未だ見ぬ星

 

 人は死ぬと星になるのだと、祖母は言った。

 その翌年、祖母は星になった。

 

 蝉時雨。
 きっとこういう場面の事を言う。

 四方から溢れるように響き渡る種々の蝉の声は、雨音のように私の体を打つ。 縁側で一人、よく冷えた西瓜を噛った。 蝉の声と噛み音がまざり不協和音となったのに、何故だか少しだけがっかりとする。
 腰を上げると、板が軋んだ音を立てた。
 古い家なのだ。
 祖母が亡くなって以来、ほとんど倉庫と化しており誰も住んでいない。
 廃屋となったこの家は、朽ちていく運命にあった。

 

 毎年お盆には、母の実家があるこの田舎町にくる。
 母が珍しく、久しぶりに祖母の家を片付けようなどと言い出すので、何かおかしいと叔父を問い詰めた。
 どうやら叔父は、村外れにあるこの家を取り壊すつもりらしい。
 祖母によく懐き、亡くなった後も夏にこちらに来る度にこの家を訪れていた私には、どう切り出すべきか迷っていたのだという。
 緩やかに朽ちていくこの家は、5年の時を経てすっかり衰えてしまっていた。 年に一度、私は出来うる限りこの家を手間暇かけて労ってきたが、柱の腐りが進んでいる所もあって、なかなかどうして危なっかしいものがある。
 近所の小学生が入り込んで床を踏み抜いた事もあったようで、放置しておくよりかはいっそ畑にでもしてしまおう、という話らしい。
 この家が無くなるのは寂しいが、仕方ない。 こんな事で子供じみたわがままを言う気はなかった。
 私はこの家での最後の夏を噛み締めているのだ。

