姫雪峠

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 淡雪彷徨う枯野原
 御霊よ恋しき姫雪峠
 哀しき唄に契り乞う
 運命儚き秘め逝き峠


 姫雪峠と名づけられた場所がある。
 秘め逝き峠との名も持っているその山は、死人の行く場所として、麓の里の者から畏れられていた。
 何も、珍しい事ではない。険しい山というものは、何処にあったとしても人に畏怖の念を抱かせるものなのだ。
 山に好んで入る人間など、狩人と木こり、そして修験者くらいのもの。
 徳之助は修験者であった。
 枯野は雪に覆われ、彼の山も白く化粧をしている。それほど高くはない山であったが、木々の隙間に見える岩肌が、越えるに易い道ではない事を物語っていた。
「どうしても、いきなさるのかね」
 深く腰を曲げた老婆は、今一度確かめるように、上目遣いでそう言った。徳之助は、大きな胸に拳を打ち深く頷く。
「険しき道ほど、修行に相応しいものとなりましょう」
 しかしどうやら、老婆の危惧しているのは、そのような事ではない様子であった。深い息と共に、峠を眺め見る。朝焼けに染まり、白い山肌が微かに色づいていた。
「峠の、一番てっぺんまで行きましたらな、特にこの時期は危ないのじゃ。雪姫様がおわしますからのぅ」
「雪姫様とは……、あの峠にお住まいで?」
 恐らくは山神として祀られているのであろう。この様子では、守護の神という訳ではなさそうだ。祟り神かもしれない。
「まさか貴方様には、後ろ暗い事などまるでなかろうが、あの山、姫雪峠にはな、雪の季節には死人の国の姫君がこちらに来なさるのじゃ。秘め事を持つ者がいきますと、奈落につき落としてしまわれるそうじゃ。お気をつけなされよ」
 やはり、祟り神であったか。
 老婆の言葉に軽く相槌を返して、徳之助はゆっくりと腰を上げた。
「それでは、世話になりました」
 一晩の宿の礼を述べ、はるか白い頂を目指して雪道を踏みしめる。息は白く、霞みのごとく風に流されては散ってゆく。
 里が白砂に散らばる細石のように、遠くまばらに見える頃、徳之助は峠道の入り口に辿り着いた。
 吹き降ろしの風はひどく冷たく、徳之助は藁衣の紐をきつく締めなおした。藁履で踏みしめる雪は、さくさくと軽い音を立て、山道を風に飛ばされてゆく。
 枯れ山には、時折、鳥が黒い影を躍らせているが、兎一匹すら姿を現さず、細い黒々とした枯れ枝を鳴かせる、風の音だけが耳についた。
 冬の間は誰も寄り付かぬという、あの老婆の話は真実であったようだ。道は厚い雪に覆い隠され、人が行き来した跡はどこにも見当たらない。道筋は、木々や岩の様子で判断するより他になかった。
 人にあらざる者とは知りながらも、こんな所に住まう姫君は大層な物好きであろうと、徳之助は頭の片隅で考える。
 ようやく頂が見え始めた頃、すでに日は傾き、白い雪肌を淡い光が彩り始めていた。
「まいったな、夜を越せる場所があればよいのだが」
 道の悪さに手間取り、思いのほか時を要する事となった。このままでは、越える前に夜を迎える事となる。
 とはいえ、今更引き返したところで、この山で夜を明かさなければならない事実に、変わりはない。
 覚悟を決めて、さらに登る道を踏みしめた。
