忘れじの花
忘れられないのはあの花の群れ。
鮮やかに、ただ鮮やかに。
散り急いだ思い出の花。
今でこそ中心部にはビルも立ち並ぶこの街だが、50年程までは野原も川も畑もある、田舎の少し大きい程度の町だった。
灰色のアスファルトに覆われた道は、土と砂利の道だった。
あぜ道に舞う蝶を子供が追い掛けていた頃、この町のある国は終わりの見えない戦争をしていた。「危ないよ。見つかったら、殺されちゃうよ」
私の言葉に、彼はゆっくりと振り返った。
透ける光の色をした髪、眩しい位に白い肌、合った視線の先には湖のような深い碧色の瞳。
異国の人だ。そして、敵だ。
それなのに、何故か私は彼にこんな言葉をかけてしまった。
野の花を見つめる彼の横顔は穏やかで優しく、とてもではないが国を脅かす悪魔には見えなかったのだ。
彼は私を少しの間じっと見つめていたが、やがて口元に微かな笑みを浮かべた。
「僕は大丈夫だよ」
彼の紡ぎ出した言葉がこの国のものである事に、私は少なからず驚きを覚えた。
戦いをする人には見えなかった。まだ、少年といってもいい歳だ。
元からこの国にいた人なのかもしれない。 そういった人は、ほとんどが戦争の初まりと共に故郷へと去っていったのだけど。
「君の名前をきいてもいいかな?」
少年は、道ばたに腰掛けた。私は少しだけ迷って、けれど結局彼の隣に腰を下ろす。
「私の名前は、嶋田トキ子。お兄さんの名前は?」
「トキコか。ここで僕も名乗るべきなのだろうけどね。残念ながら僕は名無しなんだ」
奇妙な事を言う人だ。
「忘れちゃったの?」
「そうかもしれないね。友達が適当につけたあだ名はネスって言うんだ」
それなら、もうそのあだ名を名前にしてしまえばいいのに。 私の考えている事を見透かしたように、彼――ネスは笑い出した。
「呼び名はネスでいいよ。ややこしい存在なんだ、僕は」
どこがどういう風にややこしいんだろう。
疑問に思ったけれども、あれもこれもとキリが無くなりそうで尋ねる事はしなかった。
金色の髪。お日様色の髪。
不謹慎な事だけれど、眩しくて綺麗だと思った。 敵だとか、鬼や悪魔だとか、そういう風に思えない。
初夏の日ざしを受けて青々とした草原を、風が駆け抜けてゆく。 白い蝶がゆらゆらと、楽しげに緑のさざ波の泳いでいた。
二人でしばらくの間、蝶の行方を目で追っていたが、不意にネスがこちらを振り返る。
「君はこの道の先に何を探しに行こうとしてるの?」
心臓が飛び跳ねるかと思った。何故、分かってしまったのだろう。 どうして。
あの時の事は、私以外誰も知らないのに。
誰にも明かす事なく、お墓の中まで持っていくのだと決めたのに。
「君の探してるものは、そっちにはないよ」
何故、知っているのか。
あぁ、やはりこの人は敵だ。この国の敵だ。
騙されるものか。 立ち上がって、地面を蹴った。
振り返るな。振り返ったらいけない。
「何も探してなんかいない!」あれは敵だ。
私からあの花を奪った敵なんだ―――
「ネス、貴方どれほど寄り道したら気が済むの?」
マリアは相変わらず怒っている。
その原因の八割方が自分にある事を知りながらも、気になるものがあったら足を止めてしまうのは、性分なのだから仕方がない。
「多分永遠に寄り道続けるよ、僕は。諦めてよマリア。いいじゃないか、餌になるんだし」
ネスは小脇に抱えていた本をマリアの前に突き出し主張をしたが、彼女は憮然とした表情のまま、それを乱暴にひったくった。
「貴方の人間観察メモリーズをこの本に食べさせるのは勝手よ。
でもね、私を置いてけぼりでフラフラっと消えるのやめてくれない?せめて行き先を言って頂戴」
人間観察メモリーズって。 間違ってはいないのだけれど。
苦笑を漏らしながら、ネスは不機嫌な彼女の手を握って歩き始めた。
「ネス、気になる事があるんじゃなかったの?」
「今日は逃げられちゃった。でも、多分また来ると思う。だからそれまではおつき合いしますよお姫様」
自分は飲まないけれど、とりあえずお茶でも。
マリアは怒った表情は崩さず、それでもまんざらではない様子でネスの手を握り返した。
「結局お金払うのは私だけなのよね」
「あはは、だって僕普通の人には見えないもん。仕方ないよ」
