言の葉の涙
言葉なんかで伝えなくても大切なことは伝わるのだと思っていた。
ただ盲目にそれだけを信じた。
はき出さない言葉はいつだって心の内に溜まっている。
役立たずなものだと最近知った。
時折、自分は何のために息をしているんだろうと思うことがある。
そう考えていても息を止めるわけでもないし、腹が減れば飯を食う。
別に死にたい訳じゃない。 身体は生きることを主張している。
生きている事に種の保存以上の意味を見出そうとするのなんてそもそも人間くらいのもので、その人間としてのアイデンティティを真剣に考えてしまうって事は、俺もしばらくは人間をやめる気なんかない訳だ。
理屈なんてこねればこねるほど大げさになっていくだけ。
俺が今やらなきゃいけないことは、学校に通ってそれなりの成績を残しながら、大人になる上での自分の身の振り方を考える事である。
「テオ君、考え事しながら歩いていると危ないよ」
声をかけてきたのは、同じクラスのクローエだった。
赤みがかった茶髪を三つ編みでお下げにしてまとめて背中に流し、大きな黒縁眼鏡の内側から琥珀色の瞳がこちらを伺っている。
時代を逆行したかのような野暮ったさが漂うが、俺はそれほど嫌いではない。
大人しくいつも本ばかり読んでいる彼女は、この年頃の女独特の浮き足だったかしましさがなかった。
俺自身があまり騒ぐタイプではないから、彼女のような存在は有り難かったりする。肩の力が抜ける思いがするのだ。
「ごめん。気を付けるよ」
クローエに軽く頭を下げて、俺は踵を返した。
ほんの一瞬だけ、彼女は何かもの言いたげに口を開いたが、すぐに反対の道を歩き出す。
思わず振り返ってしまったが、彼女は俺なんか気にも留めずにさっさと廊下の角を曲がっていってしまった。
気のせいだったのかもしれない。何か話したいことが有ったのかも、と思ったのだが。何故だろう。何故なんだ。
すごく、残念だと思っている自分がいた。
学校帰り、赤い煉瓦の敷かれた歩道を歩きながらバス停までの道を行く。
角のアイスクリーム屋で女子が騒いでいるのを横目で眺めた。
その中にはクローエの姿を探してみたが、やはりいないようだ。 彼女はそんなタイプではないか。
友人も全て落ち着いた、地味な印象の娘ばかりだった。
それにしても俺は何だってこんなに彼女の事を気にかけているんだ。これじゃまるで惚れているみたいだぞ。
おいおい待ってくれ、確かに嫌いではないが彼女に胸の高鳴りを覚えた事などただの一度だってありはしないぞ。何故だろう。
好きだ嫌いだ、じゃないんだ。彼女が気になるのは。
言葉じゃ表現しきれない、色々な物が複雑に絡み合った感情だ。近親感、共感、罪悪感。
――罪悪感?
何を考えているんだ、俺は。 何でそこで罪悪感が来るんだよ。
悶々と考え事をしながら歩いていると、いつの間にかバス停を通り過ぎてしまっていた。
慌てて戻った所でタイミング良くバスが来る。
危ない所だった。窓際の席に座って、ガラスに横顔を押しつける。ひんやりとして気持ちが良かった。
流れてゆく景色の中、先ほどの女子がアイスを片手に路地を行き、人気のない小さな路地には赤いお下げの後ろ姿。
「……クローエ?」
誰かと話しているようだ。金髪の少年が相手だった。 黒いスラックスに白いシャツ。揃いの黒いネクタイはだらしなく首に引っかけているだけ。
バスは止まらない。
流れる景色。彼女の後ろ姿。金髪の少年。
深い交流を持っていない俺にとって、知らない誰かとクローエが一緒にいたとしても取り立てて驚く必要性はどこにもない。 ただ、遠目に見る顔も解らないその少年が、いやに不快感を植え付けてくるのだ。
理由は自分でもよく解らなかった。
やがて建物の影に二人の姿は隠される。
俺は窓に顔をつけたまま、ただぼんやりと移りゆく町並みに見入っていた。
家に帰っても誰もいない。
片親一人息子の宿命というやつで、ホームヘルパーの来る週二回を除けば、ほとんど俺一人の我が家である。