 風に鳴く枯れ枝の音、雪を踏みしめる藁履の音。その二つの音だけが永久に続きそうな、自分独りだけが何処か人の世ではない場所へと、いつの間にか迷い込んでしまったのではないかのような、そんな感覚を覚える。
 あまりに静かなこの道は、確かに死人の国に通じていたとしても不思議な事とは思わなかった。
 陽がその姿を地平の先へと隠した頃、徳之助はようやく峠の頂きにたどり着いた。
 厚く積もった雪に、半ば埋もれかけた社がある。
 日の落ちた辺りは既に辺りは薄暗く、様子を詳しく見ることは出来なかったが、それ程古くはなさそうだ。
 徳之助と同じような修験者か、それとも里の者か。幾年か前に、夏の間にでも建てた物なのだろう。
 社の近くには、中々に枝ぶりの良い立派な杉の木が数本あり、その内の一本には大人でも入れそうな大きな洞があった。中を覗いてみると、くたびれた藁の筵が放置されており、人が使っていただと知れた。
 思えば、この峠には途中、山小屋らしき物は何も見なかった。夏場、この峠を越える者達は、この木の洞で夜と雨露をしのぐのだ。
 先人に倣い、背負っていた蓉と肩箱を置くと、徳之助はその洞の中に、潜り込んだ。
 道すがら拾い集めておいた枯れ枝に、石を打って火を移す。洞の中に胡座をかいて、次第に夜の色に染まる雪の景色をじっと眺めていた。
 夜が明けるまでこのまま火を絶やさずに、じっとしているより他にはない。
 よく晴れていた空には、いつの間にか暗い雲が重くひしめいている。
 はらりはらりと、雪が舞い降り始めていた。燻りながらもちろちろと燃え続ける火と一面の雪明りで、闇夜にしては不思議と明るかったが、不気味な程静かであった。
 嵐を心配したが、雪はあくまで穏やかにしんしんと降り積もり、強くはない火をかき消す事はない。風もなく、己の息の音と枝が火に爆ぜる音だけが、この地での生きる証のようでもあった。
 徳之助はただ黙々と、焚き火の火を絶やさぬ事だけに全ての意識を集中させる。朝までこの火を守り続ける事が、自分の使命であるとすら思った。
 視界の端にちらつく雪の花ですら、意識の外へ追い出してみせよう。枯れ枝を握り、念仏を唱えながら、徳之助はひたすらその火に向かい合っていた。
「もし、旅のお方」
 その声の主が誰であるかなど、考えもしなかった。
「後にしてくれ」
 ぞんざいに言い放ち、再び念仏を続けようと口を開きかけた所で、徳之助は息を呑んだ。
「誰だ!」
「ここの主でございます、旅のお方」
 焚き火の明りに、ほんのりと淡く映し出される。
 若い女が一人、そこに立っていた。
「……雪姫」
 とっさに、朝に聞いた老婆の話を思い出した。
 この峠に、雪に閉ざされた季節にだけ現れる、死人の国の姫君の事を。
 女は、少し首を傾げて、花のように微笑んだ。
「里の者はそう呼ぶのだと伺いましたが、私の元の名は小雪でございます」
 美しい娘だ。
 薄闇の中にあっても、彼女の儚く危うげな美しさは、目を瞠るものがあった。
「旅のお方、出すぎた真似とは存じ上げますが、夜はまだ永く、雪も止む気配はございません。
 よろしければ、私の屋敷へとおいでくださいませ。ささやかながらおもてなしさせて戴きます」
「屋敷、と申されたましたか」
