Nowhere Man

 

生きていればね、立ち止まる事だってあるだろう。

振り返る事だって有るだろう。

 

 まさか、こんな事になるとは思っていなかった。
「本当に、何で見えたんだろうなぁ…」
「波長が合ってたんじゃない?」
 木の下で二人、座り込んで話している。誰も俺達に気付かない。誰にも俺達は見えない。
 俺は、いつまでここにいるつもりなんだろう?

 この道を通る時は、いつも憂鬱な気分になる。
 似たような背格好の街路樹が道ばたに整列している、その内の一本だけ妙に枝振りのいい木がある。
 丁度公園の入り口で、その木は目印のようになっていた。
 かく言う自分も、ずいぶんとこの木を待ち合わせの目印に利用させて貰ったのだ。
 この木の前を通ると、待ち合わせの必要などなくなった今になっても、思わず立ち止まってしまうのだ。
 今日も俺は、その木の前で立ち止まった。
 いつもと違う事がひとつだけある。そこに先客がいた事だ。
 日本の、特に名所もない街角の公園には似つかわしくない、金髪碧眼の少年。 歳は高校生くらいだろうか。少なくとも俺よりは年下だ。
 木に寄り掛かって、人待ちをしているのか、ぼんやりと脇の横断歩道を眺めている。 身なりは白いシャツと黒のスラックス。黒いネクタイはだらしなく解いて首に引っ掛けている。
 喪服でもないのだろうし、留学生にしても近隣に黒い制服の高校はない。
 それに今は平日の昼間なのだが、奇妙な事に俺以外の誰一人として彼の事を気にも止めていない。
 外人の少年が目立つ木の下にいるのに、横目で気にする人も振り返る人もいない。
 奇妙な違和感を覚えつつも通り過ぎようとしたその時、彼が突然こちらを振り返った。
 碧の瞳と視線がぶつかる。彼は、訝しげに小首をかしげた。
 そうだよな、じっと見てたら失礼だよな。苦笑いを浮かべて頭を下げ、逃げるように立ち去ろうとした俺の背中に、少年は思っても見ない言葉を投げ付けてきた。
「お兄さん、ひょっとして僕が見えるの?」
 俺は、ゆっくりと後ろを振り返った。
「………はい?」
 気のせいだ、きっと。後ろから聞こえてきたが、綺麗な日本語だったじゃないか。人違いだ。言ってる意味が解らないではないか。
 俺が自分を納得させる材料を揃えて満足した瞬間に、少年は困ったような笑顔でこう言った。
「やっぱり。見えてるんだね…」
 見えるさ。見えるとも。今どき珍しいくらいに目が良いのが自慢だ。視力検査で1.5よりも下になった事がない。当然、眼鏡もコンタクトも必要無い。俺の目は健康だ。
 だとしたら、おかしいのは俺の耳か、頭の中身か。後者は勘弁していただきたい。
「何で見えてるのかなぁ…。そういうタイプに見えないんだけど」
 そんな事を言われましても。
 そこにいる人間が見えると何故いけないのかが、まず理解できません。 おかしいのは俺じゃない。
 文化と日本語の理解度の違いが、俺達の相互理解を阻んでいるんだ。きっとそうだ。
 ようやくここまで自分を納得させる材料を仕立て上げた訳だが、そんな俺の秘めたる心など知る由もない彼は、こちらに近付いてくる 。
 後ろから急ぎの用でもあるのか女性が走ってきて、ぶつかりそうだった。思わず声を上げかけたその時、目の前で俺の思考を真っ白に染め上げてくれる事が起こった。
 すりぬけたのだ。女性が、少年の体を。
「あれ? あ、やっちゃった。お兄さん、まぁ深い事は気にせず」
 気にしないと言うのは無理な話だ。
 幽霊? それなら今までの言動を納得する。
 学校の肝試しや、悪ふざけに心霊スポットに行っても何一つ怪奇現象に巡り合えなかったこの俺に、いつから霊感が備わったのか甚だ疑問では有るが。
「幽霊じゃないよ、ほら、触れる」
 少年はぺちぺちと硬直した俺の額を叩いた。
 頭の中が再び白紙になる。どうして納得するたびに覆されるのか。
「まぁ、もうちょっとスミによって話さない? 僕はともかく、君は相当邪魔だよ」
 彼に引きずられるように、木の下へと移動する。
 混乱する頭の中の整理を試みた。とりあえず、腕時計で時間を確認してみる。午後12時30分。
 午後の講議は一時から、大学まではバスで15分。 バスの時間は――12時28分。
 別の意味で、頭が真っ白になった。
 先ほど女性が走っていった意味を理解した。バスが発車しそうだったからだ。 次のバスは12時50分。それでは間に合わない。
 商店街を近道をして全力疾走をすれば、まだ滑り込みで間に合うだろうか。
「あ、お兄さん今止めといた方が……危ないから」
 横断歩道の信号は青信号。何が危ないというのか。
 悪いが彼が幽霊なのか、俺の妄想の果ての幻覚なのかは、この際どうでもいい。
 今日はレポートの提出日なのだ、サボるわけにはいかない。 しかも、厳しい事で有名な教授の講議だ。遅刻などしたら大幅に減点されかねない。
 そうこうしてる内に点滅を始める青信号。慌てて走り出した俺の目を掠める、黒い影。
「あ……」
 次の瞬間、意識は深い闇の中へと落ちていった。

