迷い道の標

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 悲しいことが何だったのか、ひとつずつ数え出したら嬉しいことをみんな忘れてしまった。

 吐き出せなかった言葉にうもれて、歩く道を見失った。

 僕は、迷子になった。


 一度だけ、天使に会ったことがある。
 森の入り口で僕に微笑んで。
 ――こっち側に来ちゃだめだよ。ここは忘れられたものの来る所だから。
 それだけ囁いて去っていった。
 忘れられた物のための場所が彼女の行くべき所ならば、つまり彼女は誰かに忘れ去られたのだ。
 薄暗い森の中に霞んでいく後ろ姿を、僕はこの眼に映らなくなる瞬間まで見つめていた。
 彼女の存在が嘘でないことを、自分に言い聞かせていたのだ。

 僕は旅に出ることにした。
 相棒は飼い猫のエコーだけ。荷物は固いパンとオイルランプ、マッチ、小型のナイフとそれらを入れるリュックだけだ。
 灯りを消して薄暗くなった部屋の扉を、もう戻らないつもりで鍵を掛けた。
 埃っぽく澱んだ空は朝焼けにぼんやりと色づいている。
 この街を見るのは最後だ。忘れないようにしよう、と思う。
 素晴らしい所ではなかったけど、忘れない。
 さよなら、とでも言いたげに、エコーがそのしましまの身体を震わせて「にゃぁ」と鳴いた。
 街の裏側、少し歩いたところにその森はある。
 この先は人間の世界じゃないのだと、お祖父ちゃんが生きていた頃に何度も聞かされた。
 一度だけこっそりと来たことがある。
 そこで僕は彼女に出会った。
 地面から闇が沸き立つかのような森の中で、白いワンピースをまとった彼女は光だった。
 少なくとも、その時の僕には闇の中に差し込んだ祝福かのように見えたのだ。


 森に少女はいなかった。
 僕はランプを掲げて、木の根っこが張り出してでこぼこした道を歩く。肩に乗っているエコーが落ちつきなくきょろきょろと辺りを見回していた。
 実の所、僕も不安なのだ。だからこそ相棒にエコーを連れてきた。まだ子猫だけれど、エコーは僕の誇るべき親友だ。ネズミ捕りだって上手い。
 みゃぁ、と鳴いて彼は肩から飛び降りた。先ほどまでの様子とはうって変わって、今度は長い尾をぴんと立ててすました様子で僕の前を行く。案内をしているつもりなのかもしれない。
 どうせ行く場所をきちんと決めていた訳ではないのだし、僕は道の選択をこの小さな親友にゆだねる事にした。
 得意げに先を進んでいたエコーがぴたりと立ち止まった。
 尻尾をゆらゆらと振り回し、僕の方を振り返る。
「何かあるの?」
 しゃがみ込んで地面に手をかけた瞬間、そこは僕の腕を呑み込んでいった。声を上げた所で既に遅く、僕の身体は重力に従ってどんどん沈み込んでいった。
 木の枝と枯れ葉ががさがさぱきぱきと、派手な大合唱を耳元で奏でる。どれくらい落ちていったのかよく解らないけれど、とにかく僕は狭い穴の底にたどり着いたらしかった。底に枯れ葉が溜まっていたおかげで、幸い目立った怪我もない。
 手探りでランプを探し、遅れて頭の上に落ちてきたエコーを上着のフードに入れる。
 リュックの中にマッチがあって良かった。自分の用意の良さを褒め称えたい、と思った。
「エコーが人の言葉を話せたら良かったのに」
 自分の不注意さを棚に上げて呟くと、エコーの低いうなり声が返ってきた。どうやら考えを見透かされてしまったみたいだ。
「ごめん、ごめんってエコー。行こうか」
 マッチに火を灯すと、穴の内部が露わとなる。ごつごつとした、岩肌のような壁面だった。僕の向いていたちょうど反対側に子供一人ならば何とか通れそうな横穴が空いている。
 はるか向こうに白い点が見えた。出口なのかもしれない。
 僕はランプを片手に、その横穴に潜り込んだ。上までよじ登るよりは横に這っていく方が楽であったし、何より穴の先に何があるのか、好奇心が勝ったのだ。