母親は仕事に忙しく、せいぜい朝に顔を合わせられればいい方で、俺もいい加減その辺りの割り切りはできてしまっていた。
ダイニングテーブルに置かれた母の書き置きによると、書類を取りに戻ったついでに買い置いたアップルパイを食べなさい、との事。
夕食を用意するのは俺の役目であるから、これから食材を買い出しに行かねばならない。
ため息ひとつ吐きだして、アップルパイにかじりついた。子供の頃からの俺の好物だ。 シナモンがきいている。紅茶が欲しくなったが生憎茶葉を切らしていた。
ついでに買ってくるか、と財布の中身を確認したところでドアベルがなった。
セールスマンだろうか。
ドアスコープを覗いた。誰もいない。いたずらだろうか。 チェーンをかけたまま、少しだけ開けてみる。
「こんにちは」
その時の驚きをどう表現すべきか解らない。 あれだ。多分亡霊や怪物やらを現実で見てしまった時のような衝撃。
俺は声にならない悲鳴を上げて後方にひっくり返った。
驚かない方がおかしいのだ。
ドアの隙間、開けた瞬間至近距離から暢気な挨拶をしてくれたそいつは、先ほどバスで見送ったクローエの話し相手だったのである。
距離から考えて、あの後すぐタクシーでも捕まえて追いかけない限り、こんなにすぐ俺の家までたどりつくはずがない。
そもそも何故追いかけてくるのか理由が不明だ。
俺からだってよく見えなかったのに、こいつから車内の俺がはっきりと確認できるはずがない。
とそこで、思考にブレーキがかかった。
確かに格好がよく似てるが、何もクローエと話していたのが彼とは限らない。――冷静になれ
自分にさんざん言い聞かせた所で、解決しようもない疑問点はどうしてもひとつだけ残る。
今初めて会った彼が、どうして俺の家に用があるのか。まさか母の知り合いでもあるまいに。
「やっぱり見えてたんだね。クローエと話してる時、バスから僕の事見ていたのは君だよね」
次の瞬間、俺は頭のネジでもはずれたかのような唐突さで笑い出していた。
冗談だと思わなければやっていられない。
そして笑いながらドアを閉める。 いいんだ。これは夢だ。きっと夢だ。
「なかなかシュールな反応してくれるね、君」
不覚にもマンション中に響き渡りかねない大声を上げてしまった。
しかし誰にも俺を責める権利はないはずだ。こんな事が現実にあり得るはずがない。
少年は閉ざされた扉から半身を覗かせている。
要は、すり抜けているのだ。――幽霊?
「幽霊じゃないからね」
却下された。
「それじゃ何だ? 天使か悪魔か妖精か!?」
「どれも違う。まぁ落ち着いてよ。あぁ、僕が見える人にこんなに立て続けに会うなんて、最近の若者は病んでるんじゃないのかな」
知るかそんなこと! そう力いっぱい叫びたかったが、俺は辛うじて残っていた理性で声を呑み込んだ。
「……お前誰だよ」
有り得ないスピードで追いついて、人の家を探し当てて、その上ドアをすり抜ける。
幽霊か幻想生物じゃなければ何だって言うのだ。
彼はついに、全身をこちら側に滑り込ませて、やれやれとでも言いたげに肩をすくめてみせた。
「誰って言われてもさ。僕、名前もないし。あだ名ならあるよ。ネームレスだから略してネス」
頭の中が混乱してきた。幽霊でも何でもなひとつだけ確かなのは、彼が人間ではないと言うことだ。
壁抜けできる人間など俺は認めない。
「君の名前は」
「テオドール。テオでいい……」
肩の力が一気に抜けた。
床を見ると、驚きのあまりに放り投げてしまったらしいアップルパイが崩れて散らばっていた。
「もったいない」
誰のせいだと思ってるんだ。
リンゴのくずを片づけながら、俺は必死にこの奇怪な状況を打破する方法を考えていた。
思いつくわけがない。 相手は何がどうなってるか解らない人外だ。
「そりゃ、いきなり家に上がり込むのはやりすぎだったと思うけど、そんなにうんざりした顔しなくてもいいじゃないか」
この状況で仲良くなれる理由があるなら是非ご教授していただきたいものだ。 これから買い出しにも行かなきゃならないって言うのに。