 この場所にあるものといえば、あの小さな社の他にはなかったはず。思わず聞き返してはみたものの、答えを聞くまでもなく、それは既に徳之助の目の前に現れていたのだ。
 小雪の後方、つい先程までは社と裸の木々のみが密やかに佇んでいたはずのその場所に、見事な屋敷が現れたのだ。
 これが現世のものであるはずがない。やはり、噂に違わずこの地は死人の世と繋がっていたのだ。
「俺は、知らずに三途の渡しを越えていたのか」
 呆然と呟く徳之助に、小雪はゆっくりと首を振った。
「いえ、確かにこの場所は死人の世への入り口と成り得ますが、紛れもなく現世にございます。この屋敷は、雪の夜にだけ、こちら側に姿を見せるのです」
 屋敷の放つほのかに暖かな光が、彼女の白雪の肌を、人の色へと変えた。桜色の唇に、笑みが漏れる。
「命を取るような真似は致しません。誓って、お天道様がいらっしゃいましたら、お見送り致しますわ」
 死人の国の姫君。心に陰ある者を、奈落へと誘う女。
 しかし、彼女の微笑みは、妖艶な魅惑を持つものではなく、むしろ可憐で、儚い憂いを帯びている。
 女と呼ぶには幼く、澄んだ微笑みであった。
「承知した。かたじけない、世話になろう」
 徳之助は、彼女の言を信じる事に決めた。
 色香に惑わされたわけではない。むしろ、そういった気配が全く感じられない事が、彼女を人から遠ざけているようにすら感じる。
 世俗を捨てた身にはあるまじき事だが、この娘の事をもっと詳しく知りたいという、好奇心に似た感情が湧き上がってきたのだ。
「ではこちらへ」
 小雪に促され、徳之助は暗く固い、木の洞の中から腰を上げた。尻についた藁を払い、微かに揺らめく焚き火の炎に、雪を被せる。
 屋敷の前で、小雪は戸を引いて待っていた。
「どうぞ、上がってくださいませ」
 いざ中に入るとなると、さすがに少しは覚悟が必要であった。何せここより先は、一つ間違えば奈落へと繋がるかもしれないのだ。しかし、ここまで来て今更のように怖気つくのも、体裁が悪い気分になる。
 一度、大きく息を呑み、徳之助は屋敷の中へと足を踏み入れた。
 中は白木で作られており、柱は朱に塗られ、透かし窓には、金の浮き彫りが施されている。青い畳には染みの一つすらなく、片隅に美しい織物の衣が掛けられていた。
「これは、見事なお屋敷ですな」
 全て、凝らして見れば、そう新しくはないものばかりだ。それが、これ程までに整然と美しく在るのだ。手入れが行き届いている証拠である。
 小雪は、先に座敷に上がり、黒塗りの卓に小料理を運んできた。
「急いでご用意したものですから、お口に合うか解りませぬが、どうぞお上がりになってください」
 屋敷の中に入って尚、徳之助は主殿へと上がる事をためらっていたが、流れくる匂いと共に思い出された空腹感に負けて、ついに藁履を脱いだ。
 風呂吹き大根と、三つ葉の吸い物、高野豆腐の煮物など、生臭を使わぬ料理が卓に並んでいる。徳之助は、ありがたく頂戴する事にした。
 味は申し分ない。空腹もあいまって、あっという間に全て平らげてしまった。
「お気に召していただけたようで、光栄でございます」
「いやいや、浅ましい所を見られたようで、恥ずかしい限りだよ」
 何やら、すっかり調子が崩れてしまった。
