僕らは太陽のように
僕らは太陽のように生きていたかった。
明るくて温かくて確かな存在感を持って。
暗闇の中で生きる僕はなんて惨めなんだろう。
「こんばんは」と彼女は言った。
長い髪が風に流されて揺れている。
この汚い場所には似つかわしくない、綺麗な人だと思った。
「何か用?」
挨拶をされるほど、親しいわけではない。たった今初めて出会ったのだ。
「別に。何でこんな場所にいるのか不思議に思っただけ」
むしろそれは僕の方こそ尋ねたかった。
街頭すらあやうく点滅しているこの裏路地に、わざわざ通りがかる彼女の気がしれない。
浮浪者だってたくさんいるのにな。
彼女の問いに答えを返さず、僕は足を抱える腕に力を込めた。
寒い。震えが止まらない。 だけど、どうしても家に帰る気にはなれなかった。
家にいるのは酒を呑んではくだを巻いている父さんだけだ。
「帰りたくないのね」
何がおかしいのか、くすくすと笑い出した。
こちらは心の内を見透かされたようでおもしろくない。 彼女は俺の隣に腰を下ろした。
「名前は?」
「ノエルだよ。あんたは」
「マリア。お互い聖誕祭に縁のある名前ね」
彼女は嬉しそうな顔をした。さっきとはうって変わって、僕は少し得意な気分になる。
人間とは現金な生き物だ。
僕は自分に似合っているとは思えないこの名前があまり好きではない。
だけど今だけは、この名前でよかったと思う。
「年はいくつ?」
「もうすぐ十二歳。マリアは」
「さぁね。いくつに見えるかしら」
十八歳、いや二十歳くらいだろうか。答えは教えてくれそうにない。
「クリスマスは何をするの?」
その問いを、僕は聞こえないふりをしてやり過ごした。
寒さは相変わらずこの身を引き裂くようで、手足は氷のような冷たさだ。
厚く垂れ込めた雲は、夜空を黒く塗りつぶしている。ガス灯の明かりはあまりに弱々しくて、この暗闇の世界をすみずみ照らすことはできない。
「生きていて楽しい?」
何故、そんな事を聞くのだろう。
マリアは遠い闇を見つめている。 尋ねている相手である僕の事なんか、目に入っていないかのようだ。
真の暗闇の向こう側に、何かがあるのだろうか。
「楽しくない」
素直にそう答える。
毎日働いても生活は苦しいばかりだ。 母親は病に倒れ亡くなり、のんだくれの父親だけが僕に残された。
父さんが荒むのも解らなくはない。まだ子供の僕にだって解るほど、この町は荒んでいる。
街には失業者が溢れて、それなのに子供も働かなくてはならないほど人手が足りない。
僕の目に見える世界は薄汚れていた。
「いつかこの街を出て行くんだ」
それがとても簡単で、だけど馬鹿げた事だというのを僕は知っている。
僕らのような勉強もできない貧乏な子供達は、大体はどこへ行っても似たような暮らししかできないんだろう。
「そうねぇ。それがいいかも。滅入るってネスも言ってたし」
会話の中に新しい登場人物だ。 軽く「誰?」と問うと、彼女は笑いながら「友達」と答えた。
男の人だろうな。 本当の名前は、ネイサンか、ナサニエルだろうか。 それなら愛称はナッシュになる気もするけれど。
「この町は彼が見える人が溢れてるから、だから好きじゃないって言うの」
見えるって、大抵の人間には見えるのが当たり前ではないのかな。
「それじゃまるで幽霊みたいだよ」
「幽霊じゃないわよ。貴方にとっては似たようなものでしょうけど」
なんだろう。彼女の友人は幽霊みたいなものだけど、そうじゃない。
謎々みたいだ。それともからかわれているのか……。
「マリア、こんな所で何をしているの」
突然、その声は目の前から聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、マリアよりは少し年下で、僕にとっては年上に見える少年が立っている。