「言いたいことがあるならさ、ちゃんと口に出して言った方がいいと思うんだけど」
さすがにこれにはカチンときた。
いきなり訳のわからないことを言って、家に上がり込んで、その上どうして説教までされなければならないんだ。
「帰れよ」
「うん、帰るけどね。君もクローエも似た者同士だね」
「知るかよ」
「じゃ、さよなら」
ネスは入ってきた時と同じように、閉じたままの扉の向こう側へ消える。
追いかけてみようという気も起きず、俺はパイの残骸だけを片づけ、テーブルに突っ伏した。
疲れた。とても、眠くなった。
電話のベルが呼んでいる。 まどろみかけた意識を現実に引き戻してのろのろと立ち上がり、リビングの電話機に手を伸ばす。
母親からだった。今日はもう戻れないらしい。
買い出しの必要がなくなった。 面倒だから夕飯は抜きだ。 今日はもう本でも読んで過ごし、早々に寝ることにしよう。きっとさっきまでの不可解な事も、寝ぼけた末に見た幻なのだ。
寝坊した。
朝も食べずに飛び出して、ギムナジウムの方面へ向かうバスに乗り、何とか遅刻寸前で教室に滑り込む。
「テオ君、おはよう」
噂をすれば、と思った。
クローエが分厚い眼鏡ごしに俺を見つめている。彼女の方から話しかけてくるなんて珍しい。
「何か顔色悪いけど、大丈夫?」
「あぁ、寝坊して朝食抜いてきたから」
そういえば、昨夜も結局アップルパイの残りだけを食べて夕飯は抜いてしまった。 自覚すると急にお腹が減ってくる。
彼女は小さくため息をついて、俺の目の前に手を差し出した。あめ玉の包みが3つ程。
「あげる」
「……ありがとう」
「また後でね」
そう言い残して、彼女は立ち去ろうとする。
俺は反射的に彼女を呼び止めていた 。 いつも片隅で静かに本を読んでいる彼女がわざわざ俺の所に来るからには、何か理由があるはずである。
しかし、どう続けていいかも解らず、俺は口ごもる。 彼女も困ったような顔でうつむく。
しばらく、二人で気まずい沈黙を共有した。
やがて、クローエは消え入るくらいの小さな声でぽつりと呟いた。
「金髪の……ネス、って男の子に、会わなかった?」
恐らく、俺は変な顔をしていたんだと思う。そして、それが彼女に対しての何より解りやすい返答となった。
この顔が余程おかしかったのか、クローエはくすりと笑う。 俺も何だかおかしくて笑う。
それきり俺たちは、ネスの事に触れることもなく、無難な言葉をいくつか交わして別れた。
彼女の去っていく背中を見ながら、俺は馬鹿馬鹿しい夢と思いこんでいた昨日の出来事が、急に現実の事として蘇っていくのを感じていた。
あんな事が現実にあってたまるかと思う反面、あんなリアルな夢があるか、とも思う。
早い話が、未だに半信半疑なのだ。
だけどひとつだけ確かなことは、ネスという少年は確かにいた。 クローエも知っているのだ。まさか二人で同じ夢をみたわけではないだろう。 あれの正体が何にしろ、とにかく存在したはずなのだ。
俺はクローエにもらったあめ玉を口に放り込んで、物思いにふけった。
さ っぱり意識がまとまらないのは、まだ寝不足なのか空腹のためなのか、それすらもよくわからなかった。
慌てて出てきたものだから、財布を忘れたらしい。 自分の間抜けさに辟易とする。
バスチケットは上着のポケットに入れておいたのが幸いだったのか、災いだったのか、とにかく家に帰り着くまで断食続行である。
クローエにもらったあめ玉は昼にもう一つ食べてしまって、とうとう最後の一つとなった。
それを口に放り込んで、昨日と同じようにバス停への道を行く。
バスが来るまでには結構時間があった。 この道をまっすぐ行けば、昨日クローエとネスが話していた裏路地をかいま見ることができる。
それを思い出して、俺はほんの時間つぶしのつもりでそこまで歩いてみる事にした。
クローエという証人を得た今でもまだ心のどこかで、昨日の事は全て寝ぼけた俺の妄想と思いたかったのかもしれない。――あんな非日常、あるわけがない
例の路地を見つけ、俺はその狭い道に足を向けた。
路地にネスはいなかった。