 横穴は結構長かった。
 そろそろ身を縮めて這っていくのが辛くなった頃、ようやく出口に突き当たった。長いツタがカーテンのように覆っているのを、ナイフで切り開く。外に這い上がると、今まで地中の洞穴の中にいたはずなのに、出てきた場所が木のうろであった事に気づいて、僕はしばらく首を捻ることとなった。
 どうあっても謎は解けないと悟って、僕は考えることを放棄した。あの穴がどういう形で繋がっているかだなんて、とても些細な問題ではないか。
 フードの中から身を乗り出して肩に乗ったエコーが、ひげをぴくぴくと震わせている。彼が気にしている方角に注意深く耳をすませると、水音が聞こえてきた。草むらをかき分けて近づく。どうやら滝壺があるらしかった。
 ぼんやり薄もやがかかった滝壺は白い石で綺麗に囲んであって、どこかのお城の一角みたいな雰囲気だ。
 その石に囲まれた縁で、三つ編みにした太陽みたいな色の髪を垂らし、女の子が水底を覗き込んでいた。
 悩んだ末に、僕は彼女に声をかけることにした。
 水面とにらめっこをしている彼女はひどく真剣な眼差しで、何やら大変困っている様子だったのだ。
「何かを探しているの」
 僕が声を掛けても、その子はしばらく水面から視線を揺るがそうとはしなかった。エコーが肩から飛び降りて、石の囲いまで跳ねていった。女の子のすぐそばで、彼はその長い尻尾を揺らした。
「お嬢ちゃん、聞こえているんだろ」
 その言葉を発したのは僕ではない。
「エコー?」
 そう、それは間違いなく僕の相棒が発した言葉であった。
 舌っ足らずな幼い子供のようで、それなのに口調はどこか大人ぶっている。
「そうだよ、コリン。俺だとも。なんだい、そんな狐につままれたような顔をしてさ。何も不思議な事じゃないんだよ。今まで俺達が暮らしてきた世界とは違って、ここには一つの言葉しかないのだからね」
「どういう意味だい」
「ここではヒト語もネコ語もないってことさ。ねぇ、お嬢さん」
 再び話を振られて、ようやく女の子はこちらに振り向いた。猫が言葉を発していることに対して、特別驚いた様子はない。
「貴方はだれ?」
「僕はコリン。そっちの猫はエコー。森の近くにある鉄錆の街から来たんだ」
 彼女はゆっくりと立ち上がり、若草色のワンピースの裾をつまむと、上品にお辞儀をしてみせた。
「随分遠い所からきたのね! 私はマーガレット。今、大切なものを探しているの」
「一体、何をなくしたっていうんだい」
 僕が尋ねると、彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「覚えていないわ」
「わからないのに探しているの?」
「ええそうよ。とても大切なものだから、きっと見つけたらすぐにでも思い出すわ」
 僕にはとても奇妙な事のように思えたけれど、彼女は真剣だった。
 石の囲いに腰掛けてエコーを抱え上げ、膝の上でその毛並みをゆっくりと撫でながら、彼女は微笑んだ。
「貴方は不思議そうに私を見るけど、貴方も大切なものを無くしているかもしれなくてよ」
「大切なのに、忘れちゃったの?」
 質問ばかりを重ねる僕に、彼女は少しだけ怒った様子で人差し指を自分の顔の前に突き立ててみせた。
「いいこと? 貴方、自分が忘れた事のなかにひとつも大切なものがなかったとでもいうの? その時には何でもないような事でも、実はとてもとても大切だったりするものなのよ?」
 言われてみれば、そんな事がいくつもある気がしてくる。
 哀しいことはいつまでも心に残るのに、楽しいことはすぐに忘れてしまうのと同じ事かも知れない。
「見つかるといいね」
「ええ。ありがとう、コリン」
 嬉しそうに笑うと、結構可愛らしい。
 僕は少し照れながら、手に持っていたランプに視線を移す。この先は開けていて、月明かりがあれば夜でも歩いて行けそうだった。
「マーガレット、これをあげるよ。夜になったら、この水の中は暗くて何も見えなくなっちゃうだろう?」
「いいの?」
「いいよ。これは僕より君の方が必要だと思うから」
「ありがとう」
 ランプを受け取った彼女の手は、よく見るとあかぎれだらけだった。こんなになるまで、彼女はずっと探しているのだ。それなのに見つからないのだ。
 そう思うと、何だかとても哀しい気持ちになった。
「エコー、おいで。そろそろ行こう」
「じゃぁな、マーガレット」
 エコーは彼女の膝の上から飛び跳ねるようにして僕の足下に戻ってくる。
「バイバイ、貴方の事は絶対に忘れないわ、コリン」
 彼女は手を振った。僕も手を振る。エコーは手の代わりに尻尾を。
 水辺を歩きながら僕は思う。
 多分だけれど、きっと彼女は僕の事をすぐに忘れてしまうんじゃないだろうか。だって僕は彼女の大切なものじゃないと思うし、それにあんなに夢中になって探していたら他のことを思い出すヒマなんてないと思う。
 彼女はきっと、これからもずっと冷たい水の中を探すんだ。何度も何度も、手があかぎれで腫れ上がるまで。
 あのランプの灯りで、彼女の探し物が早く見つかればいい。
 大切なものをみんなあの滝壺に落としてしまう前に、早く見つかればいい、と思った。