足音も気配もなく、それこそ幽霊みたいに忽然と彼は現れたのだ。
薄闇で浮かび上がるように見える淡い色の金髪が、月のようだと思った。
「噂をすれば何とやらね、ネス」
どうやら彼がマリアの友達のようだ。 突然現れたのには驚いたけれど、彼には特別おかしな所はない。ただの人間に見える。
おかしいのは彼の服装だ。
白いシャツの裾を出しだらしなく襟元を緩めているのも、ネクタイに至っては結びもせずに首にかけてあるだけなのも別にいい。
問題は、この震えるほど寒い夜に彼がコートも身につけずに平然としている所だ。 そこだけはどう考えてもおかしい。
「貴方が幽霊みたいなものだって話をしていたの」
彼はわずかに眉をひそめた。
怒るのも当然だ。いくら友達でも、目の前で幽霊と呼ぶのは失礼ではないか。
マリアは何やら人の悪い笑みを浮かべている。 それが更に神経を逆なでしたのか、彼は恨みがましく睨み付けていた。
この状況で、僕にどうしろというのか。
とりあえず、身体と心の両方に迫り来る寒さに耐えるべく、更に小さく身体を丸めてみた。 こんなに冷え切っているのに、息は温かいのだから不思議だ。
「ノエルはネスが見えちゃってるみたいね」
そりゃぁ、僕は目が不自由なわけでもないし、当たり前に見る事ができる。
本当に彼が幽霊であったり、天使やら悪魔、妖精のの類だっていうならば別だけれど、そんなものを言葉通りに信じるほどには、僕は子供ではなかったのだ。
「でも、幽霊じゃないんでしょ」
さっき、彼女は「似たようなもの」だと言った。つまり、幽霊ではないのだ。
わざと妙な言い方をして、僕をからかっているに違いない。 何も解らない子供だと思っているのだ。
「幽霊じゃないわよ。でも私、人間だって言った覚えもないわよ?」
また話がややこしくなった。 ネスがどんどん不機嫌になっていくのが解って、僕は気が気じゃなかった。
「マリアだって人間じゃないのに、よく言うよ」
彼は吐き捨てるようにその言葉を放った。
あれ、何かおかしな方向に話が進んでいってる気がするんだけど。
呆然とする僕に、マリアは再びあの人が悪そうな笑みを見せる。
「私が人間だって言った覚えもないわよ、ノエル」
そんな馬鹿げた話があるのか。
目の前にいる、どこからどう見たって人間のこの二人が何か別の生物だなんて、そんな非現実的な話は信じない。
「あら心外。お金持ちの方々は心霊主義に首ったけのこのご時世に、リアリストなのね」
だって、仕方がないじゃないか。 僕に解るのはどうにもならない現実で、非現実的な妄想に浸れる余裕なんてないんだ。
明日になればまた夜まで仕事で、家に帰りたくなくてしばらくこうして外をうろついて、寒さに耐えきれなくなって結局家路を急ぐのだ。
「嘘だと思ってもいいから信じてみない? 人間じゃない秘密の友達がいるなんて、ちょっと楽しそうでしょ?」
いやに楽しげなマリアの様子に、ネスは心底呆れたように肩をすくめた。
「ね、ノエル。いい提案だと思うんだけど」
くだらない、馬鹿馬鹿しい。
そう思っていたのに、彼女があまりにも嬉しそうなので、少し心がぐらついてきた。
「信じたら何かいいことある?」
「人生がちょっと楽しくなるわ」
思わず笑ってしまった。確かにおかしな気分にはなる。
「いいよ。信じる」
「言ったわね。約束よ」
マリアは立ち上がると、スカートの裾を翻しながら嬉しそうにくるくると回ってみせる。
呆れ顔のネスの手を取って、彼の腕に抱きついた。 彼女の方が僕なんかよりよほど子供みたいだ。
「ねぇ、じゃ、結局マリアとネスは何者なの?」
「私? 吸血鬼よ。でも人は襲わないから安心して。ネスは何って言われても困るわよねぇ。ネームレスだもの」
聖母の名前を持つ吸血鬼だなんて、ますますおかしいや。