ほっとしたような、残念なような、複雑な気分を味わいながら、俺は通りをぐるりと見回す。
そこに、一人の美女が佇んでいた。 人形の様に整った顔に、赤みがかったブラウンの髪を指で弄んでいる。
恐ろしく、この寂れた裏道に不似合いな女性だった。
彼女は俺に気づくと、口元に薄く笑みを浮かべる。急に恥ずかしくなって、顔に血が上っていくのが解った。
「貴方ね、ネスの言っていた子って。名前はテオ君、だっけ?」
話しかけられて、俺の頭の中は真白になった。
もちろん、美人と話しているからではなく、彼女の口から「ネス」という名前を聞いたからである。
俺は、反射的に元来た道を引き返していた。 とにかく心の中には、元の日常に帰りたいという思いでいっぱいだ。
路地を抜け、俺はバス停へのゆるやかな坂道を駆け上がった。 バス停の標識が見えるのを確認し、ようやく歩調を緩める。
同時に苦笑が口元に上った。 何をしているのだろう。――何から逃げるつもりなのだ
バスまではまだ時間がある。 俺は近くの公園で一息をつくことにした。
犬を散歩させる老夫婦、買い物帰りに休んでいる幼い子供と母親。
そんな人々の中をうつむきがちに歩く人影。赤みがかった茶色の三つ編みを、揺らしながら。
クローエだ。
今度は反射的に彼女を追いかけていた。それでどうするのかもわからないのに、何故か足は彼女を追う。
クローエは公園の隅の、人通りもあまりないベンチに座っていた。 ずっとうつむいたまま、地面へと視線を泳がせている。
声をかけようかどうか迷い、目を閉じた数秒。その次に目を開いた瞬間、俺は悩みのタネが出現した事を知った。
先ほどまで確かに彼女しかいなかったはずのその場所に立つ、金髪の少年。
「やぁ、今日はテオも一緒かい?」
その言葉は、明らかに俺に向けられたものだった。 クローエが驚いたようにこちらを見ている。
ネスは少しだけ底意地の悪い笑みを浮かべた。俺は思わず、数歩後ろへと退く。
「じゃぁ、僕はお邪魔みたいだから、本日は退散するよ。女王様も待たせているしね。よーく、話し合っておきなよ?」
魔法でも使ったかのように、彼の姿はふっと消えてしまった。夢 ではないのか、と未だに諦め悪く考えながら、俺は首を横に振った。
取り残されて、どうしろって言うんだ。
「テオ君、ネスの事どこまで聞いた?」
クローエは再び、地上に視線を這わせている。俺は彼女の横に腰掛けた。
「何も。幽霊じゃないってことくらい」
何せ昨日初対面で家に上がり込まれ、ろくに正体も明かさず嵐のように去っていったのだ。
そして今日はこれだ。状況を把握できるはずもない。
クローエはためらいがちに、彼についての事を語り始めた。名無しと呼ばれる彼は、普通に過ごしている人間には見えない事。
まれに何らかの要因で見えるようになる者もいるが、見えなくなった瞬間に彼の事は忘れてしまうらしい事。
聞けば聞くほどわけがわからなくなったが、とにかく彼が見えているのは今のところ俺とクローエだけで、それは俺達になにかしらの要因があるためらしい。
俺は不意に昨日ネスが言っていた事を思い出した。――言いたいことがあるならさ、ちゃんと口に出して言った方がいい
確かに、俺はあまり話さない性質だが、それが何だって言うんだ。
余計なことに口を出して、誤解されたりする方が余程……。
「そういえばあいつ、俺達が似た者同士だって言っていたよ」
あまり騒がない、という事の他に共通点が見あたらない。
逆に言うと、そこがネスにとっては重要なのかもしれないが、それにしても基準がよく解らなかった。
しかし、クローエは納得したように頷いた。
「そうね。似ているわ」
「そうか?」
「うん。いつも何か言いかけてやめるの、癖だよね? 私もそうだから、テオ君も同じだと思っていた」
言われてみれば、そういう事は多い気がしてきた。
「慣れちゃうのよ、本音を出さないことに。ここでこんな事、言う必要がないよね、って思ってしまうの」