 母は私に西瓜を与えて、台車と草刈り鎌を借りに行った。
 ぼんやりと白く沸き立つ入道雲をあおぎ見ながら、赤身の薄く残る皮を投げ捨てる。
「うわっ!」
 西瓜の皮が返事をした。
 否、そんなわけはない。 皮が消えた茂みがガサゴソと動いたかと思うと、下から金色が生えてきた。
 こちらを見上げる、その瞳は碧。金髪の、外人の少年だった。
「ミヨちゃん?」
 彼は、流暢な日本語でそう答えた。
「……あの、私の名前は美奈ですけど」
 ミヨって誰の事だろう?
 突然の思わぬ展開にすっかり混乱した頭で、私は答えを探す。
 そして気付いた。 美代は祖母の名前だ。
 田舎町には似つかわしくないこの少年、祖母の知り合いなんだろうか。 しかし、私と間違えるのはおかしい。
 それとも同じ名前の別人なのか。 彼は不躾に思えるほど私の顔をじっくりと伺ったあと、苦笑いを浮かべる。
「生きてる人だった。ミヨちゃんじゃないね」
 変な事を言う人だ。
 確かに祖母はすでに亡き人だが、彼は私とそう歳が変わらない。若い頃の祖母など知る由もないはずなのだが。
「マリア、人がいる」
 茂みから這い出して、彼は頭の草をふりほろった。後ろから現れたのは、これまた外人の美女だった。
 赤みがかった茶色の長い髪を背中に流して、夏空の色をした瞳が私を射抜く。
 スカートの裾についた草を払い、彼女は少年を睨みつけた。
「何やってるのよ、ネス。悪ふざけはよしなさい」
 ネス、とは彼の名前だろうか。
 それにしてもこのマリアという女性は目の覚めるような美人だ。少年も白人らしい小綺麗な顔をしていたが、彼女の強烈な印象の前には霞んでしまう。
「だって、前にこの家に来たのは随分昔の話だからさ。ミヨちゃん亡くなってから随分経つし、まさか人がいるとはね。今、日本ではあれでしょ、御先祖様の魂が帰ってくるとか言う……」
「お盆の事ですか?」
 私が口を挟むと、彼は大袈裟に頷いて手で膝を叩いた。
「それだ。オボンだ。ミヨちゃんに教えてもらったんだった」
 彼は何故かマリアに向かって得意げに胸を張ったが、冷たい視線に流されてしまった。
 幼い子供のようにわざとらしく膨れっ面を作った彼は、年季の入った家の様子をしげしげと見回した。
「随分くたびれちゃったね、この家も」
 その感慨深げな様子に、少しばかりの親近感を覚える。
 他にもこの家を愛する人がいたのだと言う事が、ただ純粋に嬉しかったのだ。
 遊びに来ると、いつも祖母は私が今座っている縁側で待っていた。 夏は西瓜を井戸水で冷やし、冬ならこたつに蜜柑を用意して。 手作りのお手玉、庭では毬付き、天気が悪ければ家の中であや取りをした。 赤い毛糸は、祖母の手のひらの中で魔法のように姿を変えていくのだ。
「お婆ちゃんの知り合いなんですね」
「うん。昔、初めてこの国に来た時にね。でも生きてたとしても覚えてないよ」
「そんな事ないです。お婆ちゃん、人の顔覚えるの得意だったもの。外国人の男の子なんてそんなに会う機会なかったっだろうし、きっと覚えていたと思います」
 祖母は八十を越えても物忘れどころか病院とも無縁の人で、遊びに行くと趣味の旅行や民謡で出会った人々の事を話して聞かせてくれた。
 私がとっくに忘れている事もよく覚えており、何となく好きだと言った花を庭に植えてくれていた事もあった。
 その花、百日草は今もこの庭に咲いている。 元々野生で咲いていたものの株を移してきたそれは、我が物顔で一帯を占拠していた。
 ネスは百日草の群れの中に座り込んでいる。
「こうも広がってると星が転がってるみたいだね」
「そうですね。お婆ちゃん 星の花って呼んでました」
 夜に庭の外灯を灯すと暗い草の色の中で、黄色い色は星のようにも見える。 だから祖母はこの花をそう呼んでいたのだ。
 本当の名前を教えてもらうまでは、漠然とそういう名前なのだと思っていたものだ。
 夏の夜、縁側に出て星を眺めるのが好きな人だった。空にも地上にも星があると綺麗だね、と彼女は笑った。
「ミヨちゃんらしいなぁ。ロマンチストだったもの」
 彼の様子がとても楽しげだったので、私も何故か嬉しくなった。
 相変わらず言っている事はよく解らないけれど、彼が純粋な人なのだという事は解る。
「お隣いいかしら」
 半ば呆れたように成り行きを見守っていたマリアが、私に歩み寄る。 どうぞ、と返すと彼女は口元に柔らかな微笑を浮かべて、隣に腰掛けた。
 間近で見ると、改めて綺麗な人だと感服する。欧州の人独特の整った横顔を見て、自分との差に密かなため息をついた。
「この家は素敵ね。愛されていたのがよくわかるわ。取り壊しになるの、残念ね」
「ありがとうございます。そう言ってもらえて祖母も喜んでいると思います」
 この家は果報者だ。こんなに愛されている。
 私は、彼女の言葉が我が事のように嬉しかった。社交辞令かもしれないが、今はこの家にかけられる労りの言葉全てが嬉しく、素晴らしいもののように聞こえるのだ。
「ネスが見えるのが、みんな貴方みたいな人なら、悲しくなる事なんてないのに」
 彼女の言葉の意味は理解できなかった。ネスといいマリアといい、おかしな事を言う人たちだ。
 見えるって、どういう事だろう。
 そこにいる人が見えるのは、ごく当たり前の事なのに。 それじゃぁ、まるでネスが幽霊みたいだと思う。
 スイカの皮に驚いて飛び出す幽霊なんてちょっとしたコメディだけれど、それなら彼があの姿で私と祖母を見間違えてもおかしくはないし、祖母が覚えてないだろう、と心配した理由も納得がいく。
 そこまで考えて、我ながら馬鹿げた空想だな、とこっそりと苦笑いをした。
 祖母が外人の男の子と知り合いだった話も、霊感が強かったなんて話も、全く聞いたことがない。 私だって、学校の肝試しで恐ろしい思いをしたことなんてただの一度もなかった。
「もうすぐ母さんが帰ってくるし、私もそろそろ叔父さんの所に戻らないと。 今晩は誰もいないですし、ちょっとくらいあがりこんだってばれませんよ。腐った床には注意ですけど」
 この夏限りで取り壊されるこの家。彼らに最後の客人となってもらうのも、そう悪くない気がする。
 ネスは思ってもみなかった、という様子で目を丸くしながらこちらを見ている。
 さすがに不法侵入を推奨するのはやりすぎか。
 そうだろう。普通に考えれば、ホテルや旅館くらい、もう取っているのだろうし。
 しかし、彼の驚きは私の危惧とは別の所にあるようだった。
「君は今夜は来ないの? よく晴れるから、きっと星が綺麗だと思うのになぁ」
「だけど、私、明日には街に帰るんです」
「なら尚更。最後なんだよね? 美代ちゃんは星になったんだから、夜にならないと会えないんだよ」
「……あ」
 そうだ。祖母は言っていた。 死んだら、人はみんな星になると。
 この庭の花は、自分が死んでも残しておいてと言った。 死んだら、空の上からこの庭にある星の花畑を見たいから、と。
 明日私は街に帰る。 この庭の星と、空の星。どちらも見られるのは今日で最後だ。
「私、夜にもう一度ここに来ます」
 こっそり抜け出して、朝までに戻れば大丈夫。これで最後なのだから。
「待ってるよ」
 ネスは碧色の目を細めて柔らかく笑った。