「だーから危ないって言ったのに。人の話は最後まで聴くもんだよ、お兄さん」
 気付いたら俺は道路に寝転んでいて、先程の少年がこちらを見下ろしていた。
 慌てて起き上がり、信号を見る。赤だ。
 まずい、早く渡らなくては。 そう思い立ち上がろうとした所で、異変に気がついた。手をついたアスファルトの地面、赤黒い液体がシミを作っている。
 その先を、視線でたどる。 そこに横たわってるのは、――自分だ。
「人の事幽霊扱いしてくれて、自分が幽霊になってたら世話ないよね」
「これ、俺か? 俺が死んでるのか!?」
「まだ死んでないよ。ほら、糸繋がってる。……切れそうだけど」
 良く見ると、俺の体(否、幽体と言うべきか)から肉体に向かって、光る細い糸のようなものが伸びていた。少年の言う通り、今にも切れそうな細い糸だ。
「こ…これが切れると?」
「もちろん死ぬよ。あ、救急車来たね。警察も。信号無視の車の人、連れてかれたよ」
 気付けば、周りには救急隊と警察と野次馬が集まっている。
 誰も俺とこの少年に気付いている様子はない。俺の体が救急車に運ばれていく。
 そこで少年は思い出したように言った。
「早く体に戻りなよ。今でも充分死にそうなのに、時間が経ったら戻れなくなるかもよ」
 体に戻れない、となるとそれはつまり死ぬと言う事だ。
 慌てて救急車に駆け寄る。 さすがに幽体だけあって、あっさりとすり抜けて車内に入り込む事が出来た。
 自分の体とはいえ、生々しい傷に顔を歪めながら、とりあえず自分と重なるように横になってみる。
 救急車の天井。乗務員が医療器具を持ってやりとりをしているのが見える。

……見える?

 体に戻ったのに、俺は意識がないはずなのに、はっきりと見える。
 救急車が走り出す。 俺の肉体は、病院へと運ばれていってしまった。俺の幽体を残して。
 サイレンは遠ざかり、救急車が消えた道の先には、ずっと細い糸が伸びていた。
「どう言う事だ…?」
「僕に言われましても」
 思わず睨み付けた俺に、少年は困ったように肩をすくめてみせた。