「ネームレス? 変なの。ネスって名前なのに名無しなんだ」
「呼び名がないと不便だからそう呼んでるの。ちょっとややこしいのよ、彼」
ややこしいのか。 よく解らないけれど、わからなくてもいいような気もする。
「ねぇ、突然変な事聞くけれど、貴方は何になりたい? どうせだから夢のある事答えてちょうだい」
何になりたいかだって? それも夢のある事で。
僕はしばらく考え込んだ。そんな事は考えたことがなかったのだ。
ただ日々を過ごしながら、明日も明後日も今日と同じような貧しい日々が続いていくのだとしか思わなかった。もしも、何にでもなれるとしたら、僕はどうしよう。
天使も悪魔も妖精も興味がない。 もっと確かで、だけどとびきり空想的なもの。
鳥? 魚? いまいち惹かれない。 温かくて、明るくて、大きなものがいい。そして、僕はこう答えた。
「僕は、太陽になりたい」
「太陽かぁ。そう来るとは思わなかった」
夜半過ぎから降り始めた雪は、橋を真白に染め上げている。
その真ん中に真新しい足跡を残しながら、マリアは後ろを振り返った。
「何かご意見でも?」
「何であんな事を? あの子はただの人間だ」
「でも貴方が見えていたわ」
ネスは何やらもの言いたげに口を開きかけたが、結局言葉にならなかったそれは、ため息としてはき出されることとなった。
冷え切った夜なのに、息は白く濁らない。それどころか、彼には寒さの感覚すら曖昧だった。 それでなければ、この薄着で平然とできるはずもない。
こんな些細な事で、異質な存在だと思い知らされる。
「僕が見える人なんかいなくなればいいのに」
結局口をついて出たのはただの愚痴だ。
ネスは先を行くマリアを追い越して、彼は小走りに橋を渡り終えた。 ガス灯の明かりは、ネスの影を地面に落とすことはない。
ここでもひとつ、存在を否定されている。 あらゆる光が、彼の影を作ることができない。もちろん、太陽も。
「嫌よ。そしたら貴方、消えるでしょう?」
マリアはネスに追いつくと、掛けていたケープをネスに被せた。
「見てるこっちが寒いのよ」
そのまま、彼女は街の方へと歩き出す。
その背を追いながら、ネスはもう一度意味のなさないため息を吐いた。
あれから何度か二人と会った。
大抵はあの裏路地で会っていたが、たまに町中でも見かけた。
マリアは会うたびに違う服を着ていて、実はかなりのお嬢様なのではないかと思う。
空想遊びをしながら生活できるのだ。きっと家が裕福なのだろう。
対するネスといえば、いつでもあの寒々しい格好のままだった。 かといって、貧しい様子でもない。彼の服はいつでも汚れやしわのひとつもないのだ。 何度会ってみても、やはりおかしな組み合わせだと思う。家に帰る途中、今日もあの裏路地に立ち寄った。
マリアがおらず、ネスだけがぽつんと薄汚れた木箱の上に座っている。
彼は僕に気づくと一言だけ挨拶をして、そのまま表通りへと視線を移した。
この辺りは貧しい人達が住んでいる。 表通りに出ても、うろついているのは娼婦と酔っぱらい、浮浪者ばかりだ。
彼はつまらなさそうにほおづえをついたままで、しばらく僕らは気まずい沈黙を守る事となった。
「ネスは、どうしてネームレスなの」
そのまま帰るのも何だか嫌な気分だったので、僕は少しだけ気になった事を尋ねてみた。
彼は、少し意外そうに目を見開く。 じっくりと考え込んだ後、やがて彼は答えを出した。
「世界が僕を必要としてなかったから、かな。そんなものに名前を付けても無意味だ」
何だか難しい事を言われてしまった。
誰も必要としない。誰も見向きもしない。だから、そんなモノの名前は誰も呼ばない。 そういう意味だろうか。
でも、マリアは? 必要だから、マリアはネスのそばにいるのでは?