二人は、初夏の日ざしの降りる坂道を手を繋いで登っていった。
昨日と同じ場所で、ネスは私を待っていた。
「傷付くよね。僕は何もしてないのに、逃げたりしてさ」
道ばたに足を組んで座り、不満げに頬杖をついた彼の深い緑の瞳が私を捕らえる。
「だって、だって…金色の髪の人は敵だもの」
我ながら拙い言い訳だと思った。 自分から近付いて話し掛けた癖に、何て言い種だろう。
けれど、本当に怖くてたまらなかったのだ。
胸の奥、誰にも知られる事がないように沈めておいたモノが、思わぬ場所から引き上げられてしまった。
冷静になって考えてみたら、ネスは私の探し物が何であるかなどただの一言も言ってはいない。
「そちらにはない」といっただけ。
きっと、彼にしてみれば少しからかってみただけなのだ。 初めて出会った彼に、私の事が解るはずもない。
そんな私の内心の焦りを知ってか知らずか、相も変わらず涼しい顔の少年は己の髪を指でつまみ、上目遣いに見上げている。
「金髪が敵? うわぁ、すごい偏見。そういう時代だから?」
「そう!そういう時代だから!」
思わずおうむ返しで頷いた私の様子がどうやらとてもおかしかったらしく、彼はお腹を抱えて大袈裟に笑い出した。
面白くない気分で、私は昨日と同じように彼の隣に座る。 目の前には、昨日と同じ草の海。
「いいの? 敵と仲良くしちゃって」
彼がそう言ったが、私は黙って頷いた。 「特別な日」を除けば、私以外の誰もこの辺りには近付きたがらないだろう。
町並みからそう遠い訳ではないここが、人気のない理由もそこにある。 あんな事があったから、みんなここに来るのが辛い。
だから、初めからここには私だけしかいない。ネスの他には誰も訪れない。
「ネスは、私の探しているのが何だと思っているの?」
内心であれこれと心配するよりはと、率直にきいてみる事にした。 彼が何を思ってそちらにはない、と言い切れたのかに興味が湧いたのだ。
不思議な事に先程までとは打って変わって、彼になら秘密が漏れても大丈夫だろうという確信が、自分の中に芽生えていた。
「思い出の場所だよね?」
彼は、簡潔にそう答えた。
その通りだ。確かにあの場所は深い思い出の在り処だった。
しかし、あそこは墓場だ。
思い出が温かくも優しいものなのだとしたら、あの場所には思い出の屍が山となって積み重なっているに違いなかった。
「僕は、行く方法を知ってるけど。難なら連れていってあげようか?」
驚いて顔を上げる。微笑む彼の、深淵の水の色をした瞳。
次の瞬間、またも私は走り出していた。
これ以上はだめだ。怖くて、耳を塞いで、目をつぶって、何も知らなかった事にしてしまいたい。私のあの場所は何処へ?
思い出に沈むあの――――
「マリアー、僕2回も逃げられたの初めてなんだけど!」
珍しく泣き言を言うネスの頭を、マリアは本を読みながら空いている方の手でおざなりに撫で回した。
恨みがましい視線を向けると、ようやく彼女は顔を上げる。
「まだそのトキコちゃんの記憶は食べてないのね、こいつ」
「だって逃げられたんだもの」
「女の子はデリケートに扱わないと嫌われるわよ」
そういう問題なのだろうか。
ぶつぶつと文句を言いつつも、ちょっと悪ノリが過ぎたかもしれない、とも思いネスはマリアから本を返してもらった。
白紙の始まるページに糸しおりを挟んで、目印にする。
「こうなったら、意地でも僕の人間観察メモリーズに記帳しなければ気が済まないな」
「あっそう。頑張って思い出作り」
ネスは熱い決意を胸に拳を握りしめてみたが、マリアはそれを冷淡に流す。
もしかしたら、まだ彼女は怒っているのかもしれない。 事が済んだらたっぷり御機嫌とりをしよう。
ネスは心の中密かにもう一つの誓いを立てた。
やっぱり、次の日も彼は居た。
「僕のなけなしの自尊心はボロボロです」
開口一番、ネスはそう言い放った。
それくらい言われてしまって当然の事をしていると思うし、よくものこのこと顔を出せたものだと自分で思う。
それでも、私はもう一度彼に会いたいと願ってしまった。 昨日は逃げ出してしまったけれど、もう一度あの場所にたどり着くために。
「私の探してる場所は、もうないの」
もう何処にもない場所を、探しても意味はないのに。