 名前を尋ねたが、そんなものはもうずっと前からないのだと彼は言った。
 名無し。 ネームレスだから、略して皆はネスと呼ぶのだと言う。
「それっておかしくないか、あだ名でも一応名前だろ。俺だって生まれた時は名無しだけれどさ、 今は涼って名前が有る」
 名無しと呼ばれているのなら、名無しというのが名前になるのではないか。
 純粋にそう思ったのだが、彼のいう「名前」と俺の考えている「名前」はニュアンスが異なるらしい。
「えーとね、呼び名と言う意味での名はネスで別にいいんだけど。存在としての名前がないっていうの?」
「さっぱり意味がわからん、もっと抽象的ではない表現で頼む」
 俺の要求に対し、彼はしばらく頭をひねった後、こう言った。
「世界には二種類のある。現実、お兄さんが普段生活してるこちら側の世界。 あともうひとつは、幽霊とか精霊とか魔物とか、幻や精神のあちら側の世界。 ネームレスってね、そのどちら側でも存在しないはずのモノ。 中間に位置する不確定なモノだから、名前をつけられないのさ」
 解ったような、解らないような。やはり抽象的すぎる。
 俺の反応が不満だったのか、ネスはむっとしたような顔で公園を囲むフェンスを指差した。
「わかりやすい具体例を出そうか。こちら側がこの世、フェンスは三途の川で、その向こうの公園があの世。 元からあの世の存在はこの世に行き来できるけど、この世の存在は向こうに行ったら戻って来れない。 生まれ変わったら戻れるけど」
 とりあえず、この説明で世界観は理解できた。
 今の俺にとっては全くしゃれにもならない話だが、この状況だからこそ信憑性が有るとも言う。
「僕は、強いて言うなら三途の川にかかってる霧みたいなもの? どちらの世界の物なのか、境目もはっきりしない 」
「あぁ、やっと何となく解った。あれか、波打ち際の砂を海底と呼ぶか砂浜と呼ぶか、みたいな話なんだな」
「そんな感じ。幽霊も近いものがあるけど、彼らは方法さえあればちゃんとあの世にいけるからね。 名無しとは根本的に違うのさ」
 ネスは木の根元に咲いていたたんぽぽを、ひとつ摘み取った。
 黄色く丸い花を、彼は道ばたへと放り投げる。それは、道行く人の誰にも踏まれる事がなかった。 アスファルトの上に転がったたんぽぽは、次の瞬間には跡形もなく消えて、元通り木の根元に咲いている。
 そういえば、ネスはあの女性をすり抜けたのに、俺には触れる事が出来た。
「僕は存在してないはずのものだから、僕が見えない人には触る事はできないよ。 だって、何もないんだからさ。僕が見えてない人には、僕が投げ捨てたたんぽぽも存在しないワケさ」
 なるほど、不確定要素とはそういう事か。
 しかし聴けば聴くほど、何故俺に彼の姿が見えたのか不思議でならない。
 そして、何故俺がこの木の下で通行人ウォッチングしているのもだ。 糸はまだ繋がっている。俺はまだ死んではいない。
「お前、三途の川なんていう言葉よく知ってるな。名無しってのは国境までグローバルなのか」
 本当にききたい事とはまるで別の台詞に、自分でも思わず苦笑を漏らしてしまった。 自称「不確定要素」に、国境なんて関係ないだろうに。
 ネスが呆れたような視線をこちらに向ける。
「僕が話した言葉は相手に理解しやすい言葉に聞こえるみたいだよ。便利なもんだよね」
 確かに便利だ。ただ訳するだけではなく文化や宗教の違いまで考慮してくれるのか。 さすがは「不確定要素」だ。彼には 語学系の授業は何一つ役に立たない事になる。
 そういえば、事故のおかげで出しそびれたレポートはどうなるのだろうか。
 割と真面目に学生をやっているので単位がすぐに危うくなるわけではなかったが、あの教授が事故という不可抗力の事態を、どれだけ考慮してくれるだろうか。
 もちろん、そんな心配をするにはまず体に戻らなくてはならない。
 先ほど何度か試してみたのだが、糸をたぐって運ばれた病院を探そうにも何故か途中で動けなくなってしまうのだ。東西南北、あらゆる方向を試したが、少し遠くなると見えない壁に阻まれたように先に行けない 。
 壁も人も車も、さすがは幽体離脱中だけあってすり抜け放題なのに、その壁から先には行けない。
 先に行けなくなる場所があの木が視界から外れる位置なのだと気付いたのは、しばらく経ってからだった。
「この木なんだよなぁ……」
 まったく何が哀しくて、よりにもよってこんな場所で自縛霊にならなくてはいけないのか。
「何かこの木に恨まれるような事したのかい?」
「まさか。前はよく待ち合わせの目印に使ってたけど、そんな事で植物に恨まれるような覚えはないぞ」
 そんな事で恨みを買うなら、ハチ公像も西郷さんの像も盛大な怨念を秘めているだろう。 学校七不思議の二宮金次郎やベートーベンの胸像じゃあるまいし。
 神社の御神木に丑の刻参りをして五寸釘を打ち付けたとか、それくらいのレベルなら納得もできるが――
「じゃぁ、君をここに留まらせてるのは、きっと君自身だね」
「……え? どういい事だ?」
 言われた意味が解らず問い返したが、彼はにこにこと笑っただけで答えてはくれなかった。
「どうせ暇だから、君の体がどうなったか確認してきてげるよ。じゃぁ、またね」
「ちょっ……待て、オイ、ネスっ!」
 目の前から、悪戯っぽい笑みを浮かべた少年は、こつ然とその姿を消した。
 木の下に独り、誰にも見えない何処へも行けない俺は、取り残されて途方にくれていた。


