Battle X'mas
PM7:00
「いらっしゃいませ! そこのカップルの方、お一ついかがですか? このケーキとシャンパンで、ロマンチックに乾杯しませんかーっ」
今日が一体何の日か知っているか?
そう。世界中、あらゆる先進国が呆けっぱなしのこの日がだ。
俺は知っている。もちろんだとも。
クリスマス・イブだよ。
偉大なるキリスト様の生まれた日――の前日だ。当日ですらない。
日本は仏教国じゃなかったのか。そもそも日本古来の宗教は、八百万の神を信仰する神道なのだ。なんだって、遠く離れた外国の教祖様が生まれた日を前日から祝っているのだ。ここは日本ではないのか。日のいずる黄金の国ジパングじゃなかったのかっ!
日本人なら、大晦日にはそばを食べ、お正月にはおせちと餅を食べ、神社に出向いて賽銭の雨の洗礼を浴びつつもおみくじ引いて一喜一憂だ。それが正しい日本人のあり方というやつだ。
「ケーキとシャンパンが、セットで何と二千円! そこのご家族、いかがですか? 今ならオマケでこの可愛いアロマキャンドルつけていますよー」
不条理だ。これは由々しき事態なのだ。日本の文化が欧米の価値観に侵食されていく危機感を持つべきだ。アロマキャンドルとか横文字に踊らされているんじゃない。ただの匂うろうそくじゃないか!
もしこの国が今でもスシ・テンプラ・サムライの国だったとしたら、俺だってこんな所でケーキセット売りのアルバイトをしなくても良かったのだ。
しかもコスプレで。夜の闇に紛れてプレゼントを配り歩くとはとうてい思えない、実用性を無視した赤の衣装。似合わない髭とかつけてみている。お約束のサンタクロースルックである。
カップルばかりが、目の前を幸せそうに通りやがるのです。
俺だって彼女が欲しいです。遊びたいです。だからせめてこのケーキを買って俺の勤務時間短縮にご協力下さい。
「いらっしゃいませー!」
虚しい。けれど、日払いバイトの誘惑につられて仕事を請け負ったのは、間違いなくこの俺自身である。
あぁ、何たる悲劇。全て貧乏が悪いのだ。内心でくだを巻きつつも、愛想笑いは忘れない。完売ノルマを目指して、今日も必死に稼いでいる。高田恭平。貧乏ヒマ無し大学二年生。
ちなみに、一浪したため現在二十一歳。
きっと二ヵ月半後のバレンタインデイでも、俺はチョコレートに埋もれて声を張り上げている。もちろん、貰う側ではなく売る側として。
実家を離れ、一人暮らしを始めて三年。浪人時代の予備校費用を捻出してもらった手前、両親の仕送りは最低限しか貰っていない。学費も生活費もほぼ自分持ちで、アルバイトに明け暮れる日々を送っている。
一応、大学内ではサークルにも入っているのだが、こんな生活では度々顔を出す事もできず、俺のキャンパスライフは非常に世知辛いものとなっていた。
趣味とは言え、己の選んだサークルもどうかと思う。
囲碁将棋研究会。
漫画やアニメで取り上げられて、一時的に盛り上がった事もあったが、今は寂しいものだ。どれくらいの大学生が囲碁や将棋を趣味としているのか疑わしい。
我が趣味ながら、若者にはいささか渋すぎる。それも大会、段の取得などを目指しているわけでもなく、ただ集まって適当に遊ぶだけのサークルだ。当然のように、女子は少ない。メンバーはわずか六人び内、女子は一人だけである。
その紅一点である西沢さんが、実は俺の想い人でもあった。渋い趣味だが野暮ったい事はなく、清楚な感じの大和撫子だ。
しかし俺は日々アルバイトに明け暮れる苦学生。顔だって地味でパッとしない。しかも一浪ときたものだ。頻繁にサークル活動に顔を出す事が出来ない俺は、いまだに彼女と挨拶以外でまともな言葉を交わしたことがない。
大体、あんな可愛い子に彼氏がいないわけがない。そう思い込む事にしている。
勝負に出る前に負けているのだと、解っている。俺は土俵に上がる前に、尻尾を巻いて逃げたのだ。
こんな俺では、振り向いてもくれない。そんな事実を突きつけられたら、ちょっと立ち直れないかもしれないから。
頭の中では淡い恋の葛藤を描き、外面はサンタ姿でおどけて客寄せをする。
華やかなネオンの中で、俺はいつでも変わらない。アルバイトと勉強、ほんの少しの娯楽の間でふらふら揺れ動いている。
「ケーキとシャンパンいかがですかー」
何だか、マッチ売りの少女になった気分だった。
PM8:00
「いらっしゃいませ! ケーキとシャンパンのセットいかがですかー? おまけで可愛いアロマキャンドルつけていますよー」
ラベンダーの香りのアロマキャンドルは、雪だるまの形を模している。女子供に媚を売らんとするそれは、むやみやたらに可愛らしくデフォルメされた顔で、俺の姿をあざ笑っているかのようだ。何がおかしい、スノーマン。
忙しさのあまり、キャンドルを相手に八つ当たりをしている俺がいる。
「本日、残り十セットです!」
頑張った。これならば十時までに売り切れそうだ。完売したら、日当てに色をつけてやるとの店長直々の言伝を受けている。年末年始は安泰かもしれない。
「サンタさん、プレゼント頂戴」
赤い上着の裾を引っ張る、小さな手が視界に入った。
お子様、お一人でご来店。歳の頃は五歳前後、性別は女、ご両親らしき人物は見当たらず。
そこはさすが俺。これしきでは動じない。このおまけのキャンドルは、サンタ変装に惑わされたお子様の、夢を壊さないための小道具でもあるのだ。