 

 雲一つない夜空だった。
 こっそりと叔父の家を抜け出し、祖母の家を目指す。
 草むらに虫の合唱を聴きながら、砂利道を歩いた。
 懐中電灯に照らされた蛙が慌てて逃げ出すのを見送ると、ぼんやりと茂みの向こうに薄明かりが差しているのが解る。祖母の家の明かりだ。
 ネスは、ずっとそこにいたのか、昼に私がいた縁側にマリアと寄り添って座っていた。
 外灯はついていない。彼らの持ち物だろうか。レトロなランプに火が灯されている。
「おかえりなさい」
 まるで元からこの家の住人であったかのような口ぶりで、ネスは私を迎え入れた。
 昭和半ばからある日本人らしい家屋と共にある外国人の姿は、少し奇妙に映る。
 本人は何ら気にしていない様子で、彼は私を隣に座るように促した。
 三人で並んで、空を見上げる。
 天の川が空を流れゆく、田舎の夜空が私は好きだった。
 都会では地上の明かりにかき消されている弱々しい星の光が、川に見えるほどに輝きを散らしているのを、眺めるたびに信じがたく思う。
 あの無数の星の群れの中で、祖母はこちらに手を振ってるのかもしれない。
「あの、ネスさんは祖母と会ったことがあるんですよね」
 昼に気になった話の続きを思い切って切り出してみる。
「うん。この本にも書いてるし。書いてあるって事はもう忘れられてるって事なんだけど」
 ネスは革張りの古めかしい本を持っていた。 めくられていくページはまだ半分ほどが白紙のままだ。
 言っている意味がよく解らない。
 つまり、相手がもう忘れたような事を日記に書き留めている、という事だろうか。
「小さい頃、ミヨちゃんはずっと探していた。自分のお父さんの星。 早くに死んじゃったんだって。お母さんが、お父さんは星になったんだって、いつも言ってたって」
「それ、祖母が話していたんですか?」
 そんな話は聞いたことがなかった。
 この田舎で生まれ育って結婚して、ずっと生きていた事は知っている。 しかし、祖母の幼い頃の思い出はあまり聞いたことがない。
「君よりもうんと小さい頃にね。いつも探してばかりだったから、僕の姿も見えたんだろうなぁ」
「でも、ネスさん、私とあまり年が変わらないですよね?」
 昼間も似たような事を言っていたけれど、それではまるでネスが幽霊か何かみたいだ。
「だって、僕は人間じゃないもの」
 何でもないことのように、彼はあっけらかんとしながらそんな豪快な嘘をつく。
 思わず笑ってしまった私に、眉をひそめながら彼は話を続けた。
「うん、信じないよね、普通は。それでいいんだよ。 君だって、この家がなくなる頃には僕の事を忘れるんだから」
「まさか。そんなにすぐに忘れちゃったりしないわ」
 この家の寿命はあと一月もないというのに、こんな印象的な出会いをそうそう忘れるものではない。
 彼は少しだけ困ったように、微笑んでいた。
「だから、僕は人間じゃないから。人間と同じ世界に生きていないからだよ。 ミヨちゃんも3回目には僕を忘れてた。きっと結婚して、お父さんを捜す事もなくなったからだね。 忘れた瞬間に僕の存在は君の心から消える。僕の姿も見えなくなるよ」
 冗談にしてもやはり抽象的すぎて解らない。しかし、彼にふざけた様子はない。
 先ほど笑ってしまったことが急に恥ずかしくなって、私はうつむいた。 不思議な話だ。そして、悲しい。
「誰も貴方を覚えていられないんですか」
「ずっと僕が見えて覚えていられたら、その人はもうどこにも居場所がなくなっちゃった人だ。 だから僕としては忘れてもらえないとイヤだな。 見えないものばかり追いかけてないと自分を保っていられないなんて、悲しいじゃないか」
 それは、確かにイヤかもしれない。 現実に居場所がない人ばかりでは、見ているこっちも辛そうだ。
「でも寂しくないですか? 私は誰にも自分の事が見えない、忘れられてしまうなんて耐えられないわ」
「僕が見える人だらけの方が寂しいよ。慣れちゃったんだろうな。今はマリアがいるから、それでいいや」
 今まで隣で黙って話を聞いていたマリアが、突然顔をそらした。
 薄闇の中ではよく見えないが、きっと照れて頬を赤くしているのだろう。
 何だかかわいいな、と微笑ましく思えた。心が少しだけ楽になる。
「僕は忘れないからいいんだよ。そうだね、寂しくなったら夜空を見上げる事にする」
「夜空を?」
 問い返すと、彼はどこか満足げに頷いた。
「いつかきっと僕はあの空に君達の星を見る。 あの星の中に、今まで出会った人がいる。だから、いいんだよ。」
 僕が消えるのは、きっと君が死ぬよりずっと後の事なんだよ、と彼は笑った。