 滝壺からのびる水路は、森の脇を沿うようにして流れていた。
 僕とエコーは、その水路沿いの石畳を川下に向かって下ってゆく。
 やがて一本の橋に突き当たった。橋の向こう側には、針金をくるくる回したような、銀の渦巻き模様が入った奇妙なやぐらが建っている。
「なんだい、ありゃ。見ているこっちの目が回りそうじゃないか」
 エコーはぷるぷると全身を震わせる。確かに、彼の言うとおりまるでこちらの目がぐるぐる回ってしまいそうな模様だ。
「これ、人の家にむかって随分と失礼な事を言う猫じゃのう」
 中からおじいさんが一人、身を乗り出した。真っ白な長いひげと髪の毛を前と後ろに流していて、手足が脇からおまけのように見える。高い鼻に学者風の丸眼鏡をかけて、彼は僕らを睨み付けていた。
「全く、この忙しいのに失礼な」
 ぶつぶつと文句をつけながら、彼はやぐらの中に戻っていった。
 やぐらの中に目をこらしてみると、その内部には大小様々の時計が所狭しと並べられている。
 しかもそれらすべてが、少しの違いもなく、同じ拍子でチックタックと秒針を回していた。
「何か、落ち着かない所だね」
 僕の呟きに、エコーが同意とばかりに尻尾をピンと伸ばした。
「気味が悪いよ。何だってこんな時計ばっかり敷き詰めているのさ」
 エコーは余程この秒針の音が気に入らないらしい。肉球で耳をぺちぺちと押さえて、長いひげをひくひくさせている。
「こんなに時計を集めて、何をしているんですか」
「遅れないよう見張っているのじゃ。む、こいつが遅れよったのう」
 彼はキィキィ音を立てながら、テーブルの上に置かれた目覚まし時計のネジを回す。次は壁の鳩時計、その次は大きな柱時計、と一秒でも遅れたと思えばすぐにネジを巻き直していた。
 僕とエコーは、そんな様子を見物して、大変奇妙な気分になって違いに顔を見合わせた。
「ねぇ、それって楽しいの?」
「楽しくはない。仕事じゃからな」
「変な仕事ですね」
「失礼な、重要な役目なのだぞ」
 そう言い返しながら、彼は棚の上のからくり時計のネジを回し始めた。
「時間が狂うのは大変な事なのじゃ。なのにこいつらと来たら、わしが少し目を離せば、すぐに遅れたり早まったりしよる」
 今度は手首に何本も嵌められた腕時計のネジを回す。
「時間は待ってはくれないからのう。わしは常に正しい時間の流れを指し示す必要があるのじゃよ」
 やっぱり僕には彼の言う事は意味が解らない変な仕事だと思った。
 チックタックチックタックチックタック……。
 耳鳴りがするほど、時計達は一斉に同じ時間を刻んでいる。
「なぁ、コリン。早く行こう。何だかここ、気持ち悪いよ」
 エコーはすっかり参った様子で、尻尾を僕の足にまとわりつけた。
 僕も、ここはあまり好きではない。
「お仕事、ご苦労様です。それじゃ」
「達者でな。お主も時間を見失うでないぞ」
 手を振りながら、彼は振り子時計のネジを回していた。
 やぐらから遠ざかり、耳の奥に残った時計の音が風の音にかき消される頃、ようやく気を落ち着けたらしいエコーはしましまのからだをぐいっとのばし、ぷるぷると身体を震わせてから、後ろ足で頭をかきはじめた。
「変なじいさんだったなぁ!」
「そうだね、変だった。僕だったら、あんな仕事は気が滅入っちゃうよ」
 ずっとずっと、時計の針ばかり追いかける生活なんて、考えるだけで憂鬱な気分になる。
 チックタックチックタック、針の音が耳の奥に蘇る。時間の中で生きる老人。あの小さな櫓でずっと追いかけて追いかけられるのだ。
 どれだけ時間が流れても、変わることなくネジを回し続ける。それでは何だか、永遠に時間が動かないのとそう変わりない気もする。
 時間を見失うな、と彼は言ったけれど、僕にはあのおじいさんの方こそ、色んなものを見失っているように見えた。
 もしかすると、だけれども。