 だが小雪の嬉しそうな顔に、ついそれでも良いかと流されてしまいそうになった。相手が人ではない者かもしれないという事も、気を抜くと忘れ去ってしまいそうになるのだ。
 時が歩みを止めているようにも思える。
 この屋敷を出ない限り日が昇ることがないのでは、そんな馬鹿げた考えが頭の片隅をよぎった。
 それは、妖しの持つ術なのかもしれない。すでにもう戻り道のない常世へと、迷い込んでいるのかもしれない。
 深入りを危ぶむ心は辛うじて残っていたものの、今この時の心地よさに、奥底に沈んでしまっている。
 不謹慎とは知りながらも、徳之助は、この得体の知れぬ娘にすっかり気を許していた。
 直感という程のものではないが、徳之助には小雪が人を貶める存在だとは、到底思えなかったのだ。あの老婆の話をきき、この目で不可思議に現れたこの屋敷を見たが、噂に聞く「雪姫」と小雪があまりにかけ離れていると感じていた。
 小雪の物腰は柔らかく、選ぶ言葉には若い娘らしい気づかいが溢れている。微笑みを絶やさず、出会ったときに思った憂いを帯びた儚さが、今はおくびにも出さない。他愛もない談笑に、徳之助は居心地の良さを存分に味わっていた。
「……里では、私の事はどうお聞きしましたか」
 唐突にその話を切り出され、徳之助はしばし言葉に詰まった。どう言おうかと、考えを巡らせる。
 小雪は、くすりと小さく、花のこぼれ落ちるような笑みを漏らした。
「遠慮なさらなくても結構でございますよ。大体の事は、存じておりますから」
 そういえば、彼女はこの屋敷へ誘う時に「命を取るような事はしない」と、誓いを立てていたのだ。
 成る程。納得して徳之助は宿を借りた老婆から伝え聞いた事を、正直に小雪に話すことにした。
「冬の間にだけこの峠に住む、死人の国の姫と。秘め事をもつ者を、奈落へ落とすのだそうだよ」
 小雪が、笑いながら首を傾げた。
「本当に、その通りかもしれません。徳之助様を、陥れる魂胆なのかもしれませぬよ」
「それならば、酒で酔わせて眠らせる方が早い。最も、私は修行中の身であるし、簡単には呑まれないがな」
 そう言いながらも、もしかすると勧められれば飲んでしまったような気もして、徳之助は内心で苦い笑みをかみ殺した。
「それに、私には隠し立てするような事はないよ」
「ええ、とても誠実なお方とお見受け致します」
 小雪は、ゆっくりと立ち上がった。
「確かに、私は幾人かの方々の魂を、死人の国へとお連れしました。ですが、奈落の門を叩くような真似は致しません」
「人の噂など当てにはならぬだろう」
 小雪は、徳之助が背中に投げかけた言葉には答える事なく、静かに部屋の隅へと歩いていった。壁際に飾られた美しい衣に手を掛け、己の腕に抱く。
「この屋敷の中で、これだけが『小雪』の物でございます。他のものは、全て『雪姫』の物ですから」
 淡く優しい色合いで白梅の柄を織り込まれたその衣を、彼女は愛しげに抱きしめた。
「徳之助様、これは私が嫁ぐ時に持たされるはずの着物でございました。袖を通す事もなく、私の命はこの峠で潰えたのです」
「相手の事をたずねたら、気を悪くされるかね」
 徳之助の問いかけに、小雪は小さく首を振った。出会った時のような、寂しげな微笑が口元に登る。
「いえ、聞いていただけるのでしたらお話致します」
 微笑みながら、彼女は静かに、囁くような声音で語りだす。