「やぁ、かわいいお嬢さん。サンタさんは今、君へのプレゼントを持っていないんだ、ごめんね。君が眠った頃には、ちゃんとおうちに届けてあげるよ。せっかくだから、特別にこれをあげよう。お友達には内緒だよ。いいね」
女子供が大喜び、雪だるまキャンドル。少し多めにご用意いたしております。お好きなものをどうぞ。
しかし、このお子様は一味違った。キャンドルを手のひらに乗せ、こちらを見上げて頬を膨らませる。
「ケーキじゃないの?」
両親に告ぎます。即刻出てきなさい。そしてこのお子様を連れ帰りなさい。
そこは無垢な子供として、大人しく騙されておかなくてはいけない。全く、最近の子供は教育がなっていない。これは売り物なのだ。労働の成果を上げるための重要アイテムを、下さいといわれて差し上げられるわけがない。
そこは大人な俺。付け髭、付け眉毛のせいでむれている顔には、優しげな営業スマイルを崩す事無く浮かべ、お子様に世の中の仕組みを説く。
「これは大人へのプレゼントなんだよ。大人は子供と違ってサンタさんにプレゼントをもらえないから、お金で買わなくちゃいけない。大人達がプレゼントを買ってくれたお金があるから、サンタさんは子供達へのプレゼントを買えるんだ」
別にあながち間違ってはいないだろう。事実そう言う風に世の中は動いている。
消費と供給の関係を、こんなお子様相手にさり気なく吹き込んでいる俺って一体。
「ところで、パパとママはどこかな?」
あわよくば、このケーキを売りつけてくれよう。俺は商売魂を燃焼させる。
しかし、お子様は首をかしげるばかりである。
「パパとママ? 知らないよ」
そうかもしれないとは思っていたが、やはり迷子か。参った。
このケーキ売り切ったとしても、あと一時間はシフトから抜けられない。この人ごみでは、探すのは難しいだろう。交番は遠い。
「はぐれちゃったのかな」
「はぐれてないよー? 最初からひとりだもん」
だめだ、会話がかみ合わない。
「サンタさん、ここに居ていい?」
ぶっちゃけると邪魔だけれども、勝手にどこかへ旅立たれてしまうよりはましだろうか。この幼児が両親を探し出せるとは思えない。両親が探している最中ならば、尚のこと一ところにじっとしてもらっている方が有難いだろう。
「じゃぁ、この裏のベンチに座っていてね」
本当に、親はどこへいったのだろう。最近では物騒な事件も多いというのに、無責任なものだ。
ああ、酒が飲みたい。一缶九十八円の安物チューハイでもいいから。
何だか泣けてくる。相変わらず視界に映るのはカップルばかりで、仕事後にはやる事が一つ増えた。
「いらっしゃいませー」
「サンタさんもフキョウでタイヘンなんだねー」
口の減らないお子様だ。本当に泣けてくるだろうが。
こんな言葉教えてるんじゃないよ、どこの誰が両親なんだか知らないけれどさ。髪型は両サイドをチェックのリボンで結い上げている。服は白いコート、チェックのスカート、毛糸の手袋。特に手荷物らしきものはない。目立った特長もなし。
さて、どうするか。
彼女は大人しく後ろのベンチに座っている。この点においては、非常に聞き分けの良い子供で助かった。
今の所、彼女の両親と思われるような、子供を捜している様子の大人は見当たらない。
心底、困り果てた。
それでも営業スマイルは忘れない。
これは仕事。俺の生活がかかっている!「どうですかお客様。自慢のケーキです〜」
本当に、世知辛い世の中です。
PM9:00
ケーキセットは無事に完売御礼。今日のバイトはこれにて終了。 家に帰ったら一人きり、シャンパンとショートケーキで寂しい乾杯だ。
こんなカップルだらけの街角は、さっさとおさらばするに限る。目の毒だ。
「サンタさん、お仕事終わった?」
忘れていた。このお子様を交番に送り届ける任務を、遂行せねばならないのだ。結局親らしき人物は来なかった。小さな子供はちゃんとはぐれないように、見張っていなくてはいけないというのに。
仕事が終わったのかと、彼女は訊く。
終わったとも。本物のサンタクロースだったら、これから大忙しだろうけれどな。
いけない。お子様の夢は最後まで壊さないようにしなくては。
とりあえず、店の入り口まで待たせておくとしよう。
「ちょっと、サンタさんいかなきゃ行けない所があるからっこで待っていてね」
中でさっと着替えて日当てを貰ったら、何気なく登場すればよし。サンタさんは忙しいからかわりに俺が、とか言っておけば済む話だ。
「店長、完売ですよ!」
やっとこの邪魔臭い付けヒゲ付け眉毛から解放される。
「おう、頑張ったな。着替えていいぞ。明日は昼間頼むな」
ああ、そうだとも。明日は昼間にまたこの仕事だ。彼女のいない貧乏大学生にとって、クリスマスはクルシミマスでしかない。
「あー、サンタさん若返った!」
おいおい、入り口で待っていろと言っただろう。何でここまで来てしまいますか。しかもここは、従業員しか入れない所なのですが。どこから入りましたか、お嬢さん。
「ねー、サンタさん遊ぼうよ〜」
「何だよ高田、隠し子かぁ?」
「店長、そんなわけないでしょう。迷子です、迷子」
「サンタさんは高田さんて言うの?」
ややこしくなってきた。俺は今、非常に嫌な予感がしている。
ほら、店長が笑っているし。にやにやしているし!