 僕らは更に川下へと下り始めた。
 やがて森は終わり、草花の溢れる平原に出る。その向こうに、古びた一軒の小さな家が見え始めた。煙突から煙を吐き出しているところを見ると、人が住んでいるらしい。
「今度は普通の家だね」
 話しかけてみたが、エコーは揺れる草の補にじゃつくのに夢中になっているようだった。この道は、猫には随分と誘惑が多いらしい。
「エコー」
彼は猫じゃらしと格闘している。
「エコーってば」
 今度は飛ぶ蝶を捕まえようとしている。
 僕はしびれを切らして、あちらこちらへ跳ね回る彼の首根っこを掴み上げ、上着のフードに押し込んだ。
「何だよ、コリン。邪魔をするなよ」
「僕の言うことちっとも聞いてなかったろう? ほら、家がある」
 僕が前方の家を指さすと、エコーは肩から腕を伝って大きな目をくりくりさせた。遊ぶことに夢中すぎて、まるで気づいていなかったのだろう。
「今度は普通の家じゃないか!」
「だからさっきからそう言っているじゃないか」
 エコーは僕の腕からひょいと飛び降りて、今度は誘惑に負けずに歩き始める。それでも草の実が風に揺れる度に、尻尾がピンと立つのは抑えられないらしかった。
 僕らは家のすぐ間近まで歩みを進めた。扉が開いている。エコーは小走りに駆け寄ると、中に首を突っ込んだ。途端、転がるようにして戻ってきたかと思うと全身の毛を逆立て威嚇の唸りを上げる。
 少し遅れて、僕もその家の中を覗き込んで、そしてやっぱり小さな悲鳴を上げた。
 実のところ、赤毛を二つに結い上げた小さな女の子が一人、ぬいぐるみを抱えて立っていただけなのだけど、そのぬいぐるみがとんでもない様相なのだ。
 元は大きなピンクのウサギであったのであろうそれは、耳が千切れかけ、目は片方無く、右腕は数本の糸で辛うじて繋がっていて、腹から内臓みたいに濁った色の綿がはみ出している。桃色をしていたはずの肌は、汚れてうす茶色に染まっていた。
 これが突然目の前に現れれば、僕が猫だとしてもエコーと同じ反応をしたと思う。
「お客さん? こんにちは。私はメグ。このぬいぐるみはミミちゃんだよ」
 にこにこ、と女の子は笑って自己紹介をする。
 エコーは僕の足の裏に隠れて、恨めしげな様子でぬいぐるみを睨み付けていた。
「僕はコリン。隠れちゃっているけど、こっちはエコー。ここには一人でいるの?」
 こんな小さな子が一人でいることに、僕は疑問を感じていた。お留守番かとも思ったけれど、家の中はベッド一つとおもちゃばかりで、大人の気配はまるでないのだ。
 彼女はきょとんとして首をかしげる。
「もうずっと、ここにはメグとミミちゃんしかいないよ?」
「パパとママは?」
「いないよ? もうどっかいっちゃった」
 今の今までずっと後ろに隠れていたエコーが、そこでようやく口を挟んできた。
「それでその薄気味悪いぬいぐるみと一緒にいるのかい」
 まだ怖じ気づいているのか、僕の足に捕まって爪を立てながら、彼は尾でぬいぐるみを指し示す。
「ミミちゃんは気味悪くなんかないもん。パパとママがくれた大切なお友達だもん!」
 彼女はぬいぐるみに頬を押しつけて、頬を膨らませる。ただでさえよれよれになっているぬいぐるみは、抱き締め付けられてだらりとちぎれかけたその腕を垂らしている。
 その様子が何だか痛々しくて、僕は何だかこのうさぎが哀れにすら思えてきた。
「ねぇ、メグ。ミミちゃんを直してあげようよ。それと、洗ってあげよう。こんなに壊れて薄汚れたままじゃ、可哀想じゃないか」
 彼女は目を丸くした。「友達」がこんな姿になっていることに、何も感じていないのだろうか。それとも、言っていることの意味そのものが解らないのだろうか。
 どうしようか考えこんでいると、彼女は突然スイッチが入ったみたいにふるふると首を横に振り出した。
「いやよ、絶対にいや。ミミちゃんから離れなくちゃいけないじゃない」
「でもそのままじゃミミちゃん、どんどんボロボロになっちゃうよ」
「だって、直している内にどこかにいっちゃったらどうするの?  洗っている内に川にながされちゃったらどうするの? メグはひとりぼっちになっちゃうよ?」
 膨れっ面で怒る彼女に、僕はほとほと困り果ててしまった。エコーはまだ僕にしがみついている。
「メグはミミちゃんが大切なの。一秒だって離れたくないの。お兄ちゃん達、メグからミミちゃんを取り上げに来たのね!」
 完全に誤解されてしまったみたいだ。
 彼女は僕らをぐいぐいと押して、家の外へと押しやった。
「帰って! メグはミミちゃんがいればいいんだから!」
 ばたん、と派手な音を立てて、扉を閉じられてしまった。僕は仕方なく、驚きのあまり固まってしまっているエコーを抱え上げて、上着のフードの中に入れる。後ろ髪引かれる思いで歩き始めた。
 しばらくして、エコーはもぞもぞと肩に上ってきて、湿った鼻で僕の耳をくすぐった。
「コリン、落ち込んでいるね」
「うん、ちょっとだけね」
 大切だから、離したくない。大切だから、とても愛しいから、ボロボロになってでも傍に置きたい。
 大事な何かが、どこへも行ってしまわないように。
「マーガレットの探し物、見つかったかなぁ」
 僕はあの若草色のワンピースを着た少女を思い出していた。大切なものを無くし、滝壺を探し続けている彼女の事。
 だけど、見つかったその後はどうするのだろう?


