、つまり僕の存在がどこかしらに残っているって事だと思うんだよ。見えない、触れないはずの空気だってきちんと存在している。風になれば、存在に気づく」
「だから、私を置いて消えちゃうんでしょう?」
マリアは顔を上げた。睨み付けるようにこちらを見ている。
この百五十年足らずの間に、彼女がどれほど自分をこの世界に繋ぎ止めるために、尽くしてきてくれただろう。
けれど――だからこそ、ネスは思うのだ。この先にマリアを連れてはいけない。そんな永遠は、お互いの為にもならない。
「うん。でも、きっと“彼女”もそう思ったんじゃないかな。だから、消えたくなったんじゃないかな。っていうか、その、彼女は消えたんじゃなくて、戻ったんじゃないか」
「……レスが?」
マリアの短い問いに、ネスは頷いて答えた。「……ねぇ、マリア。久しぶりに彼女の話をしないか」
風が吹く。
誰にも見えない、触れない空気が、二人の間を吹き抜けていく。
ここに存在するのだと、囁きかけていく。
かつて世界と自分を消した少年は、あの日、一人の少女と会った。
意味を失い時をさ迷い、存在すら曖昧な彼女は微笑みながら、こう言ったのを覚えている。――ねぇ、私が見える? 私は、貴方のそばにいてもいい?
世界を許さない。
世界に許されない。
あらゆる存在から忘れられ、意味を失ったそれに名前を付けるとするならば。
――きっと「孤独」と呼ぶのだろう。
2006.2.26 更新
微妙なところで待て次回。
基本的にこのシリーズは1話ごとにエピソードを完結させておりますが、あえて続く感じのラストにしてみました。
そんなわけで、次回からいきなり過去編に突入します。 今回の話の終わりに出た「彼女」についての数話+最終話という構成。
が、以降は今まで以上に不定期更新になります。すみません。
シリーズ完結まで、番外あわせてあと5話。
ゆっくりまったりお付き合いいただけたなら幸いです。