「花がたくさん咲いていた。みんなで駆け回って遊んだの。だけどあの花の群れはどこにもないわ。 全て燃えてしまったの。皆と一緒に灰になったの」終わりの見えない戦いに明け暮れる国。 戦火の炎に狂い、引き裂かれ、焼かれた。
あの日の花の匂いを覚えている。
春の花が散ろうとして、夏の花が開きはじめる頃。
戦争が長引くにつれて、野原に集まる子供は減っていった。
人手不足で仕事を手伝わなくてはならかったり、 ここよりも更に田舎の町への疎開、怪我や病気での死によって、時を追うごとに。
私も、次の日から田舎の祖母の家に行く事になり、最後の日に残り少ない子供達とあの野原で遊んだ。――そして
「私は一人で逃げたの。町で警報が鳴っていた。だけどみんな隠れていれば大丈夫って…。私は、怖くて」
もしかしたら。 真実はあの飛行機に乗っていた人にしか解らないけれど。
独り走って逃げた私。
私を危ないからと叫んで追い掛けた友達。 飛行機はいつもとは違う方向から、野原に近付いてきた。
私が走ったから気付いたのか、初めからそこを狙っていたのか。
背中を向けたあの野原で、子供達はどんな最後を迎えたのか、 わからない。
飛行機が去って警報が止んだ頃、戻った私が見たものは炎に包まれた花畑。
そこにいた子供達は、一人も帰って来なかった。「私はあそこに行かなくちゃ。皆を見捨てた罰を受けなくちゃいけない」
灰になったあの野原。焼かれて死んでいった子供達。
私は友人の葬式すら見る間もなく、祖母の元へと旅立った。
こんな悲惨な結末なのに、何故か私の思い出は輝いた時ばかりを写し出す。 鮮やかに咲く花の群れ、その甘やかな匂いを。晴れた日ざしの中の、楽しげな笑い声を。
見捨てたのに、一人だけ逃げたのに。 思い出が鮮やかすぎるから、かえって責められている気分になる。
何でお前だけが、って。逃げるのかって、ずっと責められているんだ。
きっと、あの花畑に行けば解る。
私を待っているだろう。憎しみ罰を与えるために。
「君があの日に見た花畑は、こんな風ではなかったかな」
ネスが、不意に前の草原を指差した。
顔をあげると、そこはすでに先程の草原ではなく一面色とりどりの花が咲き乱れている。
花の色も香りも覚えている。 確かに思い出の野原に違いなかった。
そこには誰もいない。 ただ、花の群れが静かに風にそよいでいる。
ネスはためらいもなくその花畑に降りて、白い花を一輪摘むと、そっと私に差し出した。
「焼けた跡にも花は咲くよ。花は摘まれても、灰になっても誰かを恨んだりはしないから」
「だけど、人間は違うわ。憎む心をもっているもの」
そうでなければ、何故あんな不毛な争いをできるのか。 何故あんなにも、顔も知らない大勢を憎めるのか。
敵も味方も、どうしてあんなにも苦しみながら、血を流さなければならなかったのか――
「でも、ここには誰もいないよ」
ネスは私が受け取ろうとしない花をクルクルと回しながら、辺りを示した。
彼の言う通り、ここには私達以外に誰の姿も見当たらない。 ただ、静かに花が揺れる。
「だって、私は……」
「人は人を憎むけど、許す事もできる。深い悲しみも、時が癒してくれたりもする。 荒れ果てた野原にも、やがて美しい花が咲くようになる。それと同じ事なんだ」
「だけど、罪は消えないでしょう?」
時が過ぎても、全てが癒されたとしても、深い罪を犯した事実は消えない。
例え全てが忘れ去られても、過去を変えられるわけではない。
鮮やかで優しい思い出と、哀しくて苦しい現実の間で、私はどうすれば良かったの?
「生きていれば、誰でも少なからず罪は犯す。憎しみも生まれる。償っても罪は消えない。 でもね、この世界の全てが憎しみに染まらないのは何故だと思う? どれほど愚かな罪をくり返しても、世界はまだ壊れずに続いてゆく」
白い花を揺らしながら、彼は私にそう尋ねた。
「何をもって罪と呼び、何をもって許しを乞う? 君はどうやって許されたいと望んだの?」
「……私は」
何を望んでいたのだろう。
ずっと、見捨てた事を後悔した。あの場所にたどり着きさえすれば、裁かれるのだと思っていた。
それならば、もうあの場所はないのだと、そう思いながら探し続けたのは何故?