 いつしか水辺を離れ、僕らは草原のただなかをゆったりとした調子で歩いていた。
 エコーはもう跳ね回って遊んだりしなかった。僕は僕でぼんやりと考え事をしている。
僕らはお互いに黙りこくったまま、草の穂が揺れる草原を行く。
 僕の肩で前足の毛繕いにいそしんでいたエコーが、不意にもぞもぞと動き始めた。
「どうしたの? エコー」
「家が見える。さっきのよりも立派な家」
 彼がひげをひくひくとさせて指し示した先には、確かに先ほどより一回り大きい家が一軒建っていた。
「見に行ってみよう」
 先ほどの事があったので、正直僕はあまり気乗りしなかった。しかし、そんな僕の意志などお構いなしに、エコーはひょいと飛び降りて、さっさと家の方に向かって歩き出してしまう。
 僕はそれを追いかける形で、慌てて歩く向きを変えた。
 家の扉は閉じられていた。煙突から煙が出ている様子もないし、留守なのかもしれない。
 エコーは諦めが悪く、木の扉にカリカリと爪を立てている。
「諦めよう、留守なんだよ」
「でも、中から人の匂いがするんだよなぁ」
 カリカリ、と尚も彼は扉で爪を研いでいる。その扉が突然開き、彼は驚いて後ろにひっくり返り僕の足下に転がった。
「エコー、人ん家の扉で爪を研ぐのは失礼だ」
「木の板や柱があったら爪を研いでしまうのは猫の習性なんだよぅ」
 どうやら扉に鼻をぶつけたらしく前足で顔をぺちぺちと押さえながら、エコーはふにゃふにゃした声で呟いた。
「やぁ、お客さんだね」
 そこに住んでいたのは僕よりずっと年上の、若い男の人だった。穏やかで優しそうなお兄さんだ。
「ごめんなさい。僕の友達が扉に傷をつけちゃって」
「いやいや、こちらこそお友達に扉をぶつけてしまってすまなかったよ。こっちに来なさい。紅茶とお菓子をごちそうしてあげよう」
 中からは、焼き菓子の匂いがほのかに漂ってきて、そういえば家を出てからここまで何一つ飲み食いしていなかった事に気づかされた。
 一応、パンは持ってきている。途端にぐぅぐぅ鳴り始めたお腹との折り合いを考える僕の心をよそに、エコーはちゃっかり先に上がり込んでいた。
「早くしないとコリンの分も食べてしまうからな」
「待ってよ、エコー。僕も食べるってば」
「ははは。どうぞ、こちらに座って」
 中には四人がけのテーブルと椅子が一組。僕は入り口に近い席に腰掛け、エコーを膝の上に乗せる。
 お兄さんは紅茶のポットと焼き菓子をバスケットに入れて持ってきた。次に、バラの花の模様が入った洒落たティーカップに蜂蜜を垂らす。そこに熱い紅茶を注ぎ入れて、銀のスプーンでかき混ぜると、ほのかに甘い香りがふわりと舞い上がった。
 エコーには温めたミルク。ちゃんと少し冷ましてあった。
「まるで僕らが来るのを解っていたみたいだ」
「窓の外から、こちらに近づいてくるのが見えたのでね」
「お兄さんは何をやっている人?」
「学者だよ。名をレヴィーという」
 言われてみれば、確かに彼は知的に見える。部屋の隅にある本棚は分厚い本がびっしりと埋まっているし、机の上にもそれは積み上げられていた。
「何の研究をしているんだい?」
 ミルクの残る鼻を舌でぺろぺろとやりながら、エコーは興味津々の様子で耳をピンと立てて見せた。
 僕もジャムをたっぷり付けた菓子をほおばりながら、質問の行方を気にしていた。
 彼は腕を組んでしばらく考え込み、やがて口元に笑みを浮かべる。
「私の研究かい? 心についてさ」
「心? どんな事を研究するの?」
「感情についてだよ。怒り、悲しみ、喜び、愛、そういった感情はいかなる起因で発生するのか。その仕組みを論理的に解明して、分析するべきなのだよ」
 僕には彼の言っていることは、いちいち言葉が難しくてよくわからなかった。エコーにもちんぷんかんぷんだったみたいで、彼は喉を鳴らしながら力なく尻尾を垂れた。
「何だそりゃ。つまり、ヒトの心がわかるようになりたいのかい」
「そう考えてくれて構わないよ、エコー君」
 それなら僕にもわかる。
「何で人の心を知りたいの?」
「心は目に見えないからさ。見えないからすぐに無くしてしまう。だからといって、ずっと抱きしめておくわけにもいかないから、習性をよく理解しなくちゃいけない」
 僕は、マーガレットとメグとを、交互に思い出していた。彼女達を思い出すと、確かに心をよく知る事は、とても大切な事に思えてくる。
「お兄さんは心がわかるの?」
「まだわからないね、だから研究しているのさ」
 学者とは常に疑問を追い求める生き物なのだと、彼は得意げな様子で続ける。