「マリアは人間じゃないから」
僕の考えなど、彼にはお見通しらしい。 それにしたって、答えになっていない気がするのだけど。
「でも、それなら僕だってネームレスだよ……」
工場で働いていても、次から次へと人は入れ替わっていく。 僕一人がいなくなっても、代わりに困ることはない。
少しでもお金がもらえるならば、群がる人間は溢れるくらいにいる。 家に帰っても、父さんが酒を飲んでは愚痴を言うだけだ。誰も僕を必要としない。
何だかとても悲しい気分になって、ネスの隣に座り込んだ。
ほどなくして、彼の手が僕の頭をなでる。 その手が思いの外優しかったので、僕は声を上げて泣いた。
彼はその間ずっと、僕の頭をなで続けていた。
「ノエルは、何でその名前なんだい」
僕が落ち着いたのを見計らって、彼は初めて自分から尋ねてきた。
「クリスマスに生まれたからだよ」
母さんが生きていた頃、クリスマスは何よりも待ち遠しい日だった。
どんなに貧しくても、この日だけは祝ってくれた。 豪華な料理も、素敵なプレゼントも無かったけれど、とても幸せな日だった。
「主と同じ日に生まれた僕には、きっと神様がすばらしい未来を用意してくれるはずだって、母さんが言ってた」
だけど、母さんは死んでしまった。
父さんはどんどん酒におぼれて、僕の事など見向きもしない。
神様は僕にすばらしい未来を与えてはくれなかった。
ネスは膝を組み直し、少しの間何やら考えている様子だった。
「クリスマスには、何がほしい?」
そんな事、考えた事がなかった。
母さんが死んでから、クリスマスは僕の誕生日でもキリストの聖誕祭でもなくなったからだ。
「何もいらないから、母さんに会いたい」
母さんがいれば、父さんはあんな風にならなかった。 どんなに生活が苦しくても、僕の名前を呼んで笑いかけてくれた。
もう一度母さんが僕を抱きしめてくれるなら、プレゼントなんかいらない。
「ノエル、死んだ人は蘇らないよ」
解っている。 どれほど願っても、母さんは帰ってこない。
だから父さんは現実から目をそらしたのだ。取り戻せないと知っているから。
「本当は、わかってるよ」
願っても、幸せはもう通り過ぎてしまった。
素晴らしい未来などきっと来ない。
明るく、強く生きたいけれど、暗闇は容赦なく僕の目をふさぐ。――結局、僕は太陽になんかなれないのだ。
夜半をすぎた頃に、マリアは現れた。
すでに路地には野良犬の姿しかない。
「さすがにノエルは帰ったのね」
ネスは、苦笑をうかべながら頷いた。
空は今日も曇っていて、月の光は届かない。ガス灯の明かりだけが頼りだ。
「ノエルはネームレスにはならないよ」
「そうね、私もそう思うわ」
空気が冷たいからなのか、周りが静か過ぎるのか、会話の声は思いの外大きく聞こえる。
「マリア、僕はずっと消えるのはいつにするかって事ばかり考えてきた」
「知ってるわよ」
「今、色々と考えている」
ネスは隣に寄り添うように立つマリアを見た。彼女は微笑んでいる。「それも、知っているわ」
工場はクリスマスなんてお構いなしに動いている。
死んだような顔で働く大人達に混ざって、僕も当然のようにそこにいた。
今日がクリスマスでも誕生日でも、関係ない。いつも通りの日だ。
帰り道に二人はいるだろうか。死んだ人は帰らない。時間は過ぎ去るだけで、戻ることも止まることもない。
願っても太陽になどはなれない僕は、何を望めばいいだろう。考え込むあまりに手が止まっていたことに気づき、僕は慌てて現実に戻ってきた。
こんな事でクビになったらたまったものじゃない。