「サンタさん、ちゃんとその子を送り届けて下さいね」
来た。店長の悪ノリが来た!
「あの、その前に着替えて……」
店長、何をしているのですか。嬉々として、段ボールにケーキのポスター張り付けたりしていませんか。
逃げてもいいのなら、俺は全力疾走する準備はいつでもできていた。
ただし、まだ日当てをもらっていない。着替えと手荷物の回収も済んでいない。
「高田、お前徒歩で帰っていたよな」
「はぁ、二駅分なので、大体は徒歩ですね」
嫌な予感、的中している気がする。
「日当てに千円上乗せ。明日来る時もなら二千円」
「……やります」
俺は馬鹿か。たかだか二千円で踊らされるなよ。
しかし、二千円は結構家計に響くのだ。二千円あれば何日分の食費になることか。
所詮、貧乏人に選択肢なんかないって事だ。
「着替えと荷物持ってくるんで、それ仕上げといてくださいね」
そして俺は開き直った。
ケーキの宣伝張られた段ボール看板。ラメ入りのモールでくくって、首に引っ掛ける。当然のようにまだサンタルックは継続中である。片手に持った荷物は、白い袋ではなく普通のスポーツバック。もう片手に、売れ残りショートケーキ詰め合わせ。付けヒゲと眉毛は免除されたが、余計に恥が増しただけの気がする。
大きな通りの内は、まだ宣伝のバイトだと開き直って歩けそうだが、人気のない所をこの格好で歩いていたら、変人と呼ばれても何ら否定はできない。
そのあたりまで行ったら、公衆トイレなどの適当な場所を見つけて着替える事に決めた。まずは恥をしのんで、このお子様を交番にお届けだ。
「で、名前は何て言うんですか、お嬢さん」
いい加減営業スマイルを使うのも疲れ果てた。テンション低めの声などまるで気にしていない様子で、幼女はXサインをかがんだ俺の眼前に突きつけた。
「てんし!」
「天使? 随分思いきった名前だな」
悪魔君よりはましだろうか。それにしても、最近の若い親は変わった名前をつけたがるものだ。俺の名前など、全国に何人の同姓同名がいるかわからないのだが。でもまぁ、読めない名前よりはいい。
「上のお名前は解るかな」
天使ちゃんは、満面笑顔で首を振る。これくらいの歳の子供なら、それも仕方がない事かもしれない。けれどこんな変わった名前なら、探すのも探されるのも簡単そうだ。
「サンタのお兄ちゃん、てんし、あれがやりたーい!」
天使ちゃんが指をさしたのは、百貨店の福引き会場だった。クリスマス特別バーゲン中に付き、本来九時閉店のところを十時迄営業している模様である。ガラガラと乾いた音でこぼれ出てくる色とりどりの玉が、彼女にとってとても楽しげな遊びに見えるらしい。
「天使ちゃん、あれをやるには券が必要なんだよ」
それも、合計一万円分の買い物をしないと券は手に入らない訳でして。そんな大金はたいてしまったら、俺は来月まで生き延びる自信がありません。何てったって超貧乏だから。
ところが、ここで天使ちゃんは、俺の前にびらりと紙切れを広げて見せた。きっちり一万円分の福引き補助券だ。
「あのお姉ちゃんと、あそこのおじちゃんと、あとそこのおばちゃんがくれたの!」
福引き券の期限は今日までだった。半端に余った福引き補助券を、彼女は集めたのだ。解って集めたのか、たまたま気の利いた大人が多くいたのか。何にしろ奇跡だ。
しかし待てよ、俺。この格好で福引をするのか。手作り段ボール看板をぶらさげたサンタルックで。羞恥プレイも甚だしい。
「サンタのお兄ちゃん、ガラガラ回して!」
やらなくてはだめですか、納得しませんか、そうですか。
子供の無邪気さは時に罪でございますね。
いいのだ。今の俺はすでに高田恭平ではない。
良い子の味方、さすらいのサンタクロース。
今宵はお子様に夢をお届けします!
全く自慢にならないというかむしろ汚点だけれども、俺のくじ運の悪さは伝説的だった。戦歴は全敗。おみくじでは三年連続で凶を引き、地元の商店街の福引きでも、残念賞のティッシュしかもらったためしがない。年賀状のお年玉切手シートですら当たらない、奇跡のくじ運のも持ち主なのだ。
それでも俺はあえて立ち向かおう。
天使よ、よく見ていろ。これが戦う漢の背中だ。
おいでませ残念賞!カンカンカーン。
「おめでとうございます! 特賞二十万円旅行券が当たりました!」えーと、夢オチですか?