私は、償いを求めながらも、自分の罪が忘れ去られる事を望んでいたのだ。 この花の群れの中に、憎しみが残されていない事を願っていたのだ。
「トキコ、ここにはもう誰もいないよ。多分、みんな、憎しみも苦しみもない場所に行ったんだ」
「本当に? 苦しんでないの? 恨んでいないの?」
私が見捨てたのに。
死ななくてもよかったはずの、未来のある子供達だったのに。
ネスは優しい微笑みを浮かべ、もう一度私に白い花を差し出した。
「それは解らないよ。君を恨んだのかもしれないし、自分達を燃やした飛行機のパイロットを憎んだのかもしれない。だけど、ここではもう終わった事なんだ。 永い時が荒れ地を癒して、悲しみも全て咲かせてくれたんだよ」
白い一輪の花。
もし、この花のように汚れた色を洗い流して、綺麗に咲いていられるならどんなに幸せだろう。
あの日の悲しみも全て、花のように咲いて癒されてているのだとしたら――
「もう誰も苦しんではいないの?」
「この場所ではね」
「みんな、空の向こうにいるのかしら」
「そうかもしれない」
それなら、私も行けるだろうか、いつか、あの空の向こう。 悲しみも憎しみも癒された場所へ。
「行けるかな…」
「何言ってるの、トキコ。君だってもう行けるようになっているよ?」
ネスはきょとんとして、私の顔をまじまじと見つめる。
私は私で、言われた意味がわからず、彼の瞳を見つめ返した。
少しだけ困ったように、彼は小首をかしげ微笑む。
「だって、君はもう亡くなってるよ? 僕と初めて会った日にね」
町外れのその寺では、葬儀が終わり火葬場へ向かう霊柩車が道へ降りようとしている。
ネスから預かった本を抱え、マリアは遠目にそれを見送った。 この国では遺体を運ぶ金の屋根の車を見ると縁起が良いのだと聞いた。何故なのだろう。
彼女の後ろには公園がある。
青い芝と整然とならぶ街路樹。花壇には色とりどりの花。
片隅の木陰にひっそりと、石碑とお地蔵様が建っていた。 戦時中この場所で、何人もの子供が犠牲となった事を、偲んで建てられたものだという。
霊柩車を追うように、遺族の乗った車が何台か出ていった。
「ネスから2回も逃げるなんて、元気がありあまってそうなのにね…」亡くなったのは、須藤朱鷺子という名の老婆だった。
――そうだ。
私はこんな子供ではなくて、しわしわのおばあちゃんだった。
結婚して姓は須藤に変わっていた。
あの野原があった場所は公園になっていて、畑も田んぼも今は住宅街になっている。私は二日前に死んだのだ。
ネスが野原の向こうを指し示す。淡く霞んだ景色の果てに、光が見えた。
あれが、悲しみの全て癒された場所なんだろうか。みんなあそこにいるんだろうか。
「ほら、迷わない内に早くいきなよ」
あの日の記憶に重なる花。
ここは墓場ではなくて、優しい思い出の集まる場所だったのだ。 全ての悲しみが癒されて、許された処へ行くための。
きっと私は、願っていた。こんな風にここに戻って来れる事を。
「ネス、貴方は敵じゃない。青い目でも金色の髪でも。本当は解っていたの。 それでも戦争は終わらなかったのね」
髪や目の色が違うだけで、信じる神様が違うだけで、憎みあってなどいなかった。
名前も知らない誰かを憎まなければいけない。敵や裏切り者は人間ですらない。 そういう時代だった。
一つの戦いが終わっても、またどこかで戦いが始まる。終わりを知らずにくり返される。
いつでも世界のどこかで、争いで傷付き死んでいく者がいる。
「みんな、優しい場所に行けたらいいのに…」
傷付いて死んでいった人達が、全て幸せになれればいいのに。――せめて空の上では、くり返さぬよう、笑っていられるよう
「ネス、もう行くからね。ありがとう」
空の上では、争いはおこらないのかな
みんな笑っていられるのかな
あの花の群れのように、穏やかに風にそよいでいられるかしら?