先ほどから何やら工場内が騒がしい。いつも機械の音でうるさいのだけど、何やら叫び声が飛び交っている。程なくして、それは悲鳴に変わっていった。
暗く澱んだ空を焦がすのは、鮮やかな紅い色だ。
炎が工場の壁を焦がしてゆくのを、マリアは少し遠巻きに眺めていた。
「どうするの?」
彼女は燃える工場をじっと見据えながら、独り言でも言うように呟く。
隣にいるネスが、誰にでも見える存在では無いことを知っているからだ。
「ノエルはネームレスにはならないけど……」
誰にでも聞こえるわけではない声が、耳元で囁く。
「そうね」
続きを聞かずに、短く答えを返した。誰かに必要とされれば、自分を必要なものにできれば、その物に名前をつける意味がある。
景色を象る一粒の小石であろうとも、木々を彩る葉の一枚であろうとも、この命を支える一滴の血潮にも、存在の意味はある。
全てをなくしてから、意味を作り出そうとしてももう遅い。
なくした物を取り戻せないとしても、繰り返させない事はできるだろうか。
太陽の光が影を作るように、形のないものが生み出すものは何か。「いってらっしゃい」
喧噪の中に溶けた彼女の呟きは、もはや誰の耳にも届くことはなかった。
どこに行けば逃げられるのだろう。
すでに工場内は大混乱で、自分が今どこにいるのかもよく解らなかった。
炎は瞬く間に一面を包み込んで、中の人間を閉じこめた。
走るのに疲れて、僕はその場に座り込んだ。――このまま死ぬのだろうか。
死ねば母さんの所に行けるのだろうか。
それともただ無意味に死んで、ネームレスになってしまったりするんだろうか。
父さんは、僕が死んだらどうするのだろう。
母さんの時のように悲しむのだろうか。 それとも、僕のことなどもう忘れてしまっただろうか。
「君は太陽のようになりたかったんだよね」
声が聞こえる。 うっすらと目を開けると、ネスが立っていた。
どうやって入り込んだのか、服には焦げた跡もすすもついていない。 そういえば人間じゃなかったんだっけ、とマリアの言葉を思い出した。 今なら冗談でもなく、本当に信じる。
「無理だよ、もう、僕、死ぬんだから」
もう遅いんだ、何もかも。
こんな事なら、父さんに一言言っておけば良かった。
今日はクリスマスで、僕の誕生日で、だけど母さんが死んでから特別な日ではなくなってしまったけど。
あれ以来言えなくなってしまったけど。
僕は、父さんの事を愛しているよ。優しくて暖かい人だった事を覚えているから。
「君がまだ太陽になれる方法が一つだけあるよ」
ネスは僕に目線を合わせるようにかがみ込むと、あの日のように頭を優しく撫でた。
「君はネームレスにならない。ネームレスになるとしたら君じゃない」
愛されず、必要とされず、存在すらも許されず。
僕が死んで、ネームレスになる誰かがいるとしたらそれは……「だから君は生きなくちゃいけない。もっと、望まなくちゃいけないよ」
目を覚ますと、薄闇に赤い色が踊っているのが見えた。
工場が燃えている。 そこで、僕はようやく自分が外にいるのだと気づいた。
どうやったのか覚えていないけれど、逃げることができたらしい。
僕を抱きかかえている腕は、少し震えていた。 それは、寒さのせいなんかじゃない。
「……父さん」
泣きながら僕を抱きしめているのは、家で酒を飲んでいたはずの父親で。
情けないくらいに顔を歪めている父さんの顔に手を寄せて、僕は言わなければならない事を思い出した。
「父さん、愛してるよ」
酔っぱらっている様子はないけれど、やっぱりちょっと酒臭い口で、父さんは僕の額にキスをした。