 それから三日、俺はその木の下で過ごした。
 ネスは時折思い出したように現れて、俺の肉体の方がどうなっているのかを教えてくれる。
 そして、他愛もない話をしてはどこへともなく消えていった。
 俺は、まだ生きている。 細い光の糸は、今も消える事なくどこかの病院へと続いていた。
「あれ、だいぶ薄くなってるよ? そろそろやばいんじゃないの?」
 そんな事は言われなくても俺自身が良く分っていた。 昨日辺りから、自分の体が薄く透き通って見えるようになってきたのだ。
 初めは生身と何ら変わらなく見えていたのに、今では手のひらの向こうに空が見える。
 近くの市立病院の集中治療室に入っているらしい俺の体は、危篤状態が続いているらしい 。
 中身が入っていないのだから意識不明なのは当たり前なのだが、元に戻る手立てがない以上はどうにもしようがない。
 家族は、心配してるのだろう。
 父は仕事が今忙しい時期なのに、悪い事をした。
 母は涙もろいから、毎日泣き疲れているかもしれない。
 妹が聴きたがっていたCD、素直に貸してやれば良かった。
 大学の単位はどうなるんだろう。就職活動を考えなきゃ行けない時期なのに。
 友達に貸してたゲームは…それは、まぁいいや。

――俺は、死ぬのだろうか。

 どうしてこんな事になったのだろう。
 あの日俺は、いつもの通りにこの木の下で立ち止まって、そんな自分を情けなく思いながら、バスに乗って大学に行くはずだったんだ。

――どうして。

どうして、って君さぁ、答えなんてとっくに出てるじゃないか」
「は? え……な、何がだ?」
 あまりにも唐突なネスの言葉に、俺は驚いて彼を振り返った。 彼は、呆れたような顔をしている。
「君がここで立ち止まった理由は何? あるはずがないものが見えてしまうくらい上の空だったくせに、 それが原因だとは思わないワケだ」

――ここで、立ち止まっていた理由?

 そんな、まさか。そんな事で。 もう昔の話なのに。終わってしまった事なのに。
「お前、俺がお前見えた理由を波
長があったとか何とか、テキトーな事言ってたじゃないか」
「嘘じゃないよ。今は君、あちら側にいきかけだから問題なく僕の事が見えてるようだけど、普通の人間が見えるには一定の条件が必要って事。見えないはずの物を見てる人。妄想、空想----思い出とかね」
「……あ」
 そういう事だったのか。それなら、彼が見えたのも納得できる。
 いつだって俺はこの場所で、この木の向こうに待ち合わせをしていたあの頃の俺達を見ていたんだ。
 もう終わってしまった思い出を。
「……情けないなぁ」
 本当に、情けない。思い出に浸って立ち止まって、こんな所にしがみついて。
「まぁ話くらい聴いてあげるよ。どうせ暇だし、君はまだ戻れないし。気がまぎれるかもしれないよ」
 気楽な事を言いながら、ネスは俺の隣に腰掛けた。
 俺もとりあえず、木に寄り掛かるように腰を下ろしてみる。 さわさわと、車の音に混ざって葉擦れの音が耳に響いた。