頼りなさげな笑みを浮かべる彼女が今言っていることは、多分まぎれもない本音のはずで、俺はそれにどう答えるべきなのか漫然と考えた。
本音には本音で返さなくてはならないと思うのに、俺は自分の本音がどういう形をしているのかさえ知らないのだ。
「ネスが見えるのはね、どこか心に隙間があるような人なんだって。視線の先が現実を見ていないの。どこか、ずっと遠い手の届かない場所を見ているんだわ」
俺は、まだ考えている。自分がネスを見ることができた理由についてとか。
気がつけばいつも考えている事なんて「生きている目的」とかそういう事。 焦る訳でもなく、ただぼんやりと日々思っている。
確かに、それはとても虚しい、すきま風みたいなものかもしれなかった。
「クローエは……何故、あいつが見えた?」
俺の問いかけに、彼女は曖昧な笑みを浮かべたまま首を横に振る。
「よく解らない。どれもありそうだけど、そんな事で、とも思うし。強いて言うなら、私は……」
そこで、彼女は口をつぐんだ。 言うべきか言わざるべきか、迷っているのが俺にも伝わってきた。
せわしなく、指を組み直し、彼女は一つ、咳をした。
「多分、寂しいんだと、思う」
吐き出すようにその言葉を告げ、彼女は顔を赤くしてうつむいた。
「その、私の家、母が別居で父親と二人きりで、私いつも一人で家にいて、友達ができるような趣味でもないし……」
しどろもどろに言い訳じみた事を重ねるクローエの肩を叩き、俺は笑った。
「別に恥ずかしがらなくても。俺も似たようなもんだよ。父親は随分前に死んで母親は仕事。家に帰ればずっと一人だ」
ただ、俺はそれを寂しいというよりも、当たり前の事として受け止めてしまったけれど。
そう言えば、もう何日母親の顔をまともに見ていないのか。 最後に用件以外の会話を交わしたのがいつか、よく思い出せなかった。
「仕方ないよな、そういうのは」
そうだ、仕方ない。 実際、どうしろっていうんだ。
大人の都合に子供が口を出せる部分なんてそう多くないし、恩恵を預かっている身で仕事をするな、変えろなんて言えるわけがない。
少しくらい置き去りにされても、仕方がない。
何も俺やクローエが特別なわけではないのだ。
「理屈で解っても、時々ね。感情が追いついていかなかったりするものなんじゃ、ないかな。テオ君、そう思わない?
ネスが見えるのは、そう言う事じゃ、ないかなぁ?」
そうなのだろうか。俺の本音はどうなのだろう。思考がさっぱりまとまらない。
「じゃ、私はそろそろ行くね。ちゃんとご飯食べなくちゃだめだよ。まだちょっと顔色悪いもの」
クローエは頬を赤らめたまま、どこかぎくしゃくした動きで、立ち上がる。
俺は彼女が去るのを黙って見送りながら、まだ考え込んでいたりした。――言葉に出さない俺の本音は一体、どこへいったのだろう?
バスに乗って、自分が大変空腹であった事を思い出した。
三十分かからない程の道程で、まさか酔うことに なろうとは。 今日は何から何まで情けないことずくめだ。
頭の中はまだ混乱している。
しばらく涼しい空気で頭を冷やそうと、人気のない路地の片隅でぼんやりと立っていた。
「ずいぶん浮かない顔だね。せっかく人が気を遣って退散したっていうのに」
叫ばなかった俺の努力を誰かに褒め称えていただきたい。
目を閉じて開くと、目の前でネスがにやにやと笑っていた。 とりあえず、彼にはもう少し心臓に良い登場を希望する。
「うるさいな。もう、何なんだよ、お前。どうして俺達の前に出てくるんだよ」
昨日から俺の日常はこいつに振り回されっぱなしだ。
俺の投げやりな悪態に、彼の顔から笑みがすっと消えた。 代わりに、拗ねたような怒ったような、微妙な表情を浮かべる。
「見えるのは僕のせいではないし、僕が見えてしまった以上は僕が見えなくなるまで付き合うのが信条なんだよ」
「解りやすく説明しろ」
「君、クローエから僕の事聞いたんだよね? できれば僕の姿なんて誰も見えない方がいいし、忘れてくれた方がいいんだよ」
「それじゃわからん」
ネスはやれやれといった様子で大げさに肩をすくめる。