「最近では自分の心すら見失う人が多いからね。大切なものを無くしやすい世界なのさ」
「それじゃ、お兄さんの大切なものって何ですか」
 好奇心というよりも、話を合わせるために僕がそう尋ねると、彼は何故だかとても意外そうな顔をした。
 少しの間考えて、彼は椅子から立ち上がった。
「おいで、私の大切なものを見せてあげよう」
 そう言って、彼は隣の部屋への扉に手をかける。僕とエコーは顔を見合わせ、少しだけ迷ったけれど、結局彼に従う事にした。少しだけ好奇心が湧き出したのだ。
 僕はエコーを腕に抱え、彼に続いて扉をくぐった。
 中はきちんと整頓されていて、埃の匂いもなくすっきりしている。
「ほら、これが私の大切な物だよ」
 僕らは同時に息を呑んだ。
 エコーが僕の肩を駆け上がって、転がるように上着のフードに潜り込む。
「綺麗だろう?」
 彼が指し示す先には、若くて綺麗な女の人が横たわっていた。そして、それをすっぽりとガラスの箱が覆っている。肌の色は幽霊みたいに青白くて、唇の色は紫で、まるで死んでいるみたいだった。
「ここ、この人、死んで、る?」
 フードの中でガクガクと震えながら、エコーは消え入りそうな声でどちらにともなく尋ねた。
「眠っているだけさ」
 ガラスケースを愛しげに撫でる彼は、何でエコーがこれほどまでに怯えているのか、ちっともわからないらしかった。僕だって、たとえ眠っているだけだとしてもまるで宝石でも飾るみたいに人間をガラスケースに入れている彼を、内心では少し怖いと思っている。ケースの周りには花がたくさん飾られていて、まるで棺みたいだ。
「眠っている人が大切なの?」
「彼女が大切なんだよ。眠ってもらったのは、そうすれば彼女が傷ついたり、悲しい思いをしたりすることはないからだよ」
 僕は彼の言っていることがよくわからなかった。
 少なくとも僕は、何だか違うと思う。
「眠っていたら、楽しい事は起こらないよ」
「代わりに楽しい夢を見られるよ。何もしなくても幸せになれるんだ」
 どんどんわからないことが増えていく。眠って、楽しい事だけ考えていれば、確かにその人は不幸にはなっていないのかもしれないけれど、でもやっぱり違う気がする。幸せって言うのは、もっと何か違うものだと思うのだ。
「ねぇ、お兄さんはこれでいいの? 大切な人と触れることも話すこともできなくても、幸せだっていえるの? 本当にこれが幸せなの?」
 大切な物がそこにあるのに、じっと見ているだけで何もできない。僕だったらそんなのは辛くて悲しくて、寂しくてたまらないと思う。
 彼は驚いたように、少しだけ目を丸くした。
「幸せ? ああ、幸せだとも。彼女が幸せならそれでいいんだ。彼女を傷つけ悲しませるものは、たとえ私自身でも近づけさせない。大切にしなくちゃならないからね」
「じゃぁ、ずっとこのまま、ただ眠っているのを見ているだけ?」
「もちろんだ」
 もうダメだ、と思った。
 僕にはどうしても、それが幸せだと思えない。
「僕、もう行きます。お菓子、ごちそうさまでした」
 頭を下げると、フードからエコーが転がり落ちた。彼をもう一度フードの中に押し込んで、僕は部屋を後にした。
 家を出てしばらく歩いて、ふと振り返る。お兄さんは玄関で手を振っていた。僕は一度だけ手をおおきく振って、再び目の前に広がる草の海を見渡した。
 いつのまにか日は傾いて、草の穂が黄金色に輝いている。
 エコーはようやくフードから這い出して、長いひげで僕の首筋をくすぐる。甘えるように喉を鳴らして頬に擦り寄る彼を、僕は腕に抱えなおした。柔らかくて、温かい。その感触に、少しだけ心が落ち着く。
 大切だから、近づかない、近づけさせない。
 楽しげな笑顔も、触れ合う温かさも、何もかもいらないと彼は言った。
「あんなの、幸せじゃないよ。寂しいし、悲しいよ」
 人の心を研究しているなら、どうしてあれを幸せと呼べるのだろう。悲しみや苦しみもなかったとしても、あそこには何の喜びもない。僕だってそれくらい、わかるのに。
 メグのぬいぐるみを思い出す。大切すぎて、近づきすぎてボロボロに傷つく。そして、レヴィーの大切な彼女。幸せな夢を見ながら寝ているはずなのに、死体のように青ざめていた。
 どちらも、悲しくてたまらない。
「なぁ、コリン。泣くなよ。泣くな。俺がいるだろ?」
 気づいたら、涙が頬を伝っていた。
 何だか、悲しくて寂しくてたまらなくって、僕は泣きながら黄金の草の間を泳ぐようにして歩いた。
 近づきすぎても、離れすぎても、大切な物には届かない。