 私は、元はとある武家の娘でございました。
 お家のために、決められた方の元へ嫁ぐはずでした。私も、それを疑いもせずにおりました。
 しかし、私はあの方に逢いました。嫁ぐ先におりました、使用人の男でした。浅はかにも私は彼に心惹かれ、思慕を募らせるようになったのでございます。
 あの方も、私を好いて下さいました。
 もちろん、そのような事が許されるはずはございません。私はこれも己の運命と思い、あの方への思いは断ち、嫁いだ後は互いのお家のために生涯を捧ぐ心づもりでございました。この思いには、誓って偽りはございません。
 ですが、私達の嫁ぎ先の御家に知られてしまい、私は家を追われる身となってしまったのです。あの方もまた、主人の怒りに触れ、罪を問われる事となりました。
 最早、私には戻れる家もございません。私はこの衣とわずかな路銀を持って、故郷を出る事に致しました。
 この姫雪の峠道を、越えれば彼の故郷に着くはずでした。私は、ずっと、ここであの方を待ちました。


 そこで、小雪の言葉が途切れる。かすかな嗚咽が替わりに漏れる。
「……私の時は、あれから止まってしまったのでしょう。知っております。来るはずはないのです。罪を問われたあの方は、私の手の届かぬ遠い所へと旅立っていたのですから」
 抱きしめた衣の上に、はらはらと涙の粒が落ちていった。
「それでも、願わずにはおれなかったのです。この峠で、死人の国の入り口で、あの方が迎えに来て下さる事を、待っているのです。人としての命を失ってからも、ずっと。雪道に疲れ果て命潰えた、一人の女の愚かな願いでございます」
 徳之助は、杯に満たされた水を飲み干して、選ぶべき言葉を考えた。
 若い女が、衣とわずかな路銀を握り締めてさすらい、冬の峠道を一人愛しき者を思いさ迷った。
 それがどれほどに哀しく、苦しき事であったのか。
「私が死人の国へお連れした方々も、どなたも運命に引き裂かれ、秘めし思いに身を焦がしながら、行き着く場を失われた方々でした。遂げられぬ想いに惑うよりは、と考えての事でしたが、それがきっと里の者達には、妖の所業と思えたのでございましょう。私の命が尽きてどれほどの時が流れたのかも知れませんが、世の中は如何様に変わったのでしょうか」
「……恐らく、それ程には変わっておらぬよ」
 どれほど時が流れようとも。
 人の心は、全て時代の流れの通りにうつろうわけではなく、豊かで富に満ちた時の中でも、嘆きが現世から消えることはないだろう。喜びの裏には、数多の哀しみがあり、哀しみの裏側もまた然りである。
 小雪と、その相手となった男の身に起こった事は、稀なる不幸が重なり招かれた哀しき運命であったが、結ばれたていたならば、あるいは袂を分かち各々の道を進んでいたとしても、それが幸いであるかは誰にも知ることはできない。
 誰も、何が幸いであるかを知ることはできないのだ。
「飾られているだけでは、その衣も寂しかろう。観る者が居るうちに、小雪殿、一度袖を通してみてはどうだろうか」
 こぼれる涙を指で掬い取り、小雪が顔を上げる。
「今、でございますか」
「明日になれば、私は山を降りますからな」
 彼女はしばらくの間ひどく戸惑った様子で、己の手に抱かれた衣と、徳之助とを見比べていた。やがて徳之助に浅く頭を垂れ、静かに隣の部屋へと退出していく。
「……静かだな」
 小雪が出ていった途端、先程までは春のような心地であったはずの部屋が急にひんやりと肌寒く感じられ、徳之助にこの屋敷の外が雪山であることを思い出させた。
 風の音も人の声も聞こえず、寒々しい部屋に取り残されたまま、一体どれほど待ったのか。このまま夜が明けてしまうのだろうかと、いささか不安になり始めた頃に、ようやく襖戸がわずかに開かれた。
 隙間から、わずかに顔を出した小雪が、上目遣いに徳之助を見る。
「あの、お笑いにならないで下さいね」
「そんな礼を欠いた行いはしない。誓おう」
 徳之助が手で招くと、小雪は遠慮がちにゆっくりと襖を開けて、こちらへと姿を現した。
「おぉ、これは……」
 思わず、口から感嘆の声が漏れる。
 淡い白梅の衣と、金糸をあしらった赤の帯。艶やかな黒髪が、白地の衣によく映えている。
「笑うなんてとんでもない。貴方は今、素晴らしく美しい。よくお似合いですよ」