「君達に僕を見る要素がなくなれば、僕の姿は見えないし、見えていたって事も忘れる。僕は君達に忘れて欲しい」
少しだけ、解ったような。やはり解らないような。忘れられたい。
それが彼の目的だとしたら、とても奇妙な事に思えた。
誰からも忘れ去られて、どうするのだ。 行き着く先には孤独しかない。そんな事を何故、望むのか。
「あれ、ちょっとは話聞く気になってきた?」
俺が突然神妙に考え込んだのを見て、ネスは何故か酷く嬉しそうに笑っている。
期待の目を向けてこちらを覗き込む彼を、俺はきつく睨んで返した。
「だって、お前はそれで、どうするんだよ。誰にも見えなくなって、さ」
「消えるよ。僕が一人になったら、もう意味がないから、消える」
一瞬、思考が止まった。
ゆっくりと「消える?」と反復すると、彼はまるで何でもないことでも話しているかのようにあっけらかんと答える。
「そう。行く末は消えるか、ずっとただいるだけ。僕は名無し、存在しないはずのものだから」
「……幻みたいなんだな」
それでは、彼の存在は何なのだろう。 まるで無意味ではないか。
ネスは、さっぱり気にしていない様子だけど。
「だから、僕が見えるってすごく危ないことなんだよ。存在しないものが見えるのは、君が君自身の存在を疑っているからだ」
ネスは幻のようなもので、それが見えてしまう俺は、要するに現実を見ていないって事なんだろうか。
こうしてこいつが見え続けているのは、現実から目をそらし続けている証拠なのか。
けれど、目をそらしたい現実って、何だ?――慣れちゃうのよ、本音を出さないことに
不意に、クローエの言葉が耳の奥に蘇る。
自分でも解らない自分の本音。でも違うんじゃないのか?
本当は「解りたくない」だけなんじゃないのか?
「あのね、テオ。望みっていうのはね、自分が思っているよりもずっと曖昧なものなんだ。明確な形を持っているようで、その中身は空っぽだったり、確かな形がるはずなのに、傍目にはちっとも見えてこなかったりするものなんだ」
少しだけ困ったような笑みを浮かべて、ネスはまるで小さな子供にやるみたいに俺の頭に手を添える。
「自分の信じたことだけで駆け抜けていけるほど、多くの人は強くはないからね。いいんだよ。別に強くなくても。それでいいんだ。だから一番最後の大切なところは見失っちゃいけない」
何で、俺はいい歳なのに自分と大して歳の変わらないような奴に黙って頭を撫でられてるんだろう、とか思わないでもなかった。
けれど、とりあえず今はそんな事些細な問題だ。
何となく、見た目はこんなのだが、ネスは俺よりもずっと長く生きているのかもしれない。
親子か孫か、あるいはそれ以上くらい、歳がはなれていたりするのかも。
だって、それじゃないとどうしてどうして俺は彼の手が覚えてもいない父親のようだとか、そんな馬鹿げたことを考えたんだ。
「何か、お前、結構良い奴なのかも」
「何だ、今頃気づいたんだ。遅すぎるよ、テオ」
俺達は互いの顔を見合わせて笑った。
ずっと、心の中で引っかかっていた何かが、コトリと音を立てて落ちていったような気がする。
割といい気分だ。
「じゃ、呼び止めて悪かったね。僕はまた女王様にお仕えしてくるよ」
「女王様って、あの茶髪美人?」
「会ったんだ。そう。美人で優しい、僕の女王マリア様」
軽い調子で笑い飛ばす彼に、俺は引きつった笑みを返すしかなかった。
その優しいらしい女王様に、会うなり化け物でも見たかのように逃げ出したのだ、俺は。
「ネス、そのマリアさんに伝えて。さっきは逃げてすみません。あんまり美人だったから驚いたんです、ってさ」
「ぷっ、ははは、伝えておくよ!」
さもおかしそうに吹き出して、彼は俺の前から姿を消した。
俺は取り残されて、ぼうっとしながらゆっくり家路を歩き出した。
何か頭の中がふわふわする。夢でも見ているみたいだ。マンションについて、エレベーターの自分の住む階のボタンを押して。
何だか急に、眠くなってきた。――あぁ、今日はとても、疲れ……