良く晴れた空の下。公園の花壇は満開で、鮮やかな色と甘い匂いを振りまいている。
奥に有る木陰のベンチを陣取って、ネスはようやく写し終えたトキコの記憶を、ページを全開にして誇らしげにマリアへと突き付けた。
「ばあちゃん相手に三日だよ? さすが敗戦から半世紀で世界有数の先進国を築き上げただけあるよ。この国の人間は根性が違うね」
対する彼女はと言えば予想に反して淡白な反応で、無言のまま彼の手から本をを摘まみ上げると、新しく増えたページをぱらぱらとめくっている。
さらりと流し読みを終えて、彼女はぱたりと本を閉じた。
「本当は、人は死んだらどこに行くのかしらね。本当に優しい場所に行けるのかしら」
じっと、疑うような瞳をこちらに向ける。
彼女の暗に言わんとしていることを察し、ネスは不満そうに頬を膨らませた。
「知らないよ。普通に死んでないから。何処へも行けなかったから僕は名無しなんでしょうが。 言っておくけど、僕はトキコに幻を見せるとか、そういう反則技使ってないからね」
いじけたようにベンチの上で足を組むと、途端に機嫌を良くしたマリアは横から彼の頬にそっと口付けた。
「何それ、御機嫌取り?」
「反則技使わないで頑張ったご褒美。私だって普通に死んだ事なんかないわ。吸血鬼だもの」
それはそうだ。 お互い出会ってからでさえ、すでに百年以上は経っている。
元よりあちら側にいる者達には、この世の人の死に逝く先も現実の延長でしかない。 死せる魂が何を見るのか、その魂だけが知っている。彼女にとってあの花畑は、苦い後悔と悲しみの思い出であると同時に、幼い頃友と過ごした日々の最後の優しい思い出でもあった。
だからこそ、彼女はあの場所を忘れずにいられたのだろう。
時には悲しみも生きる糧にして、ずっと、長い人生を歩んできた。 そしてあの頃のままの姿と心で、焦がれた花園にたどり着いたのだ。「争いはいつの時代にもあるけど、本当にやりきれないのはいつだって、名前も知られずに死んでいく人達だよね」
「そうね。争いが無くなれば、それが一番なんだけど」
哀しみの歴史は繰り返す。何度でも。
「本当はね、僕にもあの花畑が癒された場所なのかはわからない。 彼女への憎しみはには感じなかったけど、今も子供達は焼け野原をさ迷っているのかも知れない。 だけど僕に出来る事は、 あの花の群れの中でかつて起こった悲劇を人間が忘れないでいてくれるように、繰り返さないようにって祈る事だけなんだ」
空には遠く、真っ直ぐに伸びる飛行機雲。
人を傷つけない飛行機はたくさんの人を乗せて、平和な国の空を行く。
子供達の笑い声が響く公園には、穏やかな時が流れている。
だけど今も、どこかの国のどこかの空の下で、悲劇は繰り返されている。
「ねぇ、マリア、そこら辺に生えてる野花を適当に摘んでいこう」
ネスは垣根の周りに自生する雑草の花を指差した。
花壇に植えられた花のような鮮やかな彩りはなかったが、小さく愛らしい花が風に揺れている。
「どうするの、その花」
訝しげに首をかしげるマリアに、ネスは空を指差すと碧の瞳を細め笑った。
「届けに行こうと思って。あの場所に今も残ってる君の思い出の花だよ、ってね」
空の上ではみんな幸せで居られますように。
そう願った君の、心に咲いていた忘れじの花。
きっと今も、暖かい風の中で穏やかに揺れているだろう――――
2004.6.26 更新
我ながら難しいテーマに手を出してしまったな、と思いつつ。
書き上げるのは早かったんですが、ぎりぎりまで台詞やらモノローグやら色々といじりまくってました。
人間の歴史の中で、争いが起こってなかった時代ってあるのかい?
平和な国はあっても、平和な時代はないのですよね。
敵とか味方とか、そういうのじゃなくてね。戦争に限らずだけど。
傷ついて、死ななくてもいいのに死んでしまった人はみんな、せめて優しい世界に旅立っていったのだと祈りたいですよ。奇麗事だけどね。
誰も奇麗事を言わない、言えない世界にならないように。
そんな事を思うこの頃です。追記。久しぶりにTONOの「ダスク・ストーリィ」読み返したら、ネタ被ってたですよ(失笑)。海岸の夢のおじいさんの話…。