 髪を結う紐もなく、重ねもなく、飾り立てるのは帯の金の色くらいのもの。しかし徳之助は、心に何の偽りもなく彼女を美しいと思った。
 彼女自身が、美しいのだ。
「ありがとうございます。本当に、生きている時に着たかった。私の、花嫁衣裳……」
 目に涙を浮かべながら、小雪は深く頭を下げた。
「私も貴方が生きている時に、ぜひ拝見したかったものです。本当に美しいですよ」
 言葉に嘘はない。今までに、婚礼の儀に立ち会ったことは幾度かあった。着飾った美しい花嫁を見た。それでも何の疑いもなく、他のどの女よりも、彼女が美しいと思ったのだ。
 それは、哀しみゆえに磨かれた美しさだ。
 哀しみ、嘆き、しかし恨まず。同じ哀しみを抱くものに、手を差し伸べ、時に安らかな闇へと導き。
 そうして、彼女はずっとここで――。
「徳之助様……もうじきあけぼのでございますよ」
 小雪が、縁側に続く襖を開ける。
 いつの間にか空は白み、雪の山肌から淡く明けの色で染め上げられている。
 淡い金の光の中で、小雪は微笑んでいた。
「名残惜しいな」
「私もでございます。ですが、お天道様が空にすっかり昇る頃には、現世への帰り道が消えてしまいます。……お見送り致します。ご用意なさってくださいませ」
 もう少し、ここに居たい。
 揺らいだ徳之助の心を見透かしたのか、小雪の言葉には冷たささえ感じられる、強い拒絶の色が含まれていた。しかし、それが彼女の思いやりなのだという事は解っている。
 現世の者と常世の者。その狭間にある、深い谷の事を思い出させただけなのだ。
 夜の寒さが作り上げた、谷を繋いだ雪の橋。
 朝になれば、光が橋を溶かすだろう。そしてまた深き谷は、現世を常世から遠ざける。
「かたじけない、世話になった」
 蓉と肩箱を背負い、藁履の粗紐を固く縛った。
 屋敷の外は思っていたよりも空気が柔らかく、遠く鳥のさえずる声も聞こえる。
 振り返ると、門前で小雪が立っている。いつの間にか、白梅の衣ではなく、会った時と同じ着物に戻っている。
「ありがとうございます、徳之助様」
「礼を言われるような覚えはないが」
 言葉を返すと、小雪はかぶりを振った。
「私にはございます。どうか、お気をつけて」
「あぁ。気が向けば、またこの峠に来る」
 手を上げて、降り積もったばかりの雪を踏みしめる。
 鳥の声、風の音。淡雪の染めた、白き地平。
 もう一度、徳之助は振り返った。しかしそこには、小さな社が一つあるだけであった。
「もう届かぬかもしれぬが、いつか私が山を鎮められる験を得る事が出来たなら、きっとここに戻ろう。そなたのために、常世の道を開いてやろう」
 現世と常世の狭間で、渡す橋を作っては御霊を見送る。どれほどの魂を送っても、己は常世に逝くことができず、狭間で彷徨う雪の姫君。
 このまま、永遠に。
 それでは、余りに哀しすぎるのではなかろうか。
 きっと、連れて逝こう。輪廻に帰ろう。
 彼女の業はもう充分に果たされているはずだ。
 この命に与える、最後の役目を果たしに来るのだ。
 一人の老いた男が、雪の山道を踏みしめていた。
 金剛杖を、地面に突き立てながら、一歩一歩、ゆっくりと山道を登ってゆく。
 まだ夜も明けきらぬうちから山に入ったが、既に空は暮れの色に染まっている。老いた体には、峠の険しい雪道は思いのほかに厳しいものであった。
 ようやく頂にたどりついた頃には、すでに空は闇の色へと姿を変えていた。


「小雪」


 ――お久しゅうございます、徳之助様。


「さぁ、いこうか」


 ――よろしいのですか。


「あぁ、私はもう、充分に現世を生きた」


 ――左様でございますか。


「私の手を握って、迷わぬようにな」


 もう、この峠に雪姫はいない。
 焦がれる想いに哀しみを憶え、儚き運命に惑った、憐れで哀しいその娘は、もういない。
 想い秘めて彷徨った時は終わった。


 ここは、姫雪峠。
 叶わぬ想いを秘め逝く峠。


 一人の老いた山伏の男が消えたその年から、その峠で雪姫を見た者はいない。

《幕》

 

2004.1発行同人誌より、2007.2加筆修正再録。


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