PM10:00
「天使ちゃん、これはパパとママにあげるんじゃないのかな? すごーく、とってーも、高価なものだよ?」
そりゃもう、二十万円分。元手がタダとはいえ、俺がもらってもよろしいのでしょうか。元がタダだからこそ、余計に気になる。
「えー、いらなーい。てんしはあのガラガラを回すところを、見たかっただけだもん」
左様でございますか。本当にもらってしまいますよ。後悔はありませんね。
金券ショップで換金したら、今月の家賃余裕で払えてしまうどころか、来月までの生活費が残る。ありがたや、天使様々。
「えーと、そろそろ交番にいこうねー」
「やだぁ、まだ遊ぶ! 次あそこ!」
お嬢さん、俺はそろそろこのサンタルックを脱ぎ捨てられる場所に行きたいですが。だめですか。まだまだ羞恥プレイは続きますか。
「早く早くぅ!」
お嬢さん、そこはコンビニです。
俺は今、サンタさん。やめてください。よしてください。俺はまだ若くて未来ある青年なわけでありまして、これ以上の辱めを受けるのはなけなしのプライドを完膚なきまでに打ちのめされてしまう所存。せめて着替える猶予を下さいませ。
あぁ天使様、入ってしまわれた。何とご無体な。
「サンタのお兄ちゃんも早く!」
俺も付き添いで決定ですか。あぁ、非常なり天使様。これは何の試練ですか。お断りしたら地獄に落とされちゃいますか。
「あのさ、サンタさん、この服着替えたいなーって」
「赤い服じゃなきゃサンタさんじゃない!」
嗚呼天使様、なんという厳しいお言葉!
ええい、今更何を恐れることがあるのか。否、何もない。俺はこの看板を背負ったサンタコスプレで、福引だってやって見せた。
そうさ、魔法の呪文。心の中で唱えるのさ。
今の俺は高田恭平ではない!
さすらいのサンタクロース!(手造り看板つき!)
「い、いらっしゃいませー……っぷ」
笑うな店員。もう、いいよ。笑われようが何しようが。この手造り感溢れる看板が、何よりも示してくれている。この格好がアルバイトの苦渋の選択であることを。
旅行券とアルバイト代とを合わせれば、しばらくかなり楽な暮らしができる。これくらいの羞恥プレイはご愛嬌と思わなければならない。
でも、本当にもう勘弁してください、天使様。限界です。
店のすみからすみまでぐるぐると。確かに俺はお菓子ぐらい買って差し上げると、そう申しましたけれど。もう十五分はこの店にいるわけですが。
そろそろ店員と客の視線が痛いのです、天使様。
「いらっ、しゃいませ……」
店員さんの声のトーンが急に下がった。
見れば、あまり身なりの良くない中年男がご来店の様子である。帽子を目深に被り、背中を丸めて、強盗と間違われそうな風貌の男性だ。これは、思わず店員さんが引くのも無理はない。
やはり、天使様には適当にお菓子を見繕って差し上げる事にして、さっさとこの店を退散いたそう。
俺としても、サンタコスプレの羞恥抜きでそろそろ帰りたくなってきたところだ。
いや、しかし。
気のせいですか。それとも夢ですか。
先程のおじさまが、銃をカウンター内の店員さんに突きつけているように見えるのは、疲れた俺の幻覚ですよね、きっと。そうですよね。
夢ならさっさと醒めてくれ。グッバイドリーム。カモンリアル。
「金をだせ。金庫の中のも全てだ。これに入れろ」
悲鳴が聞こえてきます。男はお約束的に黒のボストンバッグをカウンターに預け、金を入れるように要求中。
夢から醒めるなら今だ。このタイミングだ。早くしてくれ。ハリーアップ。
無情にも、悪夢は遠巻きに続行中である。
「サンタのお兄ちゃん、あの人何してるの」
あぁ、人を指差してはいけませんよ、天使様。
俺は慌てて彼女の口を塞ぐ。できるだけ声を潜めて、耳元で囁いた。
「しーっ、喋っちゃダメ!」
しかし、彼女は言葉を発する代わりに、じたばたと暴れ始めた。焦る俺の気持ちなど知る由もない。
「ガキ! 殺されたくなければ黙ってろ!」
強盗現行犯、こちらに気付いてしまわれましたが。
天使様、俺はまだ死にたくないです。
さて、このウルトラハイパーミラクル大ピンチ、どうやって切り抜けますか、さすらいのサンタクロース。一、トイレの窓から頑張って脱出。
二、トイレでこっそり携帯電話にて通報。
三、そもそもトイレに行けないだろう、この状況。何もしないで大人しく降参。
四、よーし、勇気を出して戦っちゃうぞ!ここは手堅く三番で。俺の中で命の安全が最優先された。
しかし、どこか釈然としない気持ちも湧いて出た。この強盗も、何だってこんな街中の目立つコンビニに入るのだろうか。金を必要としているくせに、銃を簡単に入手できるのだろうか。導き出される可能性としては、極道の鉄砲玉さんあたりとか。それもかなり頭の悪いチンピラさん。
冷静に分析してどうするんだよ、と自分を叱咤しつつ、俺の選択肢は変わらない。
「ごめんなさい、黙ります」
へたれと呼びたければ呼ぶがいい。命あってのものだねという言葉を、俺は今この瞬間に力いっぱい実感しているのだ。
ところが天使様、男の態度に怯えるどころか、大いにご立腹のご様子である。ああ、嫌な予感。
「おじさんなんか、サンタのお兄ちゃんがやっつけちゃうんだから!」
無理でーす!