 祖母は星を探すのをやめてしまった。
 記憶が薄れたから?
 他に大切なものができたから。

 違う。

 祖母は知ったのだ。
 あの星のどれが父親の星なのか、そんな事は解らなくてもいい事だったのだ。
 夜空を見上げれば、常にあの星のどれかが自分を見守っている。そう信じるだけでよかったのだ。
 太陽がまぶしすぎる昼間も、雲にカーテンを引かれた闇夜も、見えないだけで確かに存在するのだという事を信じた。

「これからも、ずっとそうやって?」
 彼は迷うことなく頷いた。

 夏の夜風に、揺れる金の花。
 祖母が目印にすると言った、地上の星空。

 私は玄関まで走った。
 外灯をつけ、裏手に放置してあったシャベルと植木鉢を抱え表に戻ると、鉄の切っ先を百日草の根付く地面に落とす。
 二人は呆れたようにこちらを見ていた。
 突拍子もない事を始めているのは、自分でも解っている。
 もし彼が本当に、全ての人間に忘れ去られてしまうものならば、瞳に映る事すら許されないものならば、私は彼が見えている内に、覚えている内にやっておかなければならない事がある。
 百日草を一株ずつ、二つの植木鉢に移した。
 綺麗にできた方を手にとって、それを二人に差し出す。
「家でも、お気に入りの場所でも、どこでもいいので植えて下さい。いつか私が星になったら、きっとこの花の咲く場所を探すと思うから」
 彼を忘れたとしても、この花の意味を忘れることはないだろう。
 星になって空を見下ろした時に、私はこの花の咲く場所を見つける。 忘れていても、見えなくても、私はこの花に微笑みかける。
 今日出会って、恐らくこれからずっと再会することはない彼らに、こんなエゴを押しつける事自体、失礼でばかばかしい事なのかもしれないけれど。
 それでも、この花にはきっと意味がある。
「忘れていても、きっと見つけます」
 ネスはぼんやりと、しばらくの間手の内にある鉢植えを見つめていた。
 やがて、目を閉じて大きく息を吐くと、口元に微笑みを浮かべた。
「ありがとう。大切にするよ」
 百日草に顔を寄せ、鉢を大切そうに抱え直す。

「君が忘れても、僕は忘れないから。僕も、星の中に君を捜してみるよ」

 