 告白されたのはまだ高校の頃だった。受験が終わったばっかりで、解放的な気分に酔いしれていた頃だ。 彼女とはクラスも違って、名前を知っている程度の関係だった。 派手ではないがそこそこ美人で、明るいいい子だった。
 大学も同じで、付き合っていた一年間、この木の下で待ち合わせをして一緒に学校まで行ったものだ。
 俺達は何の問題もなく上手く行っていた。
 だけどある日、些細な事で喧嘩をしてしまった。 今思えば、変な意地を張ってしまったものだと思う。
 解りあう機会はたくさん残されていたはずだけれど、俺達はそうならなかった。
 軽い口喧嘩くらいならいくらでもした。 その度にどちらからともなく謝って、次の日には何事もなかったかのようにあの木の前に居たのに。
 多分、お互いに目指すものとか色々な事が、少しずつズレていったのだと思う。
 何となく段々上手く行かなくなり、喧嘩を繰り返す事に疲れてきた俺は、自分から彼女に別れを告げた。

――そう、この場所を思い出に変えたのは、他でもない俺自身なのだ。

「ん、まぁ大体解った。君は相当ここに思い入れがあったワケだね」
 自分でも女々しいと思う。馬鹿みたいだと思う。
 生きていればまた来れる場所。だけど死ねば二度と来れない場所。
 多分俺はすごく後悔をしていて、その思い出が俺をここに留まらせている。
 消えた恋心が戻るとは思わない。 俺自身、恋人として今も彼女を好きなのかと問われたら首をひねってしまいそうだ。
 だけど少なくとも今でも彼女を嫌いではなくて、俺を幸せにしてくれた事を覚えている。
 この場所が優しい場所だったのを知っている。
 きっと、俺は期待していた。
 別れて以来この近くのバス停を使わなくなった彼女が俺の事故の事を知って、いや、偶然だって構わないから、この場所に来てくれる事を。
 彼女にとってもこの場所が、大切な場所であってほしかった。
 自分から突き放したのに、なんて虫の良い話だろう。
「まぁ、別にいいんじゃないの、好きなだけここに留まってればいいと思うよ」
 そう来るか。一応こちらは命がかかっているのだが。
 しかし、彼は茶化しているわけではないらしい。真顔をこちらに向け、こう言った。
「無理して行こうと思うから辛いんだ。ここで立ち止まったらダメだなんて誰が決めたの? ここで立ち止まるのが情けないなんて誰が決めたの? 君だろう?」
 目からウロコが落ちた気分だ。
 そうだ。情けないと思ってるのも、立ち止まってしまうのも、他の誰のせいでもない。
 誰も、俺が立ち止まるのを責めているわけではない。俺が、勝手に自己嫌悪をしていただけの事。 思い出が俺を引き止めたわけじゃない。
「あぁ……馬鹿みたいだ。何で気付かなかったんだろう」
 無理をして思い出を否定しても、尚の事思いは募る。 忘れようとしたら忘れられる、思い出はそんなモノじゃない。
「確かに馬鹿だよね。利口になれて良かったんじゃないの。で、あそこの彼女どう思う?」
 悪態をつきながら、ネスが歩道を指差した。
 若い男女のカップル。

――彼女だ。

 別れてから、学科自体は違う事もあってか大学内で擦れ違う事すらなかった。
 俺が意図的に避けていたのもある。
 一年ぶりくらいの彼女は、あの頃と変わらず明るい笑顔だった。
 新しい彼氏ができたんだな、とか。 何だ、俺よりしっかりしてそうな奴だ、悔しいな、とか。 元気にしてるようで良かった、とか。
 色々思ったけど、何だか言葉にならなかった。
 残念ながら俺は今幽霊で彼女には見えないし、普通に出会ったのだとしても今更俺の出る幕じゃない。
 彼女が木の前を通り過ぎる。
 俺にとっては立ち止まらずにいられない場所も、彼女には過去の事でしかない。 彼女は、もう歩き始めているのだ。
「あ、そういえばこの木ね。前はよく待ち合わせに使ったのよ」
 数歩歩いたところで、彼女がこちらを振り返った。
「へぇ、誰と?」
「内緒。もう会う事もないと思うけど。楽しい思い出をくれた人とよ」
 他愛もない話だ。
 彼女はもう振り返らない。 俺も、それでいいと思っている。彼女が、新しい恋を見つけていた事に安堵した。