一人で母親の置いていったアップルパイを食べている幼い頃の俺がいる。
まだ小さな手が、フォークでパイ生地を崩す。
時計をしきりに気にし、やがて諦めたようにうつむいて黙々と食べる。
アップルパイが好物で、母さんはきっと今でも俺がそれを美味しく食べていると思っている。でも俺は、一人で食べている時のアップルパイがあまり美味しくないってことを、とっくの前に知っていた。
俺は病院のベンチで考え事をしていた。
改めて自分の行動を思い返してみれば、本当に考え事ばかりしている。
しかもそんなに考えているくせに、言葉にする事はほんの一部、それも考え事とは裏腹な事だったりする。
本音は吐き出せずに埋もれたままだ。解っていた。俺は怖かったんだ。
自分の弱さを認めたくなかったんだ。俺の本音は弱さだったから。
人気ない夜の待ち合わせ室に、スーツ姿の女性が入ってくる。
彼女は迷いなく俺の方に向かって歩み寄って来た。
「テオ」
「はいそうです。マンションのエレベーターで貧血起こして卒倒した貴方の息子のテオ君ですよ」
彼女――母さんは呆れたような、目をこちらに向けた。
「元気そうじゃない」
「そりゃ大したひどくなかったし。ちょっと熱が出たくらいで、他は何も」
「そうなの。なら良かったわ」
母さんは素っ気ない声でそう言うけれど、ほっとしたような表情がにじみ出ているのに気づいて、俺はこそばゆい気持ちになった。
病院に担ぎ込まれたのなんて、子供の時にはしかで高熱出した時以来だ。
「自分で帰っても良かったんだけどさ。たまには母さんと肩並べて帰るのも悪くないと思って」
「珍しいこと言うのね」
確かに、今までの俺の事を考えれば有り得ない事だろう。
必要な事以外はあまり話さず、物わかり良く割り切って、一人でもやっていけるのが彼女の知る息子だ。
それが、俺の作ってきた姿だ。二人で車に乗って、夜の街を走り出す。
矢のように過ぎ去っていく電飾の光を、俺は助手席から眺めた。
言っておかなければならない事があるのだ。
「たまにはさ、二人で一緒に夕食でも食べよう」
「一応倒れてたんだから、大人しく寝なさいよ」
「食事抜いたせいで貧血起こしたんだから、食べた方がいいんだよ、それに」
本音を伝えるのには勇気がいる。 辛かったり、恥ずかしかったり、自信がなかったり。
人生を悟ったつもりで、自分に意味を探したりする事で、俺は本音に目隠しをし続けていたのだ。
俺がクローエに感じた近親感は、吐き出せない本音に溺れそうな所が似ていたから。
彼女は本音を吐き出す勇気を持った。 俺だって、言葉にしなくてはいけない。
それこそが、伝えなければならなかったことのはずだ。
「やっぱりさ、一人で食べてもさ、おいしくないし。これからさ、時々でもいいからちゃんと二人で食べよう。ちょっとくらい遅くても、俺待つよ」
母さんは道路と俺とミラーとを順にせわしなく視線を巡らせる。
困っているみたいだ。
「こんな事、もっと早くに言わなくちゃいけなかったんだ」
それは多分、アップルパイが美味しくない理由に気づいたあの幼い日に。
男だからとか、弱いと思われたくないとか、安っぽい自尊心にまみれる前に。
「もっと寂しかった頃に、言うべきだったんだ。本当は平気じゃなかったってさ」
それからしばらく、俺も母さんも黙りこくったままで、ただエンジンの音が響いていた。
そして、ようやく俺は気づいたのだ。 車はマンションに向かっていなかった。
「今日は外食しましょうか。たまには、いいでしょう」
「今度は母さんが作ってくれよ」
「今度はね」
何気ない会話だったかもしれない。 それでも俺達にとっては久方ぶりの親子の会話だったのだ。
俺も母さんも、厄介な所が親子で似ている。俺達は今まであまりにも言葉足らずだったのだ。
ギムナジウムの門で、俺は会いたいと思っていた顔を見つける。
相変わらず野暮ったい眼鏡に三つ編みおさげだが、俺は思わずどきりとした。
晴れやかに笑う彼女は、今までよりも可愛らしく見える。
「おはよう、テオ君。あのね、報告したい事があってね」