高校時代はバスケ部に所属していたものの、もう随分前の話です。しかも補欠でした。俺は基本的にインドア派なのです。囲碁や将棋などに興じるのが好きな、じじむさい趣味の二十一歳でーす。
戦闘力は限りなく低いです。しかも向こうと装備が違います。
レベル1でラスボスは倒せませんから!
「て、天使ちゃん、危ないから、し、静かにね」
「バーカ! おじさんのバーカ!」
てーんーしーさーまーぁ!!!
俺の心の絶叫など、どこ吹く風。天使様、店内商品を投げつけて攻撃態勢に移りました。
さすらいのサンタ、どうする?
銃口がこっちに! どうする!
現在の装備、右手ダンボール看板、左手ケーキ詰め合わせですけど!?
「なめんなよクソ親父―――――――ッ!」
さすらいのサンタ、振りかぶって余りもののケーキ、第一球投げつけました!
ぐしゃっ、べしょっ、と濡れた音。
ストライク! 野球部でならエースになれたかも!
拍子で銃口が、天井に向く。拍子で放たれた銃弾は蛍光灯を割り、店員と客の悲鳴が渦巻く。
しかし次の瞬間には、その音の軽さと天井に残された跡に、さすがに誰もが気が付いた。
見た目よろしく作られたエアガンなのだ。本物の銃じゃない。
「正義のサンタのお兄ちゃんが、せーばいだーっ!」
もうヤケクソだ。
さすらいのサンタ、天使様のご期待に応えて頑張ります!
だって、銃は偽物だし!
「食らえサンタキック!」
顔満面にはりついたケーキの残骸に、四苦八苦しているツメの甘い強盗に、俺は華麗なスライディングキックをお見舞いした。
膝かっくん状態で倒れ伏したところで、プロレス見様見真似四の字固めが炸裂。ノックアウト。
今の俺、かなり凄くないだろうか? ちょっとかっこよくないだろうか?
「ありがとうございます!」
店員が、通報して戻ってくる。お礼を言われて、得意満面の俺。
しかし、悪夢はまだ終わってはいなかったのだ。店員が尋ねてくる。「お名前うかがってもよろしいですか、その……、サンタ、さん?」
我に返る。
俺は今サンタ服です。
さっき、調子に乗ってサンタキックとか叫びました。
ギャラリーも集まっています。皆さん、こちらをご覧です。「えーと、さすらいのサンタです」
ややウケでした。
PM11:00
「ご協力ありがとうございます。それにしても、何だってその格好で?」
「いえいえ、とんでもないです。あ、この格好はアルバイトでして……」
本当なら、もうとっくの前に着替えている予定だったのだ。やむをえない深い事情で、いまだにこの格好なわけであって、全くの不可抗力だ。
もしもし、おまわりさん。そろそろ着替えて来てもいいですか。ギャラリーが集まりまくっているもので、羞恥プレイどころかほとんど拷問です。
俺だって勝負服と言わないまでも、せめて普通の服装だったなら、胸を張って賛辞を受け取る事ができただろう。そりゃもう鼻高々だっただろうに。
「いやー、大変ですね。お名前は、えーと、高田恭平さんね」
大声で言わないでおまわりさん。死ぬほど恥ずかしいのです
「サンタのお兄ちゃん、スゴイねー」
はいはい、お褒めいただきありがとう天使様。でも、俺は一刻も早くここから離れたい気分です。頼みますから、これ以上ギャラリーが増えぬようご静粛にお願いいたします。
そんな内心の呟きはともかく、おまわりさんからのヒーローインタビューは続いている。
「いや、もう夢中で。銃が本物じゃないってわかった瞬間、これはいけそうだって思ったんですよね」
できればまともな格好でこの台詞言いたかった。
何もかも地味な俺にとって、一生に一度あるかないかの晴れ舞台なのに!
「あれ、もしかして、高田君?」
神様、気のせいでございましょうか。
何か聞き覚えある声がしましたよ。俺には無縁なはずの女の子の声です。
俺の名前で呼ぶ女の子に、一人しか心当たりはない。
アルバイト先は時給重視で選んでいるせいか、知り合いは男だらけのむさくるしい世界。大学での友人も男ばかり。入っているサークルも、囲碁将棋研究会。 サークルの女子は一人しかいない。
振り返るのが怖かった。でも無視するのはもっと怖い。
「に、西沢さん」
人生は切ない事件に溢れている。
どうして淡い思いを抱く相手が、こんな格好の時に限って現れてくれるのか! サンタクロースコスプレでなかったなら、それこそ誇り高く胸を張って武勇を語ることもできように。
「……やっぱり。一体、どうしたの」
その「どうしたの」は、このギャラリーにかかっているのか、俺の服装にかかっているのか、それとも足にへばりついている天使様にかかっているのか。
――全部か。
「いやぁ、深い事情があって……ね」
嗚呼、哀しきかな。初めて二人でまともに会話を交わしたのが、こんな状況とは。
何も解っていない天使様は、俺の足元できょとんとしている。
泣いてもいいかい、天使様。俺は大変悲しいです。「ふーん、天使ちゃんっていうの。可愛いお名前ね」
西沢さんと天使様は、すっかり意気投合の様子である。
公園の片隅のベンチで、俺は西沢さんに経緯を説明する事となったのだ。
サンタ服に刺さる通行人の視線には、ある種の悟りを開いた。すでに無我の境地。
見方を変えてみれば、こんな格好でうろついていたからこそ、西沢さんと会話を交わす機会に恵まれたのではないか。そう思えば、この赤服が愛おしい。かもしれない。
しかも間に天使様がいるおかげで、場が和んでいる。ナイスだ、天使様。ありがとう天使様。いやしかし、そもそもこの格好でうろつく羽目になったそもそものきっかけは、天使様ではなかったか。――これについては、どちらかと言うと、店長の悪ノリのせいというべきかもしれない。
何にしても、旅行券の事も合わせて考えれば、多少の恥の分を差し引いてお釣が来る恩恵ではないだろうか。前言撤回、天使様々。
「高田君、偉いね。自分で学費も生活費も払っているんだ。私には真似できないよ」
こういう会話だ。女の子とこういう会話のやりとり。
何か、大学に入って初めて、青春の香りが漂っている。
素晴らしい! 猛烈に感激だ!