 忘れられたものが集う場所だと、僕は聞いていた。
 大切だったはずなのに、いつの間にかこぼれていく思い出とか、感情。
 そういうものが、行き着く場所なのだと思っていた。
「エコー、どうしよう」
 目的地はなかった。行く宛ても、帰る家もない。
 それなのに、どうしてだろう。
 草の海の中で、僕は途方にくれていた。
「どこに、行けばいいんだろう」
 僕は迷ってしまった。



「ねぇ、私を呼んだね?」


 ――やっと、私を呼んだんだね。


 僕ははっとして顔を上げた。
 ひとつまばたきをすると目の前に広がるのは草の穂ではなくて、元いた薄暗い森の中だった。
 少女はレース飾りのついた真白のワンピースに身を包み、白に近い色をした銀髪を指で弄びながら、口元に薄く笑みを浮かべている。
 僕は彼女を知っていた。昔、森で出あった天使だ。
「何で、どうして……」
「貴方が私を呼んだのよ」
 彼女は事も無げにそう言い放った。
「私の名前はリーリー。この森の案内人。道に迷った子供達の標なの」
 彼女の空みたいに明るい青の瞳が、僕の顔をじっと見つめている。心の奥底まで全て見透かされてしまったような気分になって、僕は恥ずかしさに顔を逸らした。
 腕の中でエコーがなぁなぁと普通の猫のように鳴いていた。事実、彼は普通の猫なのだ。猫も人も同じ言葉を話すさっきまでが、おかしな世界だったのだ。
「ここは一体、どうなっているの? 僕、とても不思議で、だけど哀しい世界にいたんだ」
 僕らがあそこで出会った人々は、みんなどこかおかしかった。
「あそこは欠落の国よ。みんな何かが足りないの。奥に行けば行くほど、色んなものが足りなくなるの」
 そういえば、そうかもしれない。進むに連れて、まるでインクを紙の上に垂らした時みたいに、果てしなく黒が広がっていく。そんな感じだ。
「喪失のマーガレット、時間狂のバートラム、執着のメグ、孤独のレヴィー。みんなみんな、欠けちゃっているの。おかしくなっちゃったの」
 リーリーは僕の手を引いて歩き始めた。
 僕は彼女の後を追いながら、そういえばあのおじいさんだけ名前を聞いていなかったことに気づいた。
 歩いても、歩いても、木々の群れは終わることなく続き、腕に抱えたエコーと繋いだ手の温かさだけが、やけに現実的に思える。
 リーリーは何も言わない。僕も、あんなに彼女に会いたいと思っていたはずなのに、何を言っていいのか解らなかった。
 あの場所は欠落の国だと彼女は言う。
 大切だと言いながら、それを無くしてしまった少女。
 時間を追いながら、追われている老人。
 大切なものを抱きしめすぎて、傷つける子供。
 大切なものを傷つけたくなくて、全てを閉じこめてしまった青年。
 あの国で出会った人々の事を思い出す。哀しくて寂しい、矛盾だらけの住人達。
「ねぇ、リーリー、どこに行くの?」
 誘われるままに彼女について行くが、段々不安が僕の心を満たし始めた。
 不意に彼女は立ち止まる。
「貴方はどうしてここに来たの?」
 僕は彼女の問いに、すぐには答えられなかった。
 この森には忘れ去られた記憶があって、そしてリーリーがいた。