 彼女は忘れてはいなかった。 過去の事になんかしていなかった。
 良い思い出を大切にして、新しい道を歩いていったのだ。
 俺が、こんな所で迷っている間に。

「もう、ここで立ち止まる必要はないな……」
 今なら、後悔も全て許して歩いていけそうだ。
「じゃぁ、僕とはここでお別れだね。死なないように頑張ってね」
 ネスがひらひらと手を振る。
 俺の体が、ふわりと舞い上がった。光の糸が、病院の方向を指し示すように弧を描く。
 幽霊は空を飛べるらしい。生還した暁には自慢話の種にしてやろう。
「色々ありがとうな、ネス。生きて戻ったらまた会おうぜ」
「うーん、それ無理。多分もう、君には僕が見えないよ。だから、僕の事も目が覚めれば忘れる」
 見えなくなるのはともかく、臨死体験はそう簡単に忘れられるものなのだろうか。
 夢と同じとはいえ、あっさり忘れるのも悔しい。
「だからさ、僕が見えない人には、僕は存在してないんだよ。 元から存在していないものの事、どうやって憶えておくつもりなの、君は」
「え、それじゃ……」
 身体は高度を上げて、木の上まで上がっていた。ゆっくりと、引き寄せられているのが解る。
 まだ、まだ彼に言いたい事があるのに。

「さよなら、涼」


 ネス、俺はこれから、その気になればどんなところでも行ける。
 立ち止まる事はあっても、また進む事はできる。

 あちら側にも行けない、こちら側にもこれない。
 人の記憶の中にすら、存在を許されない。

 お前は、何処へ行くんだ?
 存在さえ曖昧なお前は、何処へ行けるんだ?

 

「という日本人青年の青春グラフィティに付き合っておりました」
「貴方、私が追いつくまでの間、ずっとそうやって油を売っていたの?」
 涼の記憶を食べた本を覗き込み、マリアは心底呆れたようにため息をついた。
「で、この涼って子、無事に生き返ったの?」
「それは僕も気になったから覗いてきた。何とか生きてるみたいよ。集中治療室、もうすぐ出れるってさ」
「それは何よりだわ。ところで、私は貴方と違って世界どこでも神出鬼没って訳ではないのよ。 人間様の交通機関が必要なの。追っかける身にもなりなさいよ」
 閉じた本の角で額を小突かれ、ネスは不満げに口を尖らせた。
「頼んでないのに」
 今度は渾身の力を込めた本の角が降ってきた。
 しかし、元より「存在しないはず」の空間である。見事にすり抜けて、本はネスが座っているベンチに打ち付けられた。
「あ、ぶつかる真似しといた方が良かったね」
 衝撃で手首をプルプルとさせながら顔を上げた彼女は、吸血鬼らしい邪悪な笑みを浮かべている。
「ネースぅ、いや別に怒ってないわよ。貴方を殴っても無駄なのは今思い出した所だしぃ? ってゆーか、貴方が寂しいって言ったからから側にいるのよ私は。もう百年も前の話だけどっ!」
 マリアの剣幕に押されてたじろきながら、ネスは慌てて首を縦に降った。
「うん、そうだった! ごめんなさいマリア様、愛してます!」
 苦し紛れの愛の告白に、納得したのか、しなかったのか。憮然とした表情のままベンチに腰を下ろした彼女は、しっかり買ってきたらしい日本の名所観光ガイドを取り出した。
「どうせだからしばらくこの国で遊ぶわよ。付き合いなさい!」
「……はい、解りましたオネエサマ」
 初夏の空、何処へ行くつもりなのか鳥が一羽、ゆっくりと弧を描いて飛び立って行った。

 

 涼、忘れてもいいんだよ。だって僕はネームレスだから。
 何処へでもいけるけど、何処へもいけない。
 だけど、君が置いていった思い出を、僕はずっと忘れないでいてあげるよ。
 僕の事を忘れても、きっと君は僕のようにはならないよ。

 迷っても、立ち止まっても、そこはまだ君の終着点ではないから――

 

 

2004.4.26 更新

同人誌で一度発行した「Nowhere Man」の視点とキャラを変えた話。
本で出した時に、タイトルは、The Kaleidscopeの同名曲から。失恋して所在無さげな野郎の歌です(笑)
話の基本軸は同人誌の物と同じなのですが、主観となるキャラが涼になった事と、死神がいた役どころがネスになったのとで、気付けばほとんど別物になっておりました。涼、馬鹿になってるし…。
その分シリアス度も薄く。
しかし、男主役2連続…。潤いが足りない気がしてきました。
次作は女の子を主役にしよう…。

 

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