「本当に、どうしようもない時はカンパをもらっているよ。大変だけど、これ以上親に迷惑かけられないからさ」
「親孝行なんだねぇ」
改めて話してみれば、西沢さんは想像を遥かに上回ってふんわりと優しい印象の女の子だった。顔はもちろん、文句なしに可愛い。ファーの付いたベージュのコートが、落ち着いた雰囲気によく似合っている。主張しすぎないメイクも好印象だ。
でも、彼女は俺を買い被り過ぎている。
俺はそんなに、上等な人間じゃない。地味で情けない男なのだ。学費自分持ちのアルバイト生活になったのも、そもそも俺が一浪した事がきっかけである。
「サンタのお兄ちゃん」
天使様が、俺の右手をぎゅっと握って笑う。
俺は今、きっと情けなさが表情ににじみ出てしまっていたのだろう。根拠はないけれど、幼い彼女の掌が「頑張れ」と言っているように思えた。
「俺、一浪して今の大学入ったんだけどさ。本当は、地元の大学なら受かっていたんだ」
何を言っているのだろう。自分でも思った。
せっかく、まぐれとはいえ強盗を倒して株急上昇、学費を自分で払う孝行息子の演出まで完了したというのに。そうして自分から、情けない所暴露してるのだか。 だけど、そもそも格好をつけてどうするのだろう。
口先だけで自分を飾り立てても、俺の服はまだサンタクロースだ。情けない中身が変わるわけでもないし、明日になったらまたアルバイトに精を出さなければならない。
どこまでいっても俺は、親父趣味でうだつが上がらない、情けない貧乏学生だ。
俺は格好悪い人間だ。気取る事には意味がない。
それでいいんだよな? 天使様。
「諦めてそこに通うなり、再受験で受かったらこっちに来るなりすれば良かったのに、俺はそこまで割り切れなかった。無理言って予備校通わせてもらって、今の大学に合格した。喧嘩になったりもしたけど、許してくれた両親に感謝している」
忘れかけていた。
浪人してでも、今の大学を選んだのは俺。
学費や生活費を、出来る限り自分で払うって決めたのも、やっぱり俺だ。
女の子にもてなくても、アルバイトに忙しくて滅多に参加できなくても、趣味の囲碁と将棋のサークルに入ったのだって、紛れもなく俺自身の選択である。
全て、自分で望んだ事だ。
繰り返しの日常が、大事な事を忘れさせていた。
「俺は大学が好きだよ。あそこに通って、自分の道を見つけるって決めたんだ。サークルも好きだ。親父趣味だろうが地味だろうが、好きなものは好きだよな」
西沢さんが、笑っている。それは、決して馬鹿にしたような笑顔じゃない。
「すごいね、高田君。尊敬しちゃうよ。かっこいいね」
「サンタのお兄ちゃんかっこいいねー」
天使様もにこにこと笑う。情けない俺を、かっこいいと言っている。
何と言えばいいんだろうな。今なら、そういう風に思われても胸を張れる気がした。照れ臭くはあるが、自分を恥ずかしいとは思わない。心境の変化というやつだろうか。
「俺って、本当に情けない奴なんだぜ。さっきの強盗だって、とっさに投げつけたケーキがたまたまストライクしただけなんだ。実は腰が抜ける寸前さ。それにしても、何であの強盗、あんな目立つ人通りの多い所を狙ってんだか。酔っ払っていたのかもな」
酒の匂いはしていたかもしれない。夢中だったから気づかなかった。
西沢さんは口元に指を添えた可愛らしい仕草で、考え事をするように視線を泳がせた。
「うーん、でもその状況だったら、普通はパニックになるよ。エアガンでも怪我はするんだから。結構、危なかったと思う」
そういえば、改造すればモデルガンでもかなり強力な物が作れるのだという事実を思い出した。そういった凶器を利用した物騒な事件が、ニュースでも取り上げられていたではないか。俺は今更ながら、顔から血の気が引くのを感じた。一歩間違えば大惨事もありえたのだ。全く笑えない。
もうこんな武勇伝はいらないな。心の中で密かに呟く。やはり命は何よりも優先すべきだ。
俺は、ひとまずこの事件を忘れる事にした。せっかくの幸せ気分を、最悪のパターンシュミレーションで汚してしまうのはもったいない。結果は無事だったのだからそれでいいのだ。
とりあえず、別の話題を振ろうと考える。
とはいえ俺と彼女の繋がりは、同じ大学のサークル仲間というだけである。共通の話題など、選べるほどあるはずもない。
「前から聞いてみたかったけど、西沢さんは何であのサークル入ったの? 失礼だったらごめん」
再び、西沢さんは少し考え込む仕草をする。指を口元に当てるのは癖らしい。そんな所も可愛いと思いつつ、俺は調子に乗りすぎた質問だったかと危惧していた。