 田舎道を走る車。 砂利道を行く音。蝉の声との不協和音。
 窓の向こうに、茂みに隠されて祖母の家の屋根だけが顔を覗かせているのが見える。
「美奈、その鉢植えどうしたの?」
 助手席の母の声に、私は我に返った。
 都会へ帰るためのあぜ道を、車は行く。 次にここに来る時には、あの屋根を見ることはなくなるのだ。
「お婆ちゃんの庭の花。ごめん、夜にこっそり抜け出して取ってきちゃったの」
「そんなの、朝に言えば寄ってあげたのに」
 母の言うとおりだ。それほど時間のかかる作業でもないのだから、朝でもよかったはずだ。
 理由があったはずなのだけど、何だったろう。
 ああ、そうだ。思い出した。
「星を見たかったの」
 母は笑い出した。
「お婆ちゃんもあんたも、ロマンチストよねぇ」
「いいじゃない。都会じゃあんな空見られないわ」

 あぜ道を行く。

 道ばたに萩の花が咲きはじめ、空に浮かぶ入道雲もあと一月もしない内に消え、高く淡い色の空が秋の訪れを告げる。

 家に帰ったらこの花を植え替えよう。
 少し大きめのプランターに。 年を追うごとに、花の数が増えるように。
 いつか、祖母が都会の眩しすぎる光の中で、この花を見つけてくれるように。
 そして私は明るすぎる夜空を見上げて、見えないけれど確かにある星の存在を信じ続けるのだ。

「美奈、どうしたの? そんなにあの家が壊されるのが寂しい?」
 母の声が妙に遠くに聞こえる。

 寂しい、けど違う。そうじゃない。

 どうして私は泣いているの?

 

「あーぁ、もう元に戻っちゃった」
「忘れたら、ネスに花を渡した事自体、無かったことになってしまうものね」
 縁側に座って、二人は庭を眺めていた。 シャベルで掘られた穴は一つ分。
 裏手には、土の入っていない植木鉢が一つ転がっている事だろう。
 そう、今マリアが脇に抱えている植木鉢が。
「って、何で持ってるのマリア……」
 マリアはにっこりと満面の笑みを浮かべ、ロングスカートの裾を少しだけあげると固結びを作っている。
 そしてシャベルで百日草の脇を掘り返し始めた。
「もうここもなくなってしまうんだし、花と植木鉢が一つ無くなったって、誰も気にしないと思わない?」
「ドロボーだと思うんだけど」
「何か言った?」
 剣呑な響きの声に、ネスは慌てて首を横に振った。触らぬ神に祟りなし、である。

 彼女が白く細い指を泥だらけにして花を植え替えている様を、ネスはじっと見つめていた。
「君が気にする事ないのに、って思っただけ。どうせみんな忘れるんだから」
「貴方、いつからそんなに割り切り良くなったのよ。昔はもっとこう、もっとメソメソしてなかった?」
「……いつの話? 百年くらい前?」
 引きつった笑いを浮かべるネスに、マリアは鉢植えをつきだした。
 それを両手で受け止めて、不機嫌な顔をした彼女を見上げる。
「マリアのこういう所、好きだけどね」
「それはどうも」
 マリアはネスの隣に腰掛け、空を見上げた。

 青く澄んだ昼の空では、星の光は届かない。
 蝉の声、青の中を泳ぐ白い雲。
 その遙か向こうに、数多の星は輝き続ける。

「僕らには家がないけど、いつかお気に入りの場所でもみつけて、これを植えにいこうね」

 約束は消えてしまった。
 けれど、この花を地上に咲かせることは、きっと意味がある事なのだ。
 見えない星を、信じるように。

 

 未だ見ぬ星があの空に輝く頃、この花が星のように咲き誇るのを待とう。

 忘れられた約束が、その時確かな意味を持つ。

 きっと、夜空を見上げるのが少し懐かしくて、温かい事になるから。

 

 

2004.12.8 更新

季節はずれですみません。
8月末更新予定であともう少しで終わる、という所で、ネット関連で色々トラブルがあったため、4ヶ月もお蔵入りする羽目に。
おかげで冬もこれから本番というこの時期に、お盆のお話を書く事に…。
冬に書き直すのも来夏まで待つのもどうかと思うので、このままアップ。

私は大変なお婆ちゃん子でした。小学生の時に亡くなってしまいましたが、今でも祖母にもらったぬいぐるみを 引越し先にずっと連れて行っております。思い出は本人の姿が消えても、それが大切であればあるほど、形を変えてずっと残っていくものですね。

 

戻る