母さんが生きていた頃、よく二人でそうしたように。
「誕生日おめでとう、ノエル」
覚えていたんだ。忘れてなんかいなかった。
「メリークリスマス。神よ、感謝します」
父さんが神様に祈るところを、久しぶりに見たきがした。
僕が笑うと、父さんも笑う。 こんな当たり前のことを、もうずっと待っていたのだ。うちに帰ろう。
母さんはいない。 ごちそうもない。
だけど、父さんが僕の名前を呼んでくれた。 僕を見て笑ってくれた。望まなくちゃいけない。生きなくちゃいけない。
僕はまだ必要とされている。
朝の道はうっすらと雪で覆われていた。
僕は弾むような足取りで、真新しい跡を残していく。
いつもと時間が違うのに、彼女はまるで僕が来るのが解っていたかのようにそこに立っていた。
「おはよう、マリア」
「工場が焼けて大変だったみたいね。機械が壊れて火が付いたって?」
どうやら昨日の火事騒ぎが僕の働いていた工場での事だと知っていたらしい。
「うん。でも僕は大丈夫。ちょっと火傷したけど」
彼女は嬉しそうに笑っいながら「そう」と頷いた。
「今日はお別れを言いにきたんだ」
僕の仕事はなくなってしまった。 父さんは昨日あれだけあった酒の瓶を、まだ中に残っているものも含めて全て捨てた。
風に春の気配がまざる頃になったら、家を引き払ってこの町を出るらしい。新しい場所で仕事を探して、やり直すのだという。
「私もお別れしようと思っていたの。そろそろ違う町に旅立つから」
どうやら彼女は旅行者だったらしい。
この寂れた町に何の用かとも思ったけれど、こんな裏路地に現れるくらいだから物好きなのだろう。
「元気でね、マリアも……あれ?」
他の誰かの名前を続けようとして、僕は口をつぐんだ。
何を言ってるんだろう。 マリアは最初からずっと一人でいたじゃないか。
彼女は僕の手を取って、男の人がやるみたいにキスをした。
「さようなら。貴方はきっと太陽になれるわ」
急に僕はひどく寂しい気分になって帰り道を走った。
いつも通りにはじまる、僕なんか気にもとめない町。
だけど僕にとっては、昨日より少しだけ明るい毎日の始まりだった。僕は太陽になりたかった。
明るくて温かくて、優しい人間になりたかった。
「僕の事、忘れていたね」
少年の去る後ろ姿をじっと見つめながら、ずっとマリアの隣に立っていたネスは嬉しそうに顔を綻ばせている。
マリアは呆れたような視線を彼に向けた。
「いいの?」
「いいよ。こうやって少しずつ僕が見える人が減ればいいな、って思った」
存在がゆらぎかけた人間の心にしか住めない、名もなき幻。
何もかもを失った後ではもう全てが手遅れだ。
それでも、こうして誰かを希望の道へと向かわせる事ができるのなら、無意味ではないのかもしれない。
誰の心にも留まることはなく、ただ忘れ去られていくだけの存在であることに、救いを見いだせるかもしれないのだ。
「世界に僕が見える人が一人もいなくなったら、その時は消える事にするよ」
「馬鹿ね。それじゃ貴方、いつまでたっても消えられないわ」
「でも、マリアは僕に消えてほしくないんだよね?」
どこへ行こうとも、どれほど時が経とうとも、人の脆さは変わる事がない。
心の闇をひたすらに追いかけながら、永遠に等しい時の中を漂い続けるのだろう。消える事は、いつでも簡単にできる。
ネスは泣きそうな顔をしているマリアの頬に手を当てた。
気温はほとんど感じないのに、肌は温かいように感じるのが不思議だと思った。
「貴方は、それで平気なの?」
予想外の事を尋ねられて、ネスは一瞬言葉に詰まる。 それでも、これ以上『ネームレス』が生まれる事がないのなら。