しかし、数秒の後、彼女はあっさりと答えを教えてくれた。
「私、すごいおじいちゃん子でね、子供の頃によく遊んでもらったのよ。碁とか将棋で、よく勝負していたの。買ったらお小遣いをくれるの。大抵負けるんだけど、たまにわざと負けてくれていた」
なるほど、納得だ。
祖父の思い出話を語る西沢さんは、とても嬉しそうだった。今までだって散々可愛いと思っていたけれど、今の彼女は一味違う。幸せがにじみ出た笑顔は、街のイルミネーションと比べても遜色ないくらいに輝いていた。
そんな表情ができるくらいに、大切で暖かい思い出なのだ。
「高校とかに入ると、やっぱりちょっとは格好をつけたくなるじゃない。毎日祖父と囲碁をやっています、なんて恥ずかしくて友達に言えなかった。でも進路が分かれて疎遠になった友達とかも多くなって、ふと思ったの」
もう一度、彼女は口元に指を添える。
「好きなものを好きといえない事の方が、ずっと恥ずかしいんじゃないかな」
きっと彼女にとっては、もの凄い勇気だったのだ。
女の子が一人で、あの男だらけのサークルへ飛び込んでくるのに、抵抗がなかったわけではないだろう。彼女は好きだから選んだのだ。自分の意思に自信を持って。
「西沢さん、かっこいいなぁ」
「高田君ほどじゃないよ」
何だか、今日は嬉しいな。
世間がいくら楽しそうでも、自分には何も意味がない。あくせく働いて一人で眠って、明日になったらまた繰り返して。そういう風に時が過ぎていくと思っていたのに。
迷子の子供を拾ったかと思えば、タダで福引は大当たり。いきおいだけで強盗を倒して、憧れでしかなかった女の子と、こんな風に親しげに話している。
つい数時間前まで、こんな展開になるとは思いもしなかった。
天使様がにこにこ笑って俺を見上げている。「テンシ」なんて、変な名前だと思ったけれども、この笑顔をならばお似合いだ。
――と、重要な事をここで思い出した。
「天使ちゃん、おまわりさんに預ければ良かったんだ」
そういえば、この無邪気なハッピーチャイルドは迷子だったのだ。すっかりそこにいるのが自然だと思うようになっていて、失念していた。
西沢さんも同様だったらしい。天使様の前に回って屈みこむと、目線を合わせるようにして首を傾げる。
「天使ちゃん、おうちはどこか解る?」
天使様はきょとんとした。これは相当に難易度が高そうだ。
すでに誘導尋問に失敗している前科もちの俺は、西沢さんに任せる事にした。子供も優しい女性に尋ねられた方が、答えやすいのではなかろうか。
「ねぇ、どんなおうちに住んでいるの? どっちの方向から来たのか解る?」
西沢さんは質問の趣旨を少々変える戦法に出た。天使様は、どうやらこれは理解できたらしい。にっこりと笑った。
「あっち!」
やっぱりダメだこりゃ。全く解っていない。
天使様が誇らしげに指を指した先は、街のネオンにぼんやり色づいた夜の曇天である。さすがに空におうちはないだろう。本物の天使ならばともかくとして。
「あのな、天使ちゃん、パパやママと一緒に住んでるおうちの事だぞ?」
俺はもう一度、ゆっくりと質問を繰り返す。やはり、ゴートゥー交番だろうか。
西沢さんと二人、顔を見合わせて苦笑した。
「パパとママはまだいないよ。てんしはまだ生まれていないもん! でもかみさまなら、お空にいるよ!」
もう一度、天使様は空を指差した。
子供の突飛な空想に驚かされながら、俺は問い返す。
「か、神様?」
「うん、かみさま! あ、お迎えだ!」
「お、おむかえ?」
天使様の指の向こうには、ビルの谷間から覗く冬の夜空。
俺達は、顔を見合わせて空を見上げる。
ネオンの光に彩られて、白の輝きが散っている。ふわり、ふわりと、柔らかな軌道を描いて、俺達の肩へと舞い降りる。――雪だ。
午前零時の鐘がなる。ホワイトクリスマスだ。「サンタのお兄ちゃん、またね!」
AM0:00
「天使ちゃん?」
西沢さんの声で、俺は我に返った。
さっきまで、確かにすぐそばで笑っていたはずの天使様がいない。 二人が少し空を見上げている間に、どこかへ隠れたのだろうか。
ブランコとベンチと、芝生ばかりの見晴らしがいい公園で、幼児がそんな真似をできるとは思えない。プリンセス・テンコーも吃驚のイリュージョンだ。
「どうなってんだ? さっきまで、そこに……」
本当に消えてしまった。
見渡しても辺りにいるのは、酔い醒ましに散歩をするカップルと、律儀にこんな日まで犬の散歩とジョギングの日課を欠かさない中年男性の姿だけだ。
「まさか、本当に天使とか?」
「まさか、そんな、でも……」