どうやら彼女は彼女で、頑張っていたようだ。
「おはよう」俺も報告したかった。
本音で話したいことが、たくさんある。
俺達が心に溜めていたものは、認めたくない自分の弱さで。
それを言葉にする事は、涙を流す事に似ていた。
辛くて、恥ずかしいけど、大切な事。
俺達はこれから少しずつでも、たまった涙を吐き出さなくちゃいけない。
それが言葉足らずに生きてきた、俺達への課題だ。
そして、俺達が自分の言葉を形にした時には、もう……――きっと、彼の姿は見えないんだろう
コーヒーの匂いが心地よく香る。 昼時には早すぎるカフェは、人気があまりない。
ネスは新しく字が書き足されていく本を広げた。毎度恒例のイベントだ。
「テオ君から伝言。逃げちゃってすみません、美人だから驚いたんです、だってさ」
彼の慌てふためいた顔を思い出し、ネスは腹の底から湧き上がって来る笑いを押しとどめた。
良くも悪くも、嘘をつけない、ごまかしも下手くそな少年だった。
だからこそ、自分の本心を自分でも解らないように隠してしまったのだろう。
クローエはクローエで、弱気で考えに自信が持てない少女だった。
本心を知りながらも伝える勇気を出せずに隠してしまった。
違うようで似ている二人は、奇妙な事に、忘れ去られる存在のネスを介して知らず知らずの内に繋がってしまった。
ネスを忘れたとしても、彼らが会って話をした記憶は漠然と残るのだ。
目の前でマリアは、その陽光に透ける髪を三つ編みに結っている。
「あらそう。別に気にしてなかったのに、わざわざ律儀な子だわ。ねぇネス、似合う?」
クローエと似たようなおさげを作った彼女は嬉々と尋ねるが、肝心のネスの反応はいまいちである。
ひどく不機嫌な顔つきになっていく「女王様」の姿に、ネスは慌てて取り繕うような笑みを浮かべる。
「かわいいけど、普通に流してる方が僕的には好みかなぁ」
「とりあえず褒めておくのが女性に対する礼儀だわ」
マリアは三つ編みをほどきながら、わざとらしく膨れっ面を作っている。
齢三百歳以上の吸血鬼とは思えぬ仕草だが、その点についてはネスも齢百歳を越えている以上指摘するのはやぶ蛇である。
「で、この子達だけど、上手くいきそうで良かったわね。一時はあっちへこっちへと、どうなるかと思ったけど」
「その点については僕、今回かなり頑張ったと思うよ」
ネスは本のページを繰りながら、満面の笑みを向ける。
そんな彼の様子を上目遣いに見て、マリアも微笑んだ。
「変わるきっかけなんて、どこに転がっているかわからないものね」
「そりゃそうさ。少なくともあの二人はいい友達になれると思うよ」
初めは、ただの同類相哀れむ近親感だったとしても、そこから一歩進んだ先にはきっと今までとは少し違う明日が待っている。
不器用ながらも少しずつ、彼らの距離は縮まっていく。
大切な事を大切な時に伝えられるように、少しずつ涙を吐き出して、軽くなった胸を抱えて歩いていける。
心の内にあったのは伝えられなかった事。
喜びや悲しみを受け止めて大切に抱えた言の葉の涙 。
伝えたいことは、この胸に溢れるほどに眠っていたよ。
2005.4.23更新
前回と似たような感じに、こちらはSCC原稿真っ最中に気晴らしで書いていたお話です。
ギムナジウムとか書いてます。舞台がドイツ設定で、ドイツの学校形態は日本とはちょっと違うみたいなのであえて「高校」という表記は避けてみました。
大学進学者向けの高校、みたいなものらしい>ギムナジウム
別に話を日本に戻しても良かったんですが、そろそろこのシリーズも段々終盤に向けていこうと考えておりますので、あえてヨーロッパのままで。一気に二人も見える人が出てきたらどうなるのかなー、って思いながら書きましたが、基本的にこのシリーズはネスと語り手の1対1の対話で成り立っているわけでありまして、悩みに悩んだ末にクローエはあくまで同じ立場を共有するサブキャラな立場に落ち着きました。
独りでご飯を食べるのが寂しいなんて、私は一人暮らしになって初めて知りましたよ。