ためらいながらも、彼は素直に本音を吐き出した。
「平気じゃないよ。寂しいよ。でも、太陽になんかなれなくていいから、せめて道しるべの明かりになりたいんだよ」
朝になれば、太陽の光で忘れ去られる儚い明かりも、暗い夜には意味を成す。
一瞬でも、この身に意味が戻るのだ。
マリアは、そっとネスの首筋に腕を回した。 まるで子供にするように、そっと抱きしめる。
「なら私は貴方が寂しい時に、こうやって抱きしめてあげる」
気づけば街には、人の声が満ちている。
誰も気づかない。誰も存在を感じる事はない。
だけど、今この体を包んでいる腕は、紛れもなく自分を包んでいる。「飽きるくらいに、そばにいてあげるわ」
太陽の光は世界を照らす。 闇に溶かされていた全てを象る。
「ありがとう。そうだね、一緒にいこうか、マリア」
暗い夜はいつしか終わり、太陽の輝く明日はきっと来るのだ。
「そんな事もあったっけ」
遠い日の思い出話を、ネスはまるで他人事のように聞いていた。
呆れたように肩をすくめ、マリアは紅茶のカップを傾ける。
「ショックだわ。そりゃぁ、確かに100年以上も前の話よ? でも忘れるのはひどいわ」
「……この本にも載ってないくらい昔の事だしさ」
ネスはぞんざいに本のページをめくり、一番初めを開いて見せた。そこにノエルの名前はない。
この本は、ノエルと別れた後にマリアの知り合いの魔物に譲ってもらったものだ。
「でも忘れてはいないよ? 多分、あの事がなければ僕はとっくの昔に消えていただろうし」
少し拗ねた顔をしているマリアの顔を、彼は上目遣いに見上げた。
「何よ」
「マリアがそばにいてくれなかったかもしれないしね?」
彼女が頬を赤らめるのを、ネスはにやつきながら観察している。
他に人のいるカフェテラスでは、いつものように声を荒げて反論することなど出来ないと解っているからだ。
こういう場所では、素直に彼女の反応を楽しめるというもの。
「僕は太陽になりたいいんだよ。明るくて暖かくて、でも誰にも見る事はできないんだ」
暗い闇を通さなければ、本当の姿を見る事はかなわない光。
その光があるからこそ、人は世界を見失わないのだ。
「本当に、これからも僕のそばにいるの?」
「世界に貴方が見える人間がいなくなるまでね」
「無理じゃないの?」
「その通りだわ」
目が合って、笑顔を浮かべる。
今日の空は曇り空。太陽は昼の明るさでしかその存在を示していない。
数年ぶりのホワイトクリスマスだと、どこかで誰かの声が聞こえた。いつか太陽になりたいと願った少年が、走り去っていったあの白い道。
二人でもう一度歩いてみようか。
もう空の上にいるはずの彼は、もしかしたら本当に太陽になったのかも知れない。届くといいな、と思いながら二人で空を見あげるのだ。
「メリークリスマス」
2004.12.25 更新
クリスマス滑り込みセーフな更新具合。
まだネスがメソメソしていた頃のお話です。舞台は120年ほど前。
イギリス、産業革命に揺れる時代のとある町の片隅と想定。
この辺りの時代は、本当に混沌としていたようですね。働いても働いても貧乏から抜け出せない、そんな時代。
クリスマスにわざわざアップしている割に、あの、何ていうか薄暗い荒んだ雰囲気が漂ってるので、夢いっぱいストーリーを期待されてたらすみません。 このシリーズにそれを期待している人はいなさそうですが。この話はネスがネームレスになってから10年後くらいのお話。
今回で大体予想はついたと思われますが、ネスは最初からネームレスだったわけではないのです。