二人で困惑しながら顔を見合わせる。どちらともなく、手分けをして探し始めた。公園を一回り、街の商店街からコンビニ、公園に至る道程を巡る。
どこを探しても、天使はいない。
聖夜の街は、まだまだ眠る気はないのか、あちこちから青春を謳歌する若者の歓声が聞こえてきた。その中に、幼い少女の声はない。
「迎えがきた、って言っていたよな」
もしかすると公園から出たすぐそこに、両親が車を止めていたのかもしれない。現実的に考えれば、その可能性が一番高い気がする。けれど、俺はそんな憶測じゃ納得できなかった。
彼女は最後に「またね」と言った。
まるで、再会を確信しているかのように。
いいじゃないか。今日はクリスマスだ。俺は信じる。
「きっと、空に帰ったんだな」
彼女は天使なのだから。神様の待っている空に帰っていったのだ。
西沢さんは、頷いて空を見上げた。天使様が「お迎え」だと言った雪は、少しずつ地面を白く染め上げつつある。
天使様の去った夜空に向って、彼女は手を伸ばす。雪を掌で溶かすように握り締めて、こちらを振り返った。
「そういえば、明日もケーキ販売をやるんだよね」
俺は店長お手製の看板に目をやった。強盗騒ぎで折れ曲がってしまった上に、雪で湿ったために字が滲んでいる。それでも宣伝の趣旨は伝わる程度に、原型を留めていた。
「夕方までだけど。またこのサンタ服に、付けヒゲ付け眉毛だよ」
夢いっぱいだった俺の頭は、現実へと引き戻された。明日もコスプレ出勤だ。
俺の落胆振りがおかしかったのだろう。西沢さんは笑いをかみ殺したような顔で、俺の肩をそっと叩く。
「買うから、一セットお取りおきヨロシクね」
「いいけど、種類はどうする? 生クリームかチョコレートだけど。家族で食べるの?」
「チョコレートで。ちなみに私、今は一人暮らしよ。親元離れているから」
俺は店長直筆の看板を見直した。ちゃんと「ホール売り」と書いてある。いくら女の子が甘いものを好むと言っても、ワンホールのケーキとシャンパン一本を消費できるとは思えない。 ――とすると、答えはおのずと限られるわけだが。
「友達か、その……彼氏用?」
おずおずと尋ねる俺に向って、彼女は笑いながら首を横に振る。
「私、彼氏いないのよ。で、友達はみんな彼氏持ち。女一人の寂しいクリスマスなの」
「えーと、それは、つまり……」
期待してもいいのだろうか。さすがに厚かましいだろうか。
頭の中はパニック状態。様々な思考が駆け巡っては消えていく。
「明日、バイト終わったら、二人で食べようよ」
思考が一気に消し飛んだ。
もう何を考えても意味がない。俺が今さっき聴いた言葉が、妄想の果てに大量噴出したアドレナリンが聞かせる幻聴じゃなかったのだとしたら。
「本当に?」
一応、念のために確認しておく。
憧れだった西沢さんが、こんな近くで笑っている。それだけで、夢みたいだって思えるのに。少し上手くいきすぎじゃないのかと、要らぬ勘繰りをしてしまう。
「すっぽかしたりしないよ。ほら、今日せっかく仲良くなれたんだしね」
神様、ありがとう。
天使様、ありがとう。
クリスマス万歳! キリスト様誕生日おめでとう!
アルバイト中に散々けなした事を今、心よりお詫びします!
「じゃ、ケーキとシャンパン取りおきするよ。今のうちに渡しちゃおう、これはオマケ」
女子供の心を鷲づかみ。雪だるまのアロマキャンドル。
「かわいい! ありがとう!」
喜んでいる彼女を見ていると、憎らしくあったこの雪だるまが愛らしくてたまらなくなるから不思議だ。俺も相当現金な性格をしている。
だって、今までこれほどまでに素晴らしい日が他にあるだろうか。
きっと、こんな波乱に満ちた、けれど幸せなクリスマスなんて、一生に一度きりに違いない。
「俺は、今、世界一幸せだ!」
恥も外聞もかなぐり捨てて、俺は空に向って叫ぶ。――天使様。聞こえているかい?
結局、本物の天使だったのか、そんな事はきっと彼女と『かみさま』しか知らないのだろうけど。俺にとっては天使だった。
いや、サンタクロースだったよ。
大きなプレゼントをくれた、サンタクロースだ。
「きっと、高田君が頑張っているから、天使ちゃんが幸せをプレゼントをくれたんだね」
微笑んで、西沢さんの手が俺の掌に触れる。
舞い降りる雪は優しく、街はまだまだ眠らない。
焦ったり恥ずかしかったり色々大変だったけれど、大切な事に気付いた日。
今日はクリスマス。本当に素晴らしいプレゼントだとも。空に届くように、大きな声で言うよ。しっかりと聴いてくれ。
「メリークリスマス!」
end.
2003.12発行同人誌より、2006.12加筆修正再録。