 僕は鉄錆の街で、何か足りないような気分がずっとしていて、それがこの森にあるのではないかと期待していた。彼女が知っているのではないかと、期待していた。
 でも、それを聞いてどうするのだろう。僕は何を望んでいるのだろう?
 ああ、やっぱり僕はどうしようもなく、迷子になっている。
 リーリーはバラ色をした頬をほころばせ、握った手のひらに力を込める。
「私は迷い道の標なの。大丈夫、ちゃんと貴方を歩かせてあげる。あそこの住人は増えないわ。だって私がいるのだもの」
 彼女が何でもないことのように笑うので、僕も少し気が楽になった。
 暗い、闇が沸き立つような森の中。白い彼女は道しるべの光だった。
 迷子になっても大丈夫。道標はここにある。きちんと歩いて戻ればいい。
「僕は、君に会うために来たんだ。道しるべを見つけるために」
 そうだ。僕は暗闇を照らす光を求めていた。ランプの頼りない灯りではなく、木々に陰る太陽でもなく、僕だけにわかる目印の灯。
「私はいつでも貴方の標。どんな悲しみでも覆い隠せない光。迷ったら、思い出してね。その度に私は貴方の手を引いて、正しい道を探し当てて見せるから」
 彼女の言葉を聞きながら、ただひたすらに考えていた事がある。
 鉄錆の街。荒れ果てて、乾いていて、寂しさの漂うあの街で、僕は一人きりで悲しみについて考えていた。多分、あそこに住んでいる人はみんな、そういう事を考えながら生きていた。
 あの街にたどり着いた人はみんな、どこかに悲しみをたたえていた。
 街を出た時にもう戻らないと思ったのは、これから行く先が、悲しみのない場所だと信じたかったからだった。
「ねぇ、リーリー。これから行くのは悲しみの無い場所だよね?」
「ええ。悲しいことは、もう起こらないわ」
 僕は、それが多分彼女の優しい嘘であることを知りながら、気づかないふりをして頷いた。
 悲しいことはもう起こらない。
 そう、信じてみてもいいじゃないか。
「あそこが出口よ」
 リーリーが指を差す。眩しい光に目がくらみそうだった。
 光に溶ける彼女の真っ白な姿が、とても綺麗だ。
「リーリー」
「なぁに?」
「ありがとう。さよなら」
「いつでも、呼んでいいからね」
 僕は彼女の手を離して、次にエコーを自由にしてやった。彼はいい相棒だった。向こう≠ナも会えたらいいな、と思う。


 光の中で僕は思う。
 長い夢が終わってしまった。
 僕がこれから行くのは、喜びも悲しみも驚くほどに溢れている世界。
 迷い道を抜けた先を僕自身が道を繋いでゆく。
 哀しい矛盾と、淡い希望を、この道に繋いでゆく。
 暗い森で僕を導く、天使のことを思い出しながら。
 この魂が、欠落の国へ落ちていかないように。

 ――僕がもう迷子にならないように。


 光の中に消えた少年を見ながら少女は想う。

 悲しみは道を迷路に変えるけれども、私は貴方のそばにいます。
 幸せの意味を思い出してください。
 欠けたものが何だったのか思い出したら、そっと抱きしめてください。

 私はいつでも貴方の道標となります。
 だからいつでも呼んでください。

 その時まで